第一部 電気式少年 1 SOHR (1)

1 SOHR

(1)


 病室のカーテンは閉じられている。

 薄暗い部屋の中、殺菌作用があり、人体に消炎と免疫力向上の効果をもたらすフォルサ電燈の青白いあかりが、抗菌ビニールカーテンに囲われたベッドを照らす。ベッドにはひどく痩せた子どもが眠っている。子どもの周りには幾本ものケーブルが伸び、顔のほとんどは酸素マスクに覆われている。病室は点滴の滴が落ちる音が聞こえるほど静かだ。子どもの瞼も指も僅かにすら動かない。ベッド脇に寄り添う母親は、透明の抗菌カーテンに越しに、慈しみとも憐れみともつかない視線を送り続けていた。

 壁の掛け時計が午后八時を示すと同時に、母親の左腕に装着しているライブウェアラブルAI<Kooperコーパー>の信号灯シグナルランプが点灯した。

 母親は空宙で何かを押す動作をした。母親の目の前には、<Kooperコーパー>装着者にしか視認できない立体ディスプレイが存在している。母親は白いゴーグルを装着し、スイッチを入れた。途端に周囲が上海コンベンションセンターのイベント会場に変わる。

 視界の隅に、文字が浮かび上がる。

 <国際医療科学シンポジウム/特別招待席A-20/シェリル・シラー>

 このシンポジウムで最も注目されているのが、若き天才細胞学者ヴィクタ・ニールセン博士の再生医療に関するプログラムだ。ニールセン博士が新型の人工細胞を完成させたニュースはすでに世界中の各メディアで報じられているが、その全貌は未だ秘められていた。このシンポジウムでニールセン博士がこれまでの医学にパラダイムシフトを起こす、画期的な新医療技術を披露するであろうと、誰もが期待を寄せている。

 会場に設置された大型の立体スクリーンに国際医療科学シンポジウムのロゴが映し出され、司会が開幕を告げる。

 短いイントロダクションムービーが流れた後、医療科学の歴史が語られ、さらに国際医療科学研究会会長による式辞、スポンサー紹介などを経て、研究者たちによるプログラムが始まった。脳科学、ウィルス、生体工学など主題は多岐に渡る。休憩時間を挟み、ニールセン博士のプログラムが始まる頃には真夜中を過ぎていた。

 ニールセン博士のプレゼンターとして盛大な拍手に迎えられ登場したのは、有名な映画俳優ヨシュ・シラーだ。十七歳の時にスカウトされ俳優業を歩み始めた彼は、二十七歳の時に出演した、古典文学が原作のラブロマンス映画で、主役の恋人の婚約者を演じ、助演男優賞を獲得した。以来七年間、毎年高額納税者リストの上位に名を連ねている。三十代半ばに入ってなお均整の取れた長身の体型は業界の中でも特に評価が高い。6フィートを越す高身長でありながら、頭蓋は小さく、細い顎のラインが魅力的だ。濃紺のジャケットと、白灰色のパンツという気取らない服装だが、それでもステージ上での存在感は刮目するものがある。完璧な外見とは裏腹に、どことなく馴染みやすさを感じるのは、彼の気取らぬマイペースな動きや仕草から醸し出される温和な雰囲気によるものかもしれない。黄金色きんいろの髪の間から覗いた碧玉サファイアの瞳が素早く会場全体を見渡し、口元に穏やかな笑みを浮かべる。

 唐突に隣から「ご主人は、本当にこの会場にいらっしゃるんですか、」と尋ねられ、シェリルは咄嗟に構えたが、それがエルの主治医マリラ・ビレンキン博士であることに気付き、慌てて笑顔を繕って頷く。

「ええ、上海は大気汚染が深刻だから映像ビジヨンでいいと言われていたのですが、それじゃ会場の雰囲気が掴みにくいから、と。息子のために、なんとしても世間の支持を得なければならないと、そう言ってました。」

「ご立派です。」

 ビレンキン博士の称賛の言葉に、シェリルは曖昧な笑顔で返した。

 当初、シェリルはヨシュの計画に反対だった。息子の病が世間に知れ渡り、話の種になることが受け入れられなかったのだ。ただでさえヨシュの妻が、特に優れた容姿を持つわけでもない一般の小学校教師であることを快く思わない人々が多くおり、婚約が露呈した際は学校に過激なファンからの冒涜の言葉を並べた手紙が届いたり、校門前でトマトケチャップをかけられたりした。SNSなど見る気も起きなかったが、親切な友人が電話で、シェリルが「納得いかないシンデレラ」と揶揄されていることを教えてくれた。互いの両親が親友同士で幼い頃から一緒に育ったという幸運が如何にも納得いかないということらしい。今日、シェリルが産んだヨシュの息子が現代医療では治すことのできない難病であることが世間に知れ渡る。どのような反応が返ってくるかはあきらかだ。何より、自分の愚かな行動が白日の元に晒されてしまうことを恐れた。

 それに、とシェリルは思う。

 医療技術の発展に一役買うと言えば聞こえがいいのだが、シェリルは息子が他者の好奇心とビジネスに利用されるように感じた。現代医療では治せない難病。余命あと一年足らず。一度も自分の足で走り回ったり、友達と遊んだりしたことのない、生命維持装置でなんとか生きている状態の息子が憐れで、そして愛おしくて仕方がなかった。普通の子供と同じような健康体になるためには医療技術の進歩が必要だ。エルだけじゃなく、多くの人を救うことにもつながる、とても意義のあることだ。そう説得するヨシュの気持ちもわかる。最終的にはエルのためだと納得して、ヨシュに同意した。しかし、心の奥には言い知れぬ不安が、古井戸の底に沈んだ泥のように静かに揺蕩たゆたっている。

 ステージ上のヨシュが、聞き慣れたハリのある声で簡単な自己紹介をした。

「本日はお集まりいただきありがとうございます。私がなぜ先進医療の発表の場にいるのか疑問に思う方も多いでしょう。今日、私はスクリーンの中の架空の役割を演じているのではなく、みなさんと同様に、一人の社会的責任を持つ人間として、そして父親としてここに立っています。」

 背後の立体スクリーンに、ヨシュの膝の上で抱き抱えられている赤ん坊が映った。首には医療用コルセットが撒かれ、腕に点滴の針がささっているが、大きな丸い目を開けて笑顔でこちらを見ている。父親と同じ青い目の、まさに天使のような美しい赤子だ。

「私の息子、エルは重度の細胞疾患を持って生まれました。生後半年がたった頃には自力で呼吸ができなくなり、一歳で心臓が半分ほどに縮み、二歳になる頃には目を開けていても何も反応を示さなくなりました。」

 スクリーンの映像は、ベッドで眠っているエルの様子に変わる。痩せて骨と皮だけの痛々しい子供の姿に、会場にいる人々は思わず息を呑む。両手足には包帯が巻かれ、ところどころに血が滲んでいる。

「現在エルは生命維持装置と、ドクターたちの懸命な処置のおかげでなんとか延命している状態です。しかし、病によって細胞の再生機能は日に日に衰え、細胞壊死は避けられず、四歳までは生きられないでしょう。 

 この病気を、この場にいるみなさんならご存じのはずです。十年前に世界中を襲ったインフルエンザウィルス”リモ”のリザーバー女性から生まれた子供たちの多くが、私の息子と同様の疾患を患っています。病名は<特異アイ変質デイー細胞シー疾患デイー>。その子供たちのほとんどは生後三年以内に命を落とし、遺伝子治療や臓器移植も功を成さず、三歳を超えて存命したのは、私の息子エルだけです。」

 会場のあちこちに赤ん坊を抱える母親や、ベッドに横たわる子供の手を握る父親の立体映像が出現し、本当にその場にいるかのように、観客一人一人に向けて笑いかけたり赤子の手に触れさせるような仕草をする。赤ん坊は次第に痩せていき、肌は青白く、ぐったりと力を失う。会場の至る所から啜り泣きが聞こえてきた。

 さらに立体映像が増えていく。病気の人、手足を失った人、車椅子の人などが次々と現れ、頭上に昇り、天井を埋め尽くした。 

「時に私たちはこう自問します。自分はなぜ生まれてきたのだろうと。私は以前はこう考えていました。そこには何一つあらかじめ与えられた理由などないと。この世界の生物の自然な活動の一つとして人は生まれます。そして、言葉を得て、見て、触れて、学んで、考えて、人生という道のりを歩んだ末に、私たちは生きる理由を自ら見つけ出すと。本当にそうでしょうか。私は、もしかしたらこのようにみなさんに語りかけ、無慈悲に失われる命と、その命を救う新たな手段を伝える役割を持って生まれたのではないかと、エルが生まれてから考えるようになりました。そして、エルが難病を患って生まれたことにもきっと理由があるのだと。…」ヨシュは一瞬言葉を切ったが、すぐに話し出す。会場の映像は瞬時に切り替わり、研究施設と研究者の整列した平面写真が前方に現れた。

「息子が生まれ、病が発覚してからすぐ、私は再生医療開発研究所<MAJAマヤ>に協力を依頼しました。そこでは、息子の病だけでなく、これから多くの人の命を救うであろう新しい医療技術の研究開発が行われていました。そして、本日ニールセン博士がお話することは私たちが求めるものを遥かに超えた、目覚ましい医療技術の進歩。いいえ、それどころか、新しい人類の歴史の始まりそのものです。彼は私に希望をもたらしてくれました。そしてこの世界中の人々にも、誰にとってもきっとそれは同じです。みなさんそろそろ待ちきれないですね。それではお呼びしましょう。再生医療開発研究所<MAJAマヤ>開発室主幹、天才細胞学者ヴィクタ・ニールセン博士です。」

 再び会場に盛大な拍手が起こる。

 背の低い、痩せた四十代半ばの男が現れ、ヨシュと握手を交わす。

 ヨシュ・シラーはそのまま舞台袖へ下がる。ニールセン博士が軽く腕を降ると、照明が一斉に落ちて、会場は一時、完全な暗闇に包まれた。

 細かな光があちこちに現れ、次第に数を増し、やがて会場は天の川銀河となった。静かなアンビエントミュージックが流れる。

 シェリルは大きなため息をつき、無意識に握りしめていた拳の力をゆるめた。

 天の川が徐々に接近し、無数の星々が通りすぎて、地球が見えてくる。月を掠め、地球を周回しながら大気圏に入った。スモッグによって濁った空気を突き進み、地上が見えてくる。海に隣接した広い草原地帯に、巨大なガラスの星が埋もれている。空から隕石が降ってきて数百年を経たような光景を作り出しているのが、竣工から五年目の上海国際コンベンションセンターだ。鉄と金剛石でできた星をイメージしてデザインされた、巨大な月白色のこの建物は、スペインの有名な建築物サグラダファミリアの完成と同時に着工された。十二芒星の形(地上に出ている部分は八芒)は、サグラダファミリア9番目の塔、「聖母マリアの塔」の尖塔に輝く「マリアの星」のオマージュでもある。

 映像はコンベンションセンターの屋根をすり抜け会場へ降りてきた。そのまま大地を突き破り、地中へと進み、海中へ潜り、深海へと向かう。

 いつまで続くのかと心配になり始めたころ、海の中に、単細胞生物が現れる。それは細胞分裂と進化を続け、学生時代に習ったような、一連の生物進化の過程を追っていく。人が現れたところでようやく映像が止まり、ステージ上には巨大な人間が裸体で立っている。

「私たちは、進化を知っています。」

 唐突にニールセン博士が声を張り上げた。

「今ご覧いただいた、偉大なる科学者ダーウィンが提唱した生物進化の仮説を知らない人はいないでしょう。それはあくまで仮説なのです。けれど実に真実味のある学説です。現在も私たち生物は進化を続けているのでしょうか。今日は、まず初めに、私共の研究結果についてご説明した後、さらに興味深いこれからの人類の進化についてお話します。」

 ニールセン博士は、研究所の研究内容について説明を始めた。博士のプログラム進行と共に映像も次々に目まぐるしく変化する。

「人工臓器の基となる幹細胞ステムセル<UN壱型細胞>とは、量子コンピューターで細胞の進化を計算し、一万年の時を経て辿り着く進化の果てに生み出された完全な肉体を形成しうる細胞データをモデルに組み上げました。この<UN壱型細胞>は造血幹細胞をゲノム変異させ患者の体細胞情報を含む数種類の遺伝子を注入し、細胞そのものに自己再生プログラムを組み込んで培養した人工多能性幹細胞で、従来の再生医療に用いられてきたES細胞やiPS細胞と似た性質を持ちつつ、より確実かつ効率的に細胞を分化し、患者の体細胞に適合する臓器を生成することができます。iPS細胞と同様、患者本人の細胞が基となるため拒絶反応が起こる確率は低く、また<UN壱型細胞>で造られた臓器は人のそれよりも格段に強く、癌などの疾病に冒されるリスクもほとんどありません。何よりも人体に馴染めば半永久的に老化しないという特徴を持ちます。」

「損傷した臓器や皮膚などを<UN壱型細胞>で生成し、患者に移植することができるのです。これなら長い年月ドナーを待ち続ける必要がないですし、超合金のサイボーグ風義肢を奇異な目で見られることもなくなります。さて、ここまでは、今もよく知られている現代医学のお話しです。私が今日みなさんにぜひ知っていただきたいのは、もう一歩先の、新たな医療の可能性についてです。」

 会場の照明が暗くなり、ステージ上のニールセン博士がスポットライトで浮かび上がる。

「私たちは誰もが病気や怪我をします。滅多に病気をしない人も、老いれば代謝は衰え、細胞は再生機能を失い、体中のあちこちにガタがきます。それに血糖値が上がり過ぎれば失明し、一酸化炭素を吸えば死にます。水の中では五分と息が持ちません。ああ弱い。なんて弱いんでしょう! 私はいつも考えていました。人はなぜ生まれたのか。人はなぜ自我を持ち、他者と自分を見比べ、周りを見渡し、自分が幸せであるのかそうでないかを自問するのか。痛みや苦しみを恐れ、安心と安全を生み出そうとするのか。なぜ想像力を持ち、理想の世界を思い描いて、それを実現しようとするのか。そう。木が空気中に酸素をもたらすように、クジラが海水に流れを生み出すように、私たち人間にも役目があります。その役目とは何でしょう。それは、私たちの能力ヒントがあります。私たちが持つ特別な能力、願う力と想像する力、そして慈しむ力です。私たちは安心で安全な生活を願います。例えば今ここに大きな地震が起きたとしたら、と想像しましょう。多くの人は恐怖に駆られ、逃げ惑い、人を押し退けて外へ出ようとするかもしれません。しかし、この建物を作った人たちは、そのような事態を幾度となくシミュレーションし、安全であるように苦心して設計しました。そこには建築法の基準をクリアするためという理由ももちろんあるでしょう。しかし、もっと根底には人々が安心してこの建物の中で過ごせるようにという慈しみの力が働いています。人の生活を豊かに、便利にしてきたものはそうやって生み出され、変化してきました。自分の慈しみの心から発生した行動や仕事が他の人の安心と安全を生み出したことを知った時、人はとても幸福な気持ちになれます。つまり、人の役目というのは、常に願い、想像し、慈しみを以て苦しみや痛みを回避する術を生み出し、工夫し、変化させ、またさらに新しく生み出すということに他なりません。この私たちの役目は人間社会に留まらず、地球上の全生命へ及び、やがて宇宙へと広がっていくでしょう。」

 ニールセン博士の周囲に太陽系の惑星が現れた。

「そして、私たち医療に携わる人間なら誰もが同じように、病気や怪我に苦しむ人々を救いたいと願っています。その結果、想像力を駆使して、新しい方法を次々と生み出してきました。ここで今までの医療の進歩について長々と講義するつもりはありません。私が先ほどみなさんに知っていただきたいとお話しした、もう一歩先の、新たな医療の可能性。それをお見せしたいのです。

 みなさんにお尋ねします。あなたは今、母親の胎内で着床したばかりの受精卵です。これから細胞分裂をして人間の胎児になります。この時、もしあなたが、「病気になりやすく怪我も治りにくい体」と、「病気にならず怪我もすぐ治る体」のどちらかを選べるとしたら、どちらを選びますか? もちろん、病気にならず、怪我もすぐ治る体を選ぶはずです。しかし残念ながら、私たちは生まれる時に、どんな体に生まれるかなんて選ぶことはできません。私もね、もっと背が高い、筋骨逞しい美男子に生まれたかったんです。どこかのアメリカ人映画俳優のような! しかし、残念なことに、」

 ニールセン博士はそう言って自分の体を聴衆に見せるように両手を広げて肩をすくめた。会場が笑い声に包まれる。

「賢いみなさんはもう私が何を言わんとしているかお気付きでしょう。そう、新たな医療の可能性とは、病気が発見されてから治すのではなく、病気にならない体になる、というものです。つまり、現在の肉体を、新しい強い肉体に入れ替えるんです。」

 今度は、会場にどよめきが生じた。新しい肉体に入れ替えるというのはどういうことか。口々に憶測が囁かれ、ざわめきはしばらく止まなかった。

 ニールセン博士が再び明朗な声で話し始める。

「遺伝子治療や移植手術ではできることに限りがあります。また、母体の胎内にある受精卵の遺伝子に手を加える方法も、成功率が低く、場合によっては逆に脆い肉体が出来上がり、悲劇的な結果を生み出します。それならば、人工臓器のために作り出した<UN壱型細胞>で人間の体そのものを作ってしまい、そこに心を乗せ替えたほうが、ずっと確実で効率的です。」

「みなさんは心を乗せ替えると聞いて、そんな方法があるのか、と疑問に思われたでしょう。そして次に、二つの方法を思いつきます。一つは自分の脳を新しい体に移植する。もう一つは、意識や記憶をデジタル情報化し、新しい脳に何らかの方法でインプットする。残念ながら、そのどちらも実現は不可能です。少なくとも、現時点では。まず脳移植ですが、元々の脳は私のお伝えしている、病気にならない体ではありませんし、脳を乗せ替えた場合、他の神経系と完全に正しく結びつき、情報をやり取りできるようになる確率は絶望的です。脳ほど脆く、複雑な臓器はありません。<UN壱型細胞>で作った脳細胞ならいざ知らず、私たちが生まれながらに持っている脳細胞は頭蓋骨から取り出した途端に使い物にならなくなります。それに、脳移植の技術を確立するための実験ができません。そんなこと、恐ろしすぎるでしょう。私は多くの動物たちを犠牲にしてきました。動物保護法によって二回も投獄されています。おかげでこんなこともうやめようと思いました。けれど、いずれは多くの人のため、いずれは地球上の生命のためになることだと言い聞かせ、大罪を背負う覚悟でここまできました。しかし、そもそも人が病気にならず怪我もすぐ治る体になれば、私たち研究者の手によって生み出される尊い犠牲も不要になるわけです。」

「そしてもう一つの方法ですね。記憶をデジタル情報化して脳にインプットするという方法ですが、これはもしかしたら不可能ではないかもしれません。ただ、記憶は情報としてデジタル化することができたとしても、意識が、人が自分を唯一無二の個人として認識し、思考したり善悪を感覚的に判断する自我をデータ化することができないのです。自我は脳細胞が脳細胞であるからそこに発生します。もっと詳しく説明しますと、脳が生きていることを認識している場合に生じるのです。従って、眠っている時は自我は息を顰めます。では、どうやって私たちは新しい肉体に心を乗せ替えるのでしょう。その方法は、私にとっても、全く思いもかけない場所からもたらされました。宇宙の、それもブラックホールの中からです。」

 会場は再び一斉にざわめき出す。

 一体、この男は何を言っているのだろう。

 そこに、猛禽類のような顔をした背の高い女性が現れた。宇宙物理学者のニコラ・ハッサン博士です。とニールセン博士が紹介する。

 ハッサン博士は唐突に、「ブラックホール表面には宇宙情報記録体ホログラムがある。」と沈んだ声で話し始めた。

 その内部には別次元との交差線上に宇宙の全情報を処理するシステム<SOHRソア>があり、<SOHRソア>は崩壊した情報を再構築して、ホワイトホールから宇宙へ放出していると説明した。これを<五次元収斂運動>と言う。ホワイトホールは銀河よりもさらに大きな円環形状を成しているが、ホワイトホール自体は物質でも力でもないため、人には検知できない。

 そもそも生物とは、宇宙エネルギーを拡散するためだけに存在するという説もある。ならばなぜ地球にしかいないのかという疑問も湧くが、意識が物理法則によって自然発生したものであればなおさらそこには統制が必要であり、エネルギー拡散に用いる力を常に集約し制御する存在があるはずだ。そうでなければ、エントロピーによってでんでばらばらに散り、崩壊するだろう。

 ランダムな動きを促進するためのものだとしてもそれなら植物にも惑星にも言える。

 ハッサン博士は尚も続けた。

「まあ自我の存在意義はさておき、ここで私が言いたいのは、宇宙記憶には人の自我を生み出す<意識体>も含まれるという事実です。ブラックホールは今この瞬間も宇宙全ての情報を集め、<SOHRソア>に送り、粉砕してホワイトホールから放出させている。しかし、他の情報と異なり<意識体>はほとんどそのまま放出されています。そして、今私たちの脳はその情報を受信し、まさに現在我々個々人の自我そのものを生み出す糧になっているのです。そんな遠くからのものがなぜ瞬時に届くのか疑問に思うかもしれませんが、五次元では全てが同じ場所にあり、同じ時に存在しています。大きな紙を広げるのは、紙を小さく折り畳んでいるのと同じなのです。」

 いつの間にか、コンベンションセンターの遮光シールドが全て開かれていた。夕刻に差し掛かり、濁った大気の中で攪拌された陽光がわずかにオレンジ色を帯びて、特殊硬化硝子でできた天井から会場へと降り注ぐ。

 ハッサン博士の姿がステージから煙のように消え、再びニールセン博士が話し出した。

「理論上は死者をも蘇らせることができます。生前に死者の記憶をデータ化しておき、死後、<UN壱型細胞>で成形した新しい脳を<SOHRソア>に接続して<意識体>を受信し、記憶データをインプットすれば、それは全く同じ人間であると言えるのです。ただし、この方法には大きな問題があります。人が死を迎えると、眠った状態とは異なり、完全に脳の<意識体>受信機能が停止し、<SOHRソア>との接続が途切れるのです。そうなると<意識体>の特定がほぼ不可能になります。<SOHRソア>が有する<意識体>は無限です。その中から一人の人間の<意識体>を探し当てるのは、地球上の全ての砂の中から一粒の砂を見つけ出すよりも困難です。」

 ニールセン博士は、月面に<SOHRソア>の記憶情報を計測し、<意識体>受信の効率を高める宇宙記憶中継機を設置する計画があると話す。<UN壱型細胞>で新しい体を作り、月に建設した宇宙情報中継機で、新しい脳に意識を受信させると、理論上は元の体は自我を欠いた睡眠状態となる。

「人が生まれた理由が、宇宙のエネルギー拡散のためにしろ、あらゆるものを新しくする役割のためであるにしろ、宇宙へ飛び出していかねばならないのですが、私たちは今や地球と共に滅びに瀕しています。地球上の空気は濁り、澱み、多くの都市はフェイスガードなしでは外を歩けません。気温は年々上昇し、自然や動物たちは猛烈な勢いで死んでいっています。それなのに人口は増え続けていますが、やがて一斉にいなくなるでしょう。陸地の90%が海中に没し、病気になり、飢え、人同士で食べ物を奪い合って殺し合います。そうならないために、私たちはなおさら新しい肉体を身につけ、環境汚染の苦境を乗り越え地球を救う方法を見つけなければならないのです。」

「そして今、私たちはその方法を、進化という、地球が数億年の間休みなく続けてきた自然の力によって成し遂げようとしています。

 科学の力で、一万年を一気に駆け上がるのです。

 その準備はもうできています。その名も<新人類製造計画>。新しい肉体として生まれ変わり、病や老いの苦しみから解放された未来を共に生きようではありませんか。」

 上海コンベンションセンターのシンポジウム会場は、この日最も盛大な拍手に包まれた。

 シェリルは視界の端の「退出」ボタンを押し、ゴーグルを外した。時刻はすでに深夜二時を回っている。眠気と緊張で疲弊した頭をほぐすため、こめかみを両手で揉み込む。いつの間にか、病室の隅に仮設ベッドが設置されていた。気付かないうちにヘルパーロボットがやってきたらしい。テーブルには冷めたコーヒーも置いてある。シェリルはコーヒーに手を伸ばしかけたが、止めた。

 エルの寝顔を確認して、仮設ベッドに潜り込んだ。

 


(続く)

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