第13話 ディアスポラ

 ひんやりとした空気に体の冷えを感じながらぼんやりと目が覚める。部屋の主がおおざっぱな性格なのでカーテンは半開きになっており、東の空が見える窓から外を見やると、まだまだ暗かったが、地平線に近い空が明るくなりつつあるのが見えた。


 アラームで起きる日と、アラームよりも先に目が覚める日と、半々ぐらいの割合だが、今日はアラームよりも先に目が覚めたようだ。


 今の季節の日の出の時間を正確に把握しているわけではないが、感覚的に5時半ぐらいだろうか、と考える。季節が進むにつれてだんだんと布団から離れるのにエネルギーを必要とするようになってくるが、朝はそんなに弱くない方だ。平均的な人よりは少ないエネルギーで布団から起き上がり、静かなリビングでお茶を飲むことにする。濃い目の煎茶で目を覚ますのが俺の日課だ。


 子供の頃は、ケトルでお湯を沸かしていたものだったが、時代はどんどん便利になっていくもので、今では家庭用のウォーターサーバーがあればいつでもすぐにお湯を出すことができる。


 テレビはあるが、もうずっと電源を付けたことがない。朝の静かなお茶の時間をにぎやかな朝のテレビに邪魔されたくなかった。


 物の少ない静かなリビングでお茶を一口飲む。ほのかな苦みとふわりとした香りが広がり、のどの渇きだけでなく心まで温かく満たされていくような気がする。


 ふと、先日の昼休みの茶道部での時間を思い出していた。


 騒がしいはずの昼休みでありながら、茶道部の茶室には静謐な時間が流れていた。


 学校でもあのような時間が過ごせる場所が確保できるなら、茶道部も悪くないかな。まあ、それでも部活に入るつもりはないんだけど。


 お茶を飲み終えると、ランニング用のウェアに着替えて、玄関へと向かう。着替えの速さには自信があり、お茶を飲み終えてから服を着替え、シューズを履いて玄関を出るまでに1分とかからなかった。夏休みに彰浩に誘われてトライアスロンの大会に出場したが、この着替えの速さならトランジションでも問題なさそうだし、実はトライアスロンに向いているかもしれない、などと考えながら玄関を出て、ランニングに向かった。


 外に出ると、今日は一段と冷え込んでいるのを感じる。外はだいぶ明るくなってきてはいたものの、いつものランニングコースはがらんとしていた。いつもならもう少し走っている人を見かけるものだけど、今日は寒いうえに、少し早すぎたのかもしれない。ふと足元に目を落とすと、ぱらぱらと落ち葉が散らばっていた。


 5キロほど走ると、すでに青空が空全体に明るく広がっていた。時間の経過や季節の移ろいを楽しむのにも飽きてきて、あれやこれやについて再び考え始めていた。


 俺の退学に関する噂も、75日は経っていないにしても、文化祭の準備で忙しくなるだろうし、そろそろ皆飽きてくるころだろうか。


 75日と言うけど、個人的には数日ぐらいな気もする。人の噂も75日という言葉ができた時代には、SNSはおろか電話や電子メールのような情報伝達手段も発達しておらず、噂が伝搬していくのにそもそも時間がかかっていたはずだ。それこそ、新聞に載るわけでもない人の噂話なんて、広がるだけでも1か月単位の時間がかかったのではないかと思う。それが、今ではSNSなんかで一瞬で噂は拡散され、短期集中的な注目を浴びて、また次のネタに移っていくような気がする。


 要するに、クラスの気持ち悪い空気もそろそろ終わるんじゃないかと思う。


 日の出とともに明るい空の下ですがすがしい朝の空気を吸いながらランニングをしていると、たいていの人は自然とポジティブな思考になるものだ。


 そんな調子で楽観的な気持ちになって朝の日課を終えた俺は、しかし、登校後にそれが希望的な思考でしかなかったことを思い知らされることになった。


    ◇


 ランニングを終えた後も、のんびりとお茶を飲んだり本を読んだりしていたために、気づけば門限ギリギリとなってしまった。


 さて今日はどんな調子かな、と思いながら教室に入ると、数人の視線を集めたかと思えば、教室の騒がしさが数段階落ち込んだ。


 ひそひそと話す声、時々感じる視線。

 

 まだ続いていたのか、と思ったが、昨日に比べて教室の空気は一段と気持ち悪さを増しているようだった。多少は皆飽きてくるんじゃないかと思ったけど、逆に勢いを増しているのはなぜだろう。


 考えても仕方ないと思いなおし、俺は自分の席へと向かう。


「横田君、おはよう」


 横田君は、一瞬困ったような表情を浮かべたような気がしたが、すぐに挨拶を返してくれた。


「山本君、おはよう」


 なんだか既視感のある横田君の反応。横田君は何か知っているのだろうか、と気になったけど、自分から進んで掘り起こすような話でもないなと思い直し、前へ向き直って授業の準備をすることにした。


 定刻のチャイムが鳴るや否やブルっとスマホが震えて、メッセージの着信を通知する。ささっとメッセージを確認すると、彰浩から既視感のある短いメッセージが送られてきていた。


    ◇


 例によって退屈な授業を終え、昼休み。学食へ向かおうと、教室を出ようとしたところで、由紀に呼び止められた。


「学食に行くんでしょ。あっくんと?」


 久しぶりに由紀と話す気がするけど、相変わらずのお見通しっぷりだ。


「そうだけど、なんで知ってるの?」


「うーん、なんとなく、そうかなって」


「彰浩に誘われてね」


「そっか。じゃあ、私も行っていい?久々にあっくんとも話したいし」


 おっと。久々のメンツでお昼というのは楽しそうだけど、彰浩が今日話そうとしていることは、由紀に聞かれて具合がいいものかどうか正直よく分からない。


 逡巡していると、由紀はそんな俺を見透かしているかのように言葉を続けた。


「私も、一度ちゃんと話しておきたいと思っていたんだよね」


 何をどこまで見透かしているのか分からないけど、こうまで言われては断ることもできない。


「そうだね、いいよ。四宮達はいいの?」


「あ、ちょっとまっててね」


 由紀はそういうと足早に四宮、陸達のいつものメンツの方へと向かっていく。


「ごめんね、今日、中学の友達の3人でお昼食べることになっちゃった。また後でね」


 そういうと、陸はおっけー、と軽く返し、手島、伊藤も訝し気な視線を向けながらも同様におっけーと返す。しかし、意外にも、四宮からはおっけーという返事は帰ってこなかった。


「あら、お昼は由紀とって決めているのに」


 一瞬、四宮がそんな駄々をこねるなんてと驚いたが、すぐに四宮の意図が別のところにあると知った。


「そういうことなら、私もご一緒させてもらってもいいかしら」


 由紀は、一瞬不安そうな表情になっていたが、四宮の続けた言葉ですぐに明るい表情に戻った。


「うん、じゃあそうしよっか」


 どうやら話はついたようだ。俺の意思の確認どころか、彰浩には現地で事後報告という形になりそうだが、彰浩もそれで気を悪くするようなことはないだろう。


 四宮と由紀を引き連れて両手に花……というのはあまりに居心地が悪すぎたので、2人に先を歩いてもらい、少し後ろを歩く。この2人が並んで歩くとそれはもう華があり、すれ違う生徒たちの視線を集めているのが、はっきりと感じられた。


「それじゃ、村上君も海王だったけど、山本君を追いかけて西高にやってきたのね」


「そうなの。愛を感じるよねー」


 前を歩く二人は、視線を集めているなど気にも留めず、これから一緒にお昼を食べる彰浩についてあれやこれやと話しているようだった。


 ていうか、愛とかそういうのじゃないから、とつっこみたくなったが、2人の間に入っていくのは気後れしたので黙っておくことにした。ていうか、本当に愛とかそういうのじゃないよね?海王のサッカー部が弱いからって彰浩言ってたもんね。


 学食につくと、彰浩はまだ来ていないようだったので、とりあえず席を取って彰浩を待つことにした。ちょうど4人が座れる席を確保し、水を取ってくるよ、と言って水を4人分用意して席にもっていくと、2人とも「ありがとう」と言いながらコップを受け取り、俺も「いえいえ」と返す。


 席に座ると再び2人の華やかさに気付かされた。いつもは彰浩と飯を食うぐらいでしか学食を使わなかったが、四宮と由紀とともに席についていると、これまた視線を集めるようで、一緒に席についているのが少し気まずい気持ちになる。慣れるしかないと思いつつ、早く彰浩が来ないものかとスマホを取り出して彰浩にメッセージを送ろうとしたところで、ちょうど入り口から彰浩が入ってくるのが目に入った。


 彰浩は、俺を見かけると手を振ってくれたが、俺の隣に由紀、はす向かいに四宮が座っているのを見ると、大げさに驚いたようなリアクションをしつつも、すんなりと状況を理解したのか挨拶代わりにニコリと微笑みを2人に向けた。理解の早いやつで助かる。


 席までやってくると、彰浩は少しすまなそうな顔で遅れたことを詫びた。


「遅くなった、すまん」


「全然いいよ。それはそうと、由紀と四宮も成り行きでお昼一緒に食べることになったんだけど、いいかな?」


「もちろん。というか、勇作にもクラスに仲のいい友達ができたみたいで安心だよ」


「親みたいなこというなよ」


 俺は彰浩の冗談に対してテキトーなツッコミを入れたつもりでそう言っただけだったが、3人が少しこわばったような気がした。ほんの一瞬のことだったけど、3人の反応があまりにも同時過ぎて、違和感を感じずにはいられなかった。何か今のやり取りで変なところあったかな。


 彰浩は、すぐにこわばりを解き、四宮に向き直ると、自己紹介を始めた。


「四宮さん、はじめまして、俺はD組の村上彰浩、よろしく」


「A組の四宮理恵よ。村上君、こちらこそよろしく」


「それじゃ、2人とも自己紹介が済んだところで、ご飯買いに行こう。彰浩があまりにも遅いからもう腹減って限界だよ」


 俺がそういうと、4人そろって食券売り場に向かった。4人ともそれぞれが自分の食事をカウンターで受け取ると、席にそれぞれ戻ってきて、全員が揃ったところで示し合わせるでもなく手を合わせて「いただきます」と唱和する。


 さて食べようという段階で、彰浩が口を開いた。


「おい勇作、今日こそはゆっくりたべるんだぞ。今日は特に女子も一緒なんだから」


「いつもゆっくり食べようとしてるんだけどね」


「山本君って、いつも食べるのそんなに速いのかしら?」


 初対面の彰浩にも臆することなく四宮が会話に入ってきた。


「勇作は俺がこれまで人生で見た中で一番食べるのが速い」


 彰浩は大げさな身振りを加えながらそんなことを言う。


「まあ、食べるのが速いのだけが俺の取り柄だからね」


「でたー!ゆーくんの○○だけが俺の取り柄シリーズ。りえ、ゆーくんのこのシリーズには騙されちゃダメだからね」


「騙すだなんて、人聞きの悪い」


「だってゆーくん、なんにでも、○○だけっていいながら、成績の話になると『勉強だけが俺の取り柄』って言ってみたり、テニス部いたころは『テニスだけが俺の取り柄』なんて言ってみたり、中学の体育の授業ではサッカー部員蹴散らしてから、しれっと『サッカーだけが俺の取り柄』とか言ってみたり、ずっと前にピアノを――」


「わかりましたごめんなさい、なんか恥ずかしいのでその辺で勘弁してください」


 俺がそういうと、由紀はあはは、と笑い出す。四宮と彰浩も笑っていた。


「まあ、今日はこの辺で勘弁しておいてあげよう」


「ありがとうございます」


 由紀は勘弁してくれたのだが、今度は四宮が追撃する番だった。


「そういえば、本田君も言っていたわね。体育の時間、サッカー部員すら圧倒しているから賛辞を送ったら、『サッカーだけが俺の取り柄』だなんていうものだから、それなら是非サッカー部にと誘ったのに断られたとか」


 くぅ。口癖みたいなものでつい言っちゃうんだよなぁ。何か褒められたときに、「いやー俺なんて全然ですよ」なんていったら、それはそれで厭味ったらしく聞こえるのではないか、と思ってある時に「これだけが俺の取り柄なんで」と言い始めてからその便利さに気付き、何か褒められたときに、ありがとうに対するどういたしましてぐらいの感覚で返事に使っていたら、いつの間にか「○○だけが俺の取り柄シリーズ」と呼ばれるまでになってしまっていたようだ。


 そんな感じで雑談を続けながら、ご飯も食べ終わろうか、という段階で、彰浩が「そういえば」、と切り出す。すると、由紀も居住まいを正し、空気を読んだのか四宮も由紀に倣った。


 ああ、やっぱりそうなのか、と俺がやれやれ感を出していると、彰浩はそれだけで何かを悟ったようだった。


「あれ、新しい方の話はもう勇作の耳に入っているのか?」


「新しい方?なんだそれは。噂関連の話かな、とは察していたけど」


「なるほど、聞いてはいないけど何かあるのは察している、ってところか。ちゃんと話しておきたいところだけど、これは……」


 彰浩はそこで、四宮の方をチラと見る。どうやら四宮に話していいものか躊躇っているということだろうな。


「四宮のことなら、気にしなくていいよ。噂自体はもう知ってるんでしょう?」


 そう四宮に問いかけると、四宮は遠慮がちに「ええ」とうなずいて肯定する。


「まあ、勇作がそういうならいいか」


「いいよ」


「それじゃあ、結論から言うとな」


 彰浩は言葉をいったん切る。


 もったいぶるつもりではないのはわかっているけど、もったいぶるような間をあけないでほしい。


 少し間を置くと、彰浩は少し腹立たしげな口調になって話を続けた。


「中学時代の、勇作のお父さんの会社の件と、それに伴う家族に関する噂が広まっているみたいなんだよ。山本家は一家離散になった、と。」


 再び少し間を置くと、彰浩は心底腹立たしげな口調になって話を続けた。


「海王でのいじめ問題は、勇作がそれでグレてしまったからなんじゃないかと、先日の噂を補強するような具合になってしまっているからタチが悪い」


 一瞬、ドキリとする。まさか、そんなことまで噂になってしまうとは、とびっくりしたからだ。


「ええっと、まず、俺の父さんの会社が倒産したって話?」


 俺はありきたりな冗談を言うつもりで口にしたのだが、倒産自体が事実である以上、3人とも表情は真剣そのもので、1ミリたりとも冗談としてとらえた者はいなかった。


 父さんの会社が倒産・・・やばい、心の中でつぶやくだけでも吹き出しそうになる。3人ともこんなに真剣なのに。


 父さんは、地元ではそこそこ有名な会社を経営していたが、中学3年生の時に不景気の煽りを受けて倒産に追い込まれてしまった。それは事実だ。一家離散というのは、それに伴って家族が離婚を選択したという話だろうか。


 会社が倒産して、両親は離婚。それだけ聞くと大げさな響きだが、山本家の場合はそんなに悲劇的な話ではなかった。まあ、全く悲しくないわけではないし、当時は少なからずショックを受けたし、そうならないで済むならそうならないに越したことはなかったんだけど。


 幸運だったのは、母さんの実家が資産家だったことだ。いよいよ会社を潰すしかない、となったとき、会社の資産と、父の名義で買って住んでいた家は銀行にすべて持っていかれることになっていた。しかし、万が一にでも、母方の資産まで差し押さえみたいなことになると困るということで、前もって籍を抜くという決断をした上で、ほとぼりが冷めるまで、母方の資産を銀行から守るために父と母は別居することになった。


 ちなみに、父は今、新たなビジネスを考える、と元気そうに飛び回っている。


 それから中学卒業までは、母さん、姉さん、俺の3人で母の実家の持ち物であるマンションで暮らしていた。今年に入って姉さんが海外の大学への進学を決めると、姉を心配した母は姉の世話をするために姉についていってしまった。結果、今、俺は1人でマンション暮らしをしている。


 ようするに、一家離散というのも、事情はどうあれ、家族みんながバラバラに暮らしているという点においては、噂の通りなのだ。


 それにしても、父さんの会社が、倒産……


 いろいろな思考が頭の中でめぐりつつも、本当にしょうもない、小学生レベルのギャグと3人のシリアスな表情とのギャップに耐え切れず、俺はついに吹き出してしまった。

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