手を伸ばした先

水神鈴衣菜

正夢か

 夢を見た。

 誰か大切な人が、どこか遠くへ行ってしまうような夢。

 朝起きると私は手を真っ直ぐ前に伸ばしていて、息があがって、変な冷や汗に背中が濡れていた。

 大切な人が誰だったかは、その必死さによく思い出せない。けれど本当に、その背中を追わずにはいられないほどの大切な人だったのだと心の奥底が確信していた。


 今日もまた、普通でない夢を見たというのに、いつもと変わらない日常が流れ始める。

 顔を洗って、ご飯を食べて、身支度して、誰もいない小さな部屋に向かって「行ってきます」と言い、バスに乗り、出勤する。

 なんだか変な感覚。周りは変わらないのに、自分だけ変わっているような。いや、自分の精神だけが変わっているのか。あの必死さに心だけがまだ置いていかれて、戻ってこないような感じだ。

 会社のみんなもいつも通り、私に向かって挨拶して、またすぐにデスクに向かってパタパタと音を立てる。気持ちが悪い。


 私には恋人と呼べるような存在は久しくいなかったが、つい最近告白してくれた人がいて、私はその人をあまりよく知らなかったけれど勢いでOKしてしまった。こんな感じのいい加減な私でも隣にいてにこにことしてくれて、疲れ果てていた心が少し浮かばれたような気がした。

「……先輩、なんかありました?」

「え、なんかって、なんで」

「いつもより元気がないというか、まだ半日なのに疲れてるというか」

「……半日経って疲れないのは、君が若いからでしょう」

「先輩も若いですよ」

 私の恋人は目ざとい。眠ったのに疲れたなんておかしな話だが、そういうことなのだ。

「……変な夢を見たんだよね」

「へえ、どんな?」

「誰か大切な人が、どこかへ行ってしまう夢」

「大切な人って誰だったんです?」

「それが、よく思い出せなくて」

「僕だったらいいな──あ、でも先輩から離れちゃう夢でしたっけ? それならやだなあ」

 あはは、と笑ってくれる恋人。

「大丈夫ですよ、僕は隣にいます」

 と、肩のあたりで切りそろえた髪をさらっと動かしながら恋人はそう言った。


「先輩、晩ご飯一緒に食べません?」

「……今日?」

「あれ、なにか予定あります?」

「いや、特には」

「じゃあいいですよね。今日は6時までに絶対仕事終わらせてくださいよ?」

「……わかった」

 いつも残業が多い私を、疲れているのだからと気づかってくれたのだろうか。その気配りがありがたかった。

 そして6時、まだパタパタと文字を打ち込んでいた私のパソコンを恋人は奪って、上書き保存のボタンをクリックしてシャットダウンしてしまった。

「あ……もう少しだったのに」

「時間通りに終わらせられない先輩が悪いですよ。さ、行きましょ」

 お疲れ様でーす、と声をあげ、私の手をぐいぐいと引っ張っていく。

「ちょ、転ぶから」

「あー、すみませんすみません」

 悪びれる素振りもなくそう言う。

「先輩なに食べたいですか」

「……え、特には」

「言うと思った。じゃあそうだな、駅前のベーグル屋さんにでも行きます?」

「おしゃれ……」

「大丈夫ですって、先輩かわいいんですから」

「かわいくないし、それ関係ないでしょ」

 気持ちの問題なの、と私が言うと、恋人はあははと笑って、それ以上なにも言わなかった。


「あー、美味しかった」

「……うん、美味しかった」

「気に入ってくれました? よかったよかった」

 そそくさと歩き出してしまう恋人を追いかける。さらさらの髪が夜風になびいた。

 信号が青になった。恋人は一歩を踏み出す。先に渡られてしまうと追いつけないかもしれない。

 待って、そう言うつもりだった。

 手を伸ばした時、彼女の姿は何故か見えなかった。

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