成就

頭野 融

成就

 僕は自室のベランダに立って、白んでいく空の下でスマホで動画を見ている。



◆◆◆



 「私の大学の話はいいから、もっと楽しい話しようよ〜」

 谷井たにい詩乃しのはお酒も回っているのか上機嫌のようだ。日付は変わっていた。

 「あのさ、付き合って初めてのデートあったでしょ」

 「うん、ミラクルパーク行ったやつね」

 「そう! 大学生にもなって遊園地行きたいってのもどうかと思ったんだけど、なるくんがいいよ、行こって言ってくれたから」


 成くんというのは、谷井の彼氏の江坂えさかなるのことだ。


 「なんか、懐かしいね。詩乃が一年生のときだから僕は三年生か。ってことはもう三年前。そりゃ懐かしいわけだよ」

 「お年寄りみたいなこと言うの、やめてよ~」

 「昔の話、始めたの詩乃でしょ」

 「そうだけど、私は成くんっていつも私のしたいこと実現してくれるよね、ってのが言いたかったの」

 「あー、まあいつもってわけじゃないと思うけど」

 「いつもだよ、いつも!」


 江坂は初デートのときの写真を見返そうとスマホを探す。谷井は楽しそうに思い出話を続ける。


 「それにさ、付き合って一年記念のときもさ」

 「うん」

 「温泉行ったでしょ」

 「うん。で、旅館泊まったよね」

 「そう、私が三、四年になったら忙しくなって泊まりとか厳しいかもって言って」

 「だって、僕きつかったし」

 「それでもスケジュールに都合つけて予約してくれたよね」

 「うん。なんとかなったしね」

 「ほら、やっぱり私の願い叶えてくれる」

 「まあだって、僕、詩乃のこと好きだから、できることは全部実現させたいって思うんだよ」

 「あ、うん、すぐそうやって好きとか言う」

 「だめ?」

 「いや、うれしい」

 

 外はまさに夜中という感じでマンションの十階ともなれば、すっぽりと闇に包まれている。まだまだ、谷井は話し足りないようだ。


 「そういえば、なんか私だけテンション高くない? やっぱり、成くんはお酒飲んでないからじゃない? 飲まないの? まだあるよ。レモンサワー好きでしょ」

 「うん、好きだけどさ、詩乃になんかあったときに酔っぱらってちゃ困るじゃん。僕、そんなに強くないし」

 「確かにそっか。うん、じゃあそれでいいや。その分も私が飲むだけ」

 「飲み過ぎはダメだよ。水飲んでる?」

 「大丈夫だって」


 谷井のコップの水がさっきから全く減っていないことに江坂は気づいていない。谷井がアルコールに強いことは事実だが、今晩は量がいつもより多い。


 「でさ、私の希望が叶ったと言えばさ」

 「うん」

 「今だよ、今もって感じ?」


 江坂が首を傾げていると、そのことに思い当たらないほど当たり前だと江坂が感じていることもうれしいのか、谷井が満面の笑みで説明する。


 「同棲!」

 「ああ、そっか。たしかに」

 「同棲できるようになったのも成くんのおかげだよ」


 谷井の言う通り、いま二人は同棲している。江坂が社会人二年目となった今年、このまま会社員としてがんばるから同棲させてほしい、と谷井と一緒に谷井の家に出向いて両親を説得したのだった。谷井の父親は二つ返事で認めたわけではなかったが、娘が一年生の途中から付き合い始めた青年が誠実なことは分かっていた。どこかに泊まるときは谷井に親に連絡するように言っていたようだし、大きなトラブルも無かった。そういうことで、一週間としないうちに同棲の許可が谷井の両親から出た。一方、江坂の家はそういうのに寛大だった。


 「たしかに、僕も同棲したくてがんばったけどさ、それ以前に詩乃が真面目に勉強して親の期待に応えてたからだと思うよ。この子なら同棲させても大丈夫だろうって」


 江坂が思ったことをそのまま素直に口にすると、思いもよらず谷井の笑顔は崩れた。


 「まあ、勉強はがんばってるかもしれないけど、ゼミも卒論も楽しくないよ」

 「そっか。法学部、大変って言うしね」

 「でも、勉強がんばってるのは事実だし、たしかにその点で言えば親の期待通りかも。やることなくて勉強してるだけだけどね」

 「う、うん」


 江坂は言葉を選ぼうとして、結局、微妙な表情で無難な相槌を打つことしかできない。それを見た谷井が慌てて言葉をつなぐ。


 「あ、ごめんごめん。別に暗い話がしたいわけじゃなかったんだけど。こうやって成くんと話してるときは楽しいよ。成くんと一緒のときが一番楽しい」


 谷井が笑ったのを見て江坂は安心したが、


 「そう、一番っ」


 と急に谷井がしゃくり上げ始めた。江坂は驚きつつも背中をさする。


 「私ね、成くんが卒業しちゃってから、大学も一気につまんなくなったし、勉強は難しくなるし、元々そんなに友達もいないから、楽しいこと一気に減っちゃったの。成くんとも一緒に住んでるけど毎日、今日みたいにいっぱい話せるってわけでもないし。いや、ごめんね。成くんは悪くないね。成くんのせいみたいになっちゃってる。ごめん」

 「大丈夫だよ。うん、そうだよね。分かる」

 「うん、ありがと」

 「なんかさ、おこがましいかもしれないけど、僕にできることがあったら言ってね。どんなことでもいいから」

 「本当?」


 谷井が俯いていた顔を上げる。涙がソファーにぽたぽたと落ちる。


 「うん、詩乃の言う通り、詩乃の願いはできる限り全部叶えたいからさ」


 落ち着いた声で優しくそう言う江坂の目を谷井はじっと見つめる。


 「ほんとに叶えてくれる?」


 谷井の念押しに江坂はたじろぐものの、否と言わせない気迫がそこにはあった。


 「う、うん」


 「じゃあさ――」


 谷井が口を開いた瞬間に江坂を襲った嫌な予感は的中した。


 「私を殺して」


 江坂は谷井の言葉の意味は理解できたけれど、それ以上の理解を彼の脳が拒んでいた。楽しくお酒を飲んでいたのではなかったのか。自分は彼女とポテトチップスを楽しく食べていたのではなかったのか。江坂の中に巻き起こるのはそういう感覚だけで彼は返事ができなかった。


 「あ、もしかしてあれ? やっぱ鋭いね。大丈夫だよ。さっき成くんが言った通り私、法学部だよ。今回は私が殺してってお願いして、それで成くんが私を殺すわけだから殺人罪じゃなくて、刑法第202条の自殺関与及び同意殺人に当たるの。だから刑罰としては六か月以上七年以下の懲役もしくは禁錮刑だよ。それに対して、殺人罪は199条に定められていて――」

 「詩乃、詩乃」


 江坂はやっと意識が追いついて来たらしく、淀みなくしゃべる谷井の話をさえぎった。


 「え、それさ、僕が詩乃を殺すことは確定なの?」

 「だって、さっき叶えるよって言ったでしょ?」


 谷井の涙はすっかり乾いているようだった。


 「言ったけどさ――」

 「けど?」

 「詩乃を殺したくないよ」

 「でも、私、殺してほしいんだよ。それも自殺してもよかったんだけど、成くんに殺してほしいなって思ったの。突き落とすだけだよ、そこから」


 谷井がベランダを指さした。


 「あ、うん。そっか」


 江坂は気が動転していて、何がどう、そっかなのかは自分でも分かっていなかったけれど、そう答えるしかない気がしていた。


 「迷惑かけちゃうのは悪いなって思ってる。ごめんね。でも、殺人罪にはならないようにしてるよ」

 「え?」

 「ほら、あれ」


 再び谷井が指さしたその先には、本棚に置かれた江坂のスマートフォンがあった。


 「あれで、ちゃんと全部録画してあるから。二人でお酒とかお菓子とか買って帰って来たところから全部撮ってあるから。私が殺してって言ったところもばっちり入ってるよ。確認してみる?」

 「いや、いい。多分、何回か試してみたりもしたんでしょ?」

 「うん」

 「じゃあ、確認しなくていいよ。それよりもさ、本当に殺さないといけない? 本当に死にたいの?」

 「うん、さっき言ったでしょ。毎日が全然楽しくないの。何のために生きてるか分かんない。苦しむため? 楽しくないことをするため?」

 「いや、うーん。えっとね」


 江坂は言葉に詰まる。が恥ずかしそうに話し始める。


 「おこがましいとは思うんだけどさ、僕といるの楽しいんでしょ? それじゃダメ? 生きるのに不十分?」

 「違うよ、成くん。成くんと一緒にいるのが一番楽しいから、いま死ぬんだよ。楽しいままでいたい。ここで終わりにしたいの」


 そうきっぱり言い放った谷井を前に、江坂は諦めがついたような、何かを悟ったような表情になった。



◆◆◆



 僕は動画を見終わった。そのまま110番を押す。


 「——人を殺してしまいました。えっと、はい、一丁目三番地の1003号室です」


 警察の返事を聞いて僕は電話を切った。


 そして、そのままベランダからスマホを投げた。


 真下に落とさないために。

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成就 頭野 融 @toru-kashirano

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