Ⅲ‐2

 沢ちゃんの一言で、俺は今、地元から少し離れた所にある中華料理チェーン店でバイトしてる。


 店長に呼ばれ、履歴書は次に来た時に持ってこいと言われて、簡単な質問されて、中学時代は柔道部だったって話をしたら、柔道部はホール向きではないという理由で厨房で働くことが決まった。


「じゃあ、まずは皿洗いからやってもらおうかな。誰でもできる仕事ってだけでね、楽だっていう意味じゃないからね」と店長はドヤ顔して「後のことは高杉、よろしく」と去っていく。


「えっ? 俺、受かったの?」

「よっぽどじゃないと、コネ面接のバイトって落ちねぇから」

「そんなもん?」

「そんなもん。じゃあ、作業着に着替えてこっち来いよ」

「今から?」

「今から」


 紹介されてから店に対して何となく感じていた野蛮な雰囲気と見事に一致するこの対応。俺はこの店で働いて大丈夫なのだろうかと心配になってきたんだけど、そんな心配をよそに、高杉が皿洗いの説明を始めた。


「ほとんどの汚れは自動洗浄機が落としてくれるけど、ラー油とか油物の汚れは残るから、そういうのはさすがに洗え。あと、あんかけ系の汚れは乾燥すると固くなって落ちにくくなるから、時間が経ってて固くなってたらお湯に浸けてやわらかくなるのを待て。そんで、洗い終わった皿は、ラーメンの器は麺場。餃子の皿なら焼き場。唐揚げとかに使う皿はフライヤーに。チャーハンの皿とか他の料理の皿は鍋場に置け。それでも分かんなかったら直接見てどこに置くのか探せ」

「えっ? それだけ?」

「いいか櫻井、洗い場は根性だ。根性だけが、お前を守ってくれる。殴っても殴っても復活し続けるゾンビと6時間戦うのがお前の仕事だ」

「全然分かんない」

「すぐ分かるようになるって」


 何だあのバカ、意味分かんねえことばっかり言いやがってと思ってたけど、やってみたら高杉の言った通りだった。ラーメンをでたり餃子を焼き上げる度にもんもんと店内に充満する蒸気。小走りでフロアを駆け回るウェイトレス。鳴り響くオーダーの嵐。ここで自分を守ってくれるのは根性しかない。俺は金を稼ぐことを甘く見ていた。950円の為にここまでするなんて知らなかったし、ラッシュ時の厨房は戦場だという意味を体で理解させられたからだ。


 飲食料理店のラッシュ時はみんな忙しいためか心に余裕が無く、ほぼ全員キレてる。ここには鬼しかいねぇ。


「ほらどんどん洗わないと溜まってくよ~」

「は~い(んなこたぁ分かってんだよ)」


「それ終わったらご飯炊いてね~」

「は~い(無理だっつうの)」


「これお願いしま~す」

「は~い(お前が洗えよ)」


 業務用のでっかい洗浄機が食器を洗い終えるとピーピー鳴って俺はその度にビクビクしてたし、知らないうちに指先の皮がめくれてそこに醤油とか入ってたまらなく痛い。洗って洗って洗いまくってようやく食器が片づいたと思って厨房に皿運んで、帰ってきたらまた食器が山盛りでホールの女の子が「お願いしま~す」って言うから引きつった笑顔で「は~い」


「味噌ラーメンの汁です」っつっても分からないくらい濁りきった洗い場の水を取り替えようと栓を抜くと、化け物の絶叫のような音がして水が流れて栓が生ごみで詰まってそれかき出してまた詰まって死にたい気分にさせられる。


 皿洗いっていう誰にでもできるとバカにしてた作業にガチで追い詰められて、俺は神様が信じられなくなったし何のために生きてるのかさえ分からなくなった。それに俺ずっと「は~い」しか言ってないこの状況とか何なん? 今まで小遣いをくれていた両親に深い感謝と尊敬の念を覚え、俺はすでに初日で辞めるんだと決めていた。体力の限界!


「おい新入り。今日はもう上がっていいぞ」

「は~い」


 最初は結構ムカついてて店長とか「殴ろうかな?」って思ってたんだけど、バイト終了の声がかかる頃には疲れきってて、キレる元気すら無かった。これで終われるっていう安堵感とともに店長に今日で辞めますと言おうと振り返った瞬間だった。猫みたいに綺麗な瞳と視線がぶつかる。


 ゆるふわな巻き毛ロングの栗色の髪。マカロンを連想させる、小ぶりでやわらかそうな唇。白のパーカーに黒いダメージジーンズでボーイッシュな感じの服装なのに女性の持つしなやかさもちゃんとある独特の雰囲気を持ってて、俺はその子に目を奪われた。カワイイだとかタイプだとかも、もちろんあるんだろうけど、そんな言葉では片づけられない別の次元。学校で見たどの女子にも無いスペシャルを俺は感じて、「バイト辞めるとか貴様、一体何を言っちゃってんの?」ってなる生れて初めての一目ぼれの衝撃。俺はいつの間にか女の子が入っていった休憩室へと歩き始めてた。


 ごめんね店長。俺が間違ってたし、調子コイてたっす。

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