第3話 遠い夏休み
「はいごめんなさいよごめんなさいよ」
左右に大げさに会釈しながら難波はミニバンを車線に合流させた。
ふたたび、車は渋滞の中に収まった。
みずるたち一行は、ひとまず道路沿いのコンビニエンスストアに寄って買い物を済ませ、また戻ってきた。
難波は、狭義のドライビングテクニックはともかく、この手のずうずうしい作業は実に上手にやってのける。
「ひひ、相変わらず混んでますね。もう少し店内で時間を潰せば空くかもしれないけど」彼はバックミラー越しにリアシートを見て喉を不気味に鳴らした。
「こんなでかいのがぐったりしてたら、あらぬ疑いがかかりますからね。恐竜を密輸中とか」
声が明るいのは、店内で軽く菓子をつまんだせいだろう。今回はみずるのおごりだった。
運転席のカップホルダーには複雑な色をしたアイスクリーム入り飲料が置いてある。
恐竜ならぬ宇藤木はといえば、どうにかシートに起き直り、コーヒーカップを前にして丁重に黒糖饅頭のフィルムをめくっている。相変わらず目は潤み鼻もぐずぐずしているが、顔色がよくなった気がする。
先にイチゴジャムサンドなるものを食べていたし、多少とも心臓と脳細胞に栄養が回ったようだ。
ほんの少しの達成感を覚えつつ、(けどなあ)とみずるは考えた。
難波といい宇藤木といい、立派な大人がコンビニスイーツ程度でここまで上機嫌になれるとは、いったいなんなのだろう。コンビニが偉大なのか、あるいは彼らが底抜けの善人か、またはただのアホか。
しかし、本当にアホでは困るのだ。
「いやー、今日はせっかくすんごい実験装置とか特大のスキャナーまで見せてもらったのに、思い出すのは君の笑顔でも北上川でもなくて、あのゴミのことばっか。損した気分ですよね」
首をラジオに合わせて振りながら、難波が宇藤木に話しかけている。聞き手はビクターの犬みたいに大人しい。話題はまた久保園邸のようだった。
一行はあの後、みずるの元上司が在籍する、とある試験施設を訪ねた。ちょっとした依頼ごとがあったためだが、先方には親切に応対してもらえた。しかし、国内有数とされるハイテク設備を前に、本来なら興奮を隠さなかったであろう宇藤木も残る二人も、ふだんの調子が出ないままだった。そのせいか元上司には、
「噂とは少し違うわね」と、言われたりした。
(いったいどんな噂か、聞いとけば良かったかな)
「ゴミ屋敷なんざ珍しくもねえ、って思ってたけど、現物を目の前にするとキッつかったですよね。ボクの育ちが良すぎるせいかな」
モゴモゴ聞こえた宇藤木の返事は、君はもっとゴミに耐性があるはずだ、不潔なビデオだらけの部屋に暮らしているのだから、という趣旨らしかった。無事に聞き取れたのか難波が憤慨した。
「失敬な。消毒薬のにおいに囲まれて育った僕は、清潔さに敏感なんです。それに、いまのおうちは薔薇のかおり漂う意識高い系デザイナーズマンションです!」
ぐったりしながらも、また宇藤木がごぼごぼ言った。どうやら、「そういえば久保園家のゴミの配置に妙な調和があった。あれこそデザイナーズゴミ屋敷だ」などと評したようだ。
みずるが、会話に割り込んだ。「新聞社でデザイナーをしてたの、久保園さんだったかな」
「それは失踪した妹のはずですよ」と難波は答え、隣県に本社を置く地方紙の名を挙げた。
「あそこの記者はイヤミな奴が多くて、同じ会社にいたというだけで同情心がダダさがります」と主張する。
「編集局じゃなく広告かイベントの部局にいたみたいだけど、同じ穴のムジナですよね。そうそう、和気さんも広報業務の際は連中に気をつけてくださいよ」
「そんなに嫌うなんて、ケンカでもした?」
とみずるは言ったが、そんな彼女を、紙コップを口に咥えた宇藤木が見ていた。犬みたいだが、飲み物も空になったし、そろそろしゃべる準備ができたということらしい。
「はいはい。少しは元気がでましたか」
みずるは自分用に買った清涼菓子を口に投げ込むと、「小学校の時よね」と、聞いた。宇藤木はうなずいた。
そして前置きとして、自分はごく平凡な家庭に育ったごく平凡な小学生だった、と言った。ふつうにぼんやりと日々を過ごして夏休みを迎え、これまた平凡なじいさんばあさんのところに誘われるまま泊まりに行った。
「そのあたり、ものすっごく疑惑と異論があるけど、今日はあえてほじくり返さないから続けて」
「恐怖の三題噺、よろしくどうぞ!題して怪談・ゴミラジオ」と、難波も嬉しそうに拍手した。
「ほら、ちゃんとハンドル持つ。前を見る」
「へえ。ごりょんさん、すんまへん」
ある年の夏休み。宇藤木少年は祖父母の住む地方都市にひとり出かけ、しばらく滞在した。
家は古い住宅地にあって、適当に自然が残って適当に都会だった。自転車で行ける範囲に城跡や雑木林、市民プール、あるいは古書店や商業施設もあって、小学生を飽きさせなかった。
周りの住人たちも、特に冷たくはないし、逆に内面に土足で踏み込んできたりもない。少なくとも表面上は、夏の期間を穏やかに過ごせる地域だったと宇藤木は解説した、
「しかし山間部にはかつての大量殺人の伝説と、その名残である墓が八つ…」
難波が、いかにも宇藤木の口にしそうなセリフで混ぜっ返しを試みたが、「ぞんなすてきな由緒もない地味な土地だった」と、にべもなく切り返された。
その頃、祖父母はガンマーと名付けた猫を飼っていた。
こいつがなかなかのひねくれ者だったと宇藤木は言った。放浪癖があったし、好かないご近所の庭にわざわざ出向き、フンをする悪習もあった。
「いかにも宇藤木さんの飼い猫って感じ」
「ぢがいまず」
だが、遊び相手にはちょうど良くて、少年はひまがあれば猫を追いかけていた。そのガンマーの見回りコースに立派な公園があった。
丘陵や池、球技用グラウンドも含むかなりの規模があった。緑陰もふんだんにあって、子供から老人まで毎日大勢が訪れた。この公園と道を挟んで二軒の家が並んでいた。
姓は右が小出、左が河原崎。いずれも三代以上この地に暮らしていて、それぞれの住居も、和風と洋風の違いはあれど、どちらも立派な門扉と庭を有していた。
比較的穏やかな土地柄と前置いたが、この二軒だけは違った、と宇藤木は念を押した。
「ぎがみばいがべいぶづ」
「?…いがみあいが、名物になっていたって言いたい?」解読したみずるに、
「ぞう」と宇藤木はうなずいた。
不仲は、それぞれの親の代からというが、互いの世帯主の関係が徹底してこじれたのは、その夏から十数年はさかのぼる。きっかけは、落葉をめぐるつまらない口喧嘩だった。しかし直後に2軒のなだめ役だった地域の世話役が亡くなり、落とし所を失った。それ以降、争いはいつまでも終わらなかった。
誰かが捨てた吸い殻の押し付け合い。生活音に関する果てない論争。路上でのバトル。右が庭木を生え放題にすれば、左側は監獄並みにブロック塀を嵩上げした。
さらに、ある時期を境に問題は一層こじれた。
向かって右側の小出家が見事なゴミ屋敷になってしまったのだ。
「小出のおじさん」と呼ばれた人物は、それまでも一風変わったキャラクターとして知られていた。ただ、彼にはある時期まで気前の良い面があった。いくつも不動産を所有し、地元の祭りにもすすんで寄付をした。そのせいもあり、表立って悪口を言う人は少なかった。
しかし、立派な塀に囲まれた彼の家が、いつしかゴミ屋敷化していた。
「お歳は?」みずるの問いに、宇藤木は大きな掌を使って6の数字を見せた。六十代ということだ。奇行や吝嗇、大量のゴミが目立ちはじめたのは奥さんの入院以来との説もあるけど詳細は不明、とも言った。
とにかく、広い小出家とその庭には古新聞古雑誌、段ボールに空容器が積み上がった。中身のよくわからないビニール袋も次第に増え、気温の高い日は異臭を発した。
小出には息子が一人いた。だが、親子関係は希薄といえるほどだったようで、進学によって家を離れた後はほとんど実家へは寄り付かなかった。母親が亡くなって以降は、全くと言っていいほど姿を見なかったという。
一方、左側の河原崎は小出よりひと回り若かった。その頃は評判の良い美容院を複数、経営していた。
なお、河原崎には宇藤木少年も面識があった。祖母と河原崎の母親が古くからの知り合いであり、スーパーなどですれ違うと挨拶し、孫を紹介するぐらいの付き合いはあった。
河原崎当人は、見た目こそサラリーマン風ではないが、下品な感じはなかった。細身でひょうひょうとして、隣人を憎悪するような、ある意味活気のある男にはとても見えなかったという。
小出家がゴミ屋敷となった当初、河原崎は繰り返し行政に対処を訴えた。
「でぼ、自分ちの敷地内だじ」と宇藤木は言った。役所も訪問はしたようだが、「強制代執行って、簡単じゃないものね」みずるも相槌を打った。
また、二軒と他の家々とは小川や空き地を挟んで少し距離があったため、ご近所も知らない顔をするのは容易だった。ただ、それでも河原崎は引っ越ししなかった。
「意地だっだのがな」
しばらく宇藤木が沈黙した。鼻にティッシュをあてている。
「『ラジオ』がからんでいるんでしょう。ということはつまり、音がうるさいとか言って、ゴミ屋敷での暴力沙汰に…」
みずるが恐る恐る言うと、宇藤木は首を横に振った。確かに河原崎は音楽好きの面があり、大きな音で古いレコードやラジオをかけていたが、それはよくある諍いのひとつに過ぎなかったようだと言った。
現実の展開は、互いの関係の変化の行先は、斜め上だった。
河原崎家もまた、ゴミ屋敷化したのだ。
なんの予兆もないうちに、あれよあれよという間に、瀟洒だった河原崎家には隣と同様ガラクタが積み上がった。
宇藤木が小学生となり、ときどき祖父母の家にやってくるようになったころには、すでにゴミ屋敷は2軒となっていて、たまに大人たちの口の端にのぼっていた。
宇藤木少年も、特に案内されたわけではないのに現場を知っていた。
なぜなら、左右に並んだ2軒は、まるで妖魔が住む家であるかのように独特の気配を発し、あたりを睥睨していたからだった。互いに仲が悪いのは聞き知っていたが、詳しくない少年からみれば、二つの家は共謀して周囲を威嚇しているようにも見えた。
もちろん最初は近寄る度胸などなく、その後も遠巻きに見ていただけだった。
そのうち、特に左の河原崎家に興味を抱き、距離数メートルまで近づいたが、そこで終わった。
庭に足を踏み入れるのは、その夏休みをまたねばならなかった。
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