第2話 ごみ屋敷の冒険

 山を切り開き造成された、かつてのニュータウンの一角に、小さな祠のある小さな林があった。久保園の家はその横にある。事前情報は得ていたものの、玄関前に立った際は、三人そろって変な咳が出た。


 久保園は、集中豪雨による被災をきっかけに家の手入れを放擲、同時にため込み行為を本格化したとされる。

 自宅の門扉から玄関ドアまでのアプローチには、雨と泥に汚れた色とりどりのビニール袋が土嚢のように積んである。室内も雑誌や段ボールが積み上がってあるのが窓ガラス越しにわかった。

 もともとこの家は、久保園の実親がセカンドハウスとして入手し引退後に移り住んだものだそうで、付近住民との関係は当初から淡い。芳美の代になって以降、ほとんど交流はないとのことだった。

「ゴミの日とか、気にしてなさそうだし」と、難波がつぶやいた。


 在宅なのはわかっていた。いちおう約束はしてあったし、外まで大きなラジオの音が聴こえていた。男女のやりとりが続いているのは午前のトーク番組なのだろう。この段階で宇藤木は涙と鼻水が止まらなくなり、うしろに下がった。かわって難波がインターフォンを繰り返し押すと、ゆるゆると家主が姿を見せた。

 久保園は、痩せて背が高く、口数の少ない女性だった。

 首周りの緩んだロングTシャツを着て、白くなった髪を後ろにまとめていた。

 彼女は無言のまま、見知らぬ三人を順繰りにながめた。60歳という実年齢よりひと回りは上に見える顔に浮かんでいたのは、不敵とも悲しげともとれる諦観の表情だった。

 その姿が、みずるにはとても孤独に、強がっているようにさえ思えた。

 そこで、聴取の合間に自治体のフォローについて確認したり、思いつく限りの公的支援の話をしたが、先方の態度は極めてあっさりしていた。ほとんどすべて「はあ。どうも」「そうですか」の返事に終始した。


 車に戻ってから難波が愚痴った。「久保園さんって、妹とは双子みたいに仲が良く、当時はしつこいぐらい捜査の進展を聞きたがったとの話があったんですよ。だから、僕らの訪問に関心ぐらい持ってるかなと思ったら、あれでしょ。感謝しろとはぜんぜん思わないけど、もうちょい協力的だったらなあ」

「家族をすべて亡くし気力が失せたのか、それとも『官』への不信感かな…ほぼ20年ほったらかしだったのは事実だものね」

 実際、聴取は玄関付近で終わって茶のひとつも出なかった。とはいえ、出されて飲む自信はなかった。

 ほこりとにおい、そして姿は見えないが、絶えず小さな虫のいる気配がして、義務感の強いみずるですら途中リタイアを真剣に検討したほどだった。


「でもボク、和気さんを見直しました」と、難波が言った。「あんなバッチいオバハンに親身になってたじゃないですか。よく我慢できるなあ。別に古巣では福祉とかの人じゃないですよね。どこかで現場に出てたりしたんですか」

 みずるは県庁から県警への出向者である。

「わたくし、ささやかな社会経験の大半は空調の行き届いた恒温環境下のもの。じかに県民の苦労に寄り添う経験に乏しいのは自分でも認めております。新人の時、短い期間だけ現場仕事に就いたけど、あれは研修みたいなものだし」

「そっかあ。はるか遠い昔の思い出ですね」

「そこまで昔じゃないつもりなのだけど」

「……はい。そうですね。でも、出向したとたんアウトドアで怪獣・怪人の相手ばっかりとは、まさしく禍特対。ぐふふ」

「そうね。バディは他天体からのお越しだし」

 それが今日の昼前までの話だった。


「ねえ宇藤木さん」ラジオドラマの話に反応するぐらいなら、多少は症状が改善したのだろう。そう考えたみずるは、昼間に聞けなかったことを思い切って投げかけてみた。

「久保園さんについて、少し意見を述べる気力もない?」

 宇藤木が首だけを回し彼女を見た。瞳が濡れ濡れと潤み、気の毒というより色っぽい。

(里帆がいたら、喜ぶだろうなあ)と、彼の優れた容姿に多大な関心を寄せる親友のことをみずるは考えたりした。

「あなたなら、私の見えてないものや、言葉にできないこともわかるかもしれない。今日はご不調だけど、聞くだけでもいいから」

「おっげー」と、宇藤木は盛大に鼻を啜り上げた。

(たれた鼻水を里帆がどう思うかは知らんけど)


「あの人は、いわゆる『ため込み症』だと思われる」みずるは語りはじめた。「ということは、簡単には治らない。対応した経験はないけれど、難しいのは知っている」いったん言葉を切って、みずるは考えこんだ。

「彼女は一人暮らしで、支援に関わる人たちとのやり取りもなさげだった。なにより本人が変化を望んでいない感じ。ということは、これからもずっとあんな状態のままと考えるべきなんだろうか。自然寛解はそう期待できないともいうでしょう。なら、明日も明後日も、来年もずっと…」

「おそらく」という感じでうなずいた宇藤木に、みずるは続けた。

「でも、なぜだか彼女が気になってならない。精神医学の専門知識があるわけでもないし、余計な手出しは本来の担当に迷惑なのもわかっている。でも…」

 彼女はまた黙った。


 口元に指をあてながら宇藤木は軽く目を閉じた。この男が思索のときによくやる仕草だが、今日は白いティッシュがヒラヒラしている。その真剣かつ馬鹿馬鹿しい姿に、浮かんできた笑いを我慢しつつみずるは続けた。

「それでね、昼からずっとこの問題を考えていて、いま宇藤木さんに話して、ようやくぼんやり見当がついてきた。つまり私は、どうして自分がこんなに気持ちになるのかがわからず、悩んでいるのだって」

 宇藤木はうっすら目を開いて彼女を見た。

「久保園さんへの同情ではなく、ただただ自分のお気持ちを考え続けただけなのね。とんだエゴイストだ」

「いや、じがう」間髪入れず宇藤木が言った。しかしまた鼻水がたれはじめ、彼は黙った。


「ああっ、こんな田舎のくせ渋滞とは生意気な」

 難波が叫ぶように言った。いつの間にか車はスローダウンし、道路には大小の自動車が列をなしていた。先はトンネルになっていて様子がよくわからない。

「ご同業の気配はないし、工事か何かのトラブルって感じかな。事故じゃなさそうで良かったっすよね。でも、先に食料をゲットしとけばよかった」

「トンネルを抜けたら、コンビニがなかったっけ」みずるは言った。「でも、一度車列を出ると戻るの大変かな」

「サイレン、鳴らしましょう。一応この車両にもあるんです」

「やめてよ」


 交通情報を聞こうとしてか、難波がラジオのチューナーをいじって、また戻した。そのとたん、さっきのパーソナリティの声が車内に響いた。「これぞ、夏の定番です」との低い声に続いてかかった曲は、「夏の思い出」だった。

「あはは。これ、朝もかかってました」笑った難波が、今度は宇藤木に聞いた。

「そうそう、今日はなんでいきなり庭を見ようとしたんです?表情筋がぜんぶ切れてたあのオバハンも、ちゃんと焦ってたじゃないですか」

 朝の久保園邸では、インタビューアーを難波とみずるに任せ、宇藤木は一歩離れて力なく様子を見ていた。だが終盤になって突然、

「ちょっとずびばせぜん」と、ガラクタが山積みになった中庭への進入を試み、さすがの久保園をうろたえさせたのだった。彼は積み上がった正体不明のゴミを持ち上げようと試みたが、くしゃみが止まらなくなって断念した。

 妙なタイミングで相手のとまどう内容の質問を発し、反応を見るのは宇藤木の得意技でもある。だからみずるも、「普段みたいに口が回らないから、今日はボディランゲージなのかって思った。それとも誤作動だったの?」

 と、難波と二人して笑った。

 それに対して宇藤木が一言、「だじお」と言った。

「…なに?ラジオって言ったの」

「ぞう」

 あの時、ラジオがかかっていたことから、ぜひ庭を確かめたくなった。でも、おそらくもう済んだあとだと感じたので、また後日考えることにして、やめた。という意味のことを言った。


「どういうこと?」

 と、言いながらもみずるは、胸にずっとあったつかえが、スッと取れたような感覚を覚えていた。腑に落ちたというべきか。

 彼女はつぶやくように言った。

「そうだ。やっぱり変だったんだ。あの時、ちょうど『夏の思い出』がかかったよね」

「えっ、和気さんまでおかしくなった。ラジオの電波になにか含まれてた?」と、難波が気味悪そうな顔をした。


 それは、失踪した妹についての質問を久保園に投げかけていた時だった。

 参考とできる話が一切返ってこないのに窮した難波が、

「いやー、今日は暑いし嫌になるのはわかりますが」と言ってから、「なにか、覚えてることってあります?あー、あの年も暑かったなあとか、妹さんがこんなこと話してたとか。なんでもいいんです」と、いささか投げやりに聞いた。

 かけっぱなしだったラジオから「夏の思い出」が流れはじめた。

 そして、有名な出だしの部分が聞こえたとたん、ほんのわずかな間、久保園の口元が歪んだ…ようにみずるには見えた。


 難波は気づかなかったそうだから、見間違えの可能性は高い。つまらない思い過ごしだろう。さっきまで彼女自身もそう考えていた。

 だが、現在の心の中では、「違う」と言う言葉がしずかに揺れている。

 久保園は表情に乏しく、一切の感情が鈍麻してしまったかのようだった。

 しかしその内側には、ユーモアを解する感覚が、まだ枯れずに残っているのではないか。あの態度や物腰、そして孤独で哀れな年寄り女という風貌はもしかして、したたかで複雑な内面を隠そうとするうちに身についた、擬態だったりして。いや、まさか、そんな…。

 とにかくみずるは、自分の説明できない気分の正体が、「違和感」だったのをようやく理解した。


 すると宇藤木が、棺桶からドラキュラが起床するみたいにむっくりと身を起こした。

 そして、再び考え込んだみずるを横目に、「ラジオの怪談は、いいのが思いづがないげど」と、運転席の難波にひどい鼻声で切り出した。

 ラジオ、怪談とゴミ屋敷の三題噺ならこの場で披露できる、と彼は言い、

「久保園さんどは違い、男性でずが」似たところのある人物が主人公であるとも言った。彼女について考えるうえで、もしかして参考になるかもしれない。

「語り手ば、わだじ。小学生のどきのことです。聞く気はありまずか」

 あまり過去の自分を語りたがらない宇藤木の口から、少年時代の話が出るのは珍しい。

「えっ、宇藤木さんに子供の時期って、あったの」

 冗談とも本気ともつかないみずるの言葉に、心外であると言いたげな一瞥を返してから、聞く気があるあるとバックミラー越しにうなずく難波に、

「たしがあれは10歳のなつやすび、わだじは…」

 とまで言いかけて、ふらりと長身をまたシートにもたれかけさせた。

「あれ…駄目」

「低血糖かな」難波が言い、

「そうね。まず燃料をくべてから怪談を聞かせて。お昼抜きだったでしょ」と、みずるも言った。

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