曖昧なれや夏の折

ふゆむしなつくさ

曖昧なれや夏の折


 日曜日のこんな時間に出掛けていったのは、今週がたまたま三連休だったからで。制服を着ていったのは、着ているだけで私が何者なのか証明してくれるこの服が好きだったから。

 ギターを背負っていったのはなんというか、そうしないとっていう強迫観念みたいなもので―――港町を目指したのは、真っ黒な夜の海が急に見たくなったからだ。


 冷房の効きすぎていた東海道線の電車を降りると、生温い夜風が途端に肌を撫でた。マスク越しにも微かな潮の匂いがして、辺りには様々な虫の鳴き声がこだましている。その音量が予想よりだいぶ…いやすごく大きくて、思ってたより静かじゃないんだなぁ、と少しおかしくなった。演奏家の先客は、どうやらたくさんいたみたいだ。


 なるべく近場で綺麗な海の見れる場所をと、あまり深く考えずに選んだこのビーチのある港町は、21時半という時刻にあっても、思っていたよりずっと人の営みの色を残していた。


 まだ開いているお店の明かり、行き交う車のヘッドライトに、漫然とした雑踏。他にも色々。正直、自分の住む町とそれほど違うようには見えない。

 なんだか急に、さっきまで抱いていた漠然とした期待や非日常のどきどきみたいなものが薄れてしまったような気がして、そんな想いを持った自分にちょっぴり驚き、それから呆れる。我ながら現金なやつだなぁ、と。


『憧れなんてのは、中身を知らないから感じるんだ。振り回される程大層なものじゃない。もちろん、悪いものでもないけどね』


 私にギターを教えてくれている先生が以前そんなことを言っていたのをなんとなく思い出しながら、予め電車の中で調べておいたビーチまでの道を確認して、私は歩き始める。あの時は(貴女に憧れている高校生にそれを言うのか…?)なんてちょっとムッとしたものだけれど、今なら少しくらいはわかるような気がした。…うん、少しくらいは。


「っ、涼し…」


 10分ほど歩を進めたところで、急に強く吹いた潮風に思わず呟く。夏と梅雨の境目にあるかのような7月半ばの曖昧な気候は、海に面した立地も相まってか、随分穏やかに感じられた。揺らされて乱れた髪に何気なく触れ、撫でつける。指先に少しゴワッとした感触が奔ってうえっとなったけれど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。



 駅を出てから、体感30分は歩いただろうか。

 進むにつれて少しずつ遠ざかっていく喧騒を背後に感じながら足を動かし続け、ようやく通りを抜けた私の視界が一気にひらけたのは、そんな折だった。


 黒々とした海と、夜灯を浴びて橙色に染まった砂浜。そしていつも間近に在ったら集中力を削がれてしまいそうな程の、少し暴力的にすら思える波の音が、眼前の一面を満たしている。


 その光景に一瞬見惚れてから、このプチ不良旅行みたいな外出中はできるだけ触らないようにと心に決めていたスマホを取り出して画面を点けると、うわ、と驚きが口を衝いた。

 22時、26分。

 単純にペースが遅かったのか、どこかで余計な道にでも入ったのか、はたまたネットで調べたアクセス情報がいくらかサバでも読んでるのか。まぁ理由なんてどうでもいいけど、とにかく私はいつの間にか、自分が思っていた倍近くもの時間を、夢中で歩き続けていたらしい。


 ――もう、終電はない。最初から、そのつもりではあったけど。


「…ふっ、くく、あははは」


 馬鹿なことしてるなぁ、となんだか他人事みたいにそう思って、堪えきれなくなった笑い声が零れ出る。

 こんな時間に、一人で、ふらふらこんなとこまで来て。

 制服で来たのだって、改めて考えたら馬鹿丸出しだ。よく補導されなかったな私、と自分にツッコミを入れたくなるくらいに。それどころか、今この瞬間声をかけられたって何も不思議じゃない。全く、どれだけ浮かれてたんだろう、家を出る前の私は。


「はー、オカシ…」


 スマホを横向きに構えて、ピースサインの指先だけを収めながら、海と砂浜の写真を一枚撮った。それを、先生のラインに送りつける。すぐに一言だけ『は?』と反応があって、直後に『何これ、リアルタイム?』とその先が続いた。『そうだよ』と私も答えを返し、『羨ましい?』と後ろに続ける。

 十数秒経って返ってきた『馬鹿だな、あたしも連れてけよ』という文面を見た時、先生らしいな、となんとなくそう思った。


 けれど、仮に今日誘ったとしたら。

 貴女はきっと来なかっただろうことを、私は知ってる。

 貴女の中の私は、決して大きな存在じゃないってことを、私は知ってる。


 きょろきょろと辺りを見回すと、砂浜へ降りてすぐの位置に、ぽつんと古びたアルミベンチが置かれているのが目に留まった。傍まで降りて背負っていたソフトケースを下ろし、んん…と一度大きく伸びをしてから、ギターを取り出してベンチに座る。

 手入れ大変だぞ、と先生に苦笑いされながらも一目惚れで選んだゼマイティスの中古のエレキギターは、当然だけれどアンプを通さなきゃろくに音は出ない。とはいえ、今はそのほうが良いだろう。ちょっと物足りなくは、あるけれど。


 ポケットからピックを取り出して感覚頼りの適当なチューニングを済ませると、私は最近ようやくそらでなぞれるようになったタブ譜のコードを、ゆっくり弾き始める。

 曲名は確か、レドンド・ビーチ。


「~~~♪」


 コードだけの単純なメロディの上に、うろ覚えの歌詞の代わりに鼻唄を乗せながら、やっぱり私の趣味には合わないなぁ、と何気なく思った。

 でも、私の趣味には合わないこの歌のことが、私は好きだった。

 尊敬する女性あのひとが好きだと言って、教えてくれた歌だから。


 なんとなく思い立ってスマホを点けると、ショートビデオの録画開始ボタンを押して、波打ち際が映るようにベンチに立て掛けた。それから改めて、頭の中の譜面をなぞり始める。


 時折肌を撫でるちょっと乱暴な潮風が、何故だか妙に、心地よく感じた。


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