第一章 犯行と発見
三月十日。わたしは××に殺された。
*
今日午前三時頃。私は駅から少し離れたところにある小さな古いアパートの一室に向かった。三〇一号室。表札には村上と書いてある。玄関扉の前でピタリと止まった。周囲を確認し、ゴム手袋を填めた。鍵を開け、家に入ると、すぐに部屋に向かった。ツーエルディーケイだから、迷うことも無い。案の定、由美子はベッドに仰向けで静かに眠っている。
昨夜は沢山飲んでいたので、安眠だろう。掛けていた布団をめくり、由美子の体を横向きに寝かした。持参したナイロン製のロープを首元に沿って這わせる。そのまま輪を作り、ロープに何度か巻き付け、最後に締める。ハングマンズノットは、強度の高い可動式の結び方だ。
ベッドにビニール袋を敷き、その上に立つ。少しでも汚さないためだ。他端は、天井の照明に括り付けた。ナイロン製のロープは摩擦にとても強いため、未遂になることを防げるだろう。ロープがピンと張るように、ベッドから少し斜めの位置に由美子の身体をゆっくり落とす。
万が一のことを考え、起きないよう、下には掛け布団を置いておいた。身体を打って、変な所に痣をつけないためでもあるが。由美子がうつ伏せになるように動かし、掛け布団をそっと抜く。ロープがどんどん閉まっていく。下半身は寝室の床に隙間なく付いているが、頭は二十センチ程浮いている。上半身は背中が軽く反る。由美子が着ていた寝巻きを丁寧に整えた。綺麗に整っていた寝顔は全く崩れていない。
忘れ物がないか確認した後、シーツの皺を伸ばし、掛け布団も広げてベッドの上に敷いておく。寝室の扉をきっちりと閉め、玄関に向かった。ドアスコープから周囲を確認し、ひっそりと出る。鍵をかけ、ゴム手袋を外す。階段を降りた。アパートに着いてからここまでわずか五分弱。更に幸いなことに家に帰るまで誰にも会っていない上、血痕なども付いていない。私は完全犯罪に成功した。
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三月十日。土曜日。空は快晴で、風も程よく吹いている。絶好の散歩日和だ。まだ十時で夕方の同僚との飲み会までの時間に余裕もあるし、近所の公園まで歩くことにした。道中で、高校の同窓会のはがきを代表して送らなければならないことを思い出した。
自分は断るのが苦手な性格で、つい頼まれるがまま、幹事を引き受けてしまった。そういえば、由美子は公園のそばに住んでいた。ポストより直接渡した方が早いだろうからついでに寄ることにした。
少し歩くと、すぐに由美子の住むアパートに着いた。三〇一号室だったはず。念の為、はがきを確認すると三〇一号室と書かれている。ここは小さな古いアパートだから階段しかない。久しぶりに動いたせいか、3階まででも息があがる。ようやく着いた。
表札を確認し、インターホンを二度鳴らした。が、暫く経っても応答はない。普段、休日のこの時間なら家にいるはずだが、出かけているのだろうか。また、夕方の飲み会前に寄ることにした。
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三月十日。土曜日。今日は昼から由美子とドライブデートだ。待ち合わせは十二時に自分が由美子のアパート下に車で迎えに行くことになっている。一緒にランチを食べに行く約束だ。服装を整え、車に乗り込むとアパートへ向かった。
由美子はいつもなら五分前にはアパートの下まで降りてきているのだが、今日はいない。少し待つことにしたが、二十分経っても出てこなかった。電話をかけたが繋がらないので部屋に向かうことにした。三〇一号室。インターホンを押すが応答が無い。
心配になり合鍵を使い、中に入った。しんと静まり返っている。玄関から呼びかけても、反応がないので、部屋の扉を開けた。
そこには変わり果てた姿の由美子が、静かに横たわっていた。床にうつ伏せの状態で首だけが少し浮いている。首にはロープがきつく巻き付けてあり、その先は天井の照明に繋がっていた。有り得ないような光景に、暫くの間、寝室の前に突っ立っているしか無かった。二分ほど経っただろうか。
ようやく、状況を理解した。由美子は死んでいる。急いで一一〇番を押した。
*
「つまり、川本 純平さん。あなたは村上 由美子さんの恋人であり、十二時から会う約束をしていた。しかし、連絡も繋がらないから合鍵を使って部屋に入った。すると、由美子さんは亡くなっていた。こういうことですね?」
「…はい。」
純平が一一〇番に電話をかけてから間もなくして二人組の刑事が駆け付けた。一人は死体を確認した後、現場検証のために鑑識の応援を呼んでいる。新留というらしい。もう一人の若い刑事、飯田は、純平と遺体発見当時の状況の確認をしていた。純平は動揺のせいか、事情聴取中ずっと手足の震えが止まらず、目が虚ろになっていた。
「純平さん、すみません。もうひとつ聞きたいことがあります。由美子さんに最近変わった様子とかありましたか。そうですね、例えば、仕事場でトラブルになったとか、ストーカーされてるとか。もしくは、精神的に辛そうだったとか。なんでもいいです、小さなことでもいいので。」
「…いえ、特にはなかったと思います。」
「そうですか。分かりました。ご協力ありがとうございます。今はまだこちらとしても、状況確認が足りてない状況なので、後日またお呼びするかと思います。その時はまたよろしくお願いします。」
飯田がそういうと、新留が純平に話しかけてきた。新留は年齢としては四十代ぐらいだ。
「お兄さん、まだ若いのに、大変やな。辛いやろうな。気が滅入ってる時は一人ならん方がええから事情聴取とかが落ち着いたら一旦実家にでも帰りや。」
「ありがとうございます…。」
「またこっちから連絡するかもしれへん。それに何かあったら個別に連絡して欲しい。これ、渡しとくな。あと、お茶。落ち着いたら気をつけて帰るんやで。」
純平はお茶と携帯の電話番号が書かれているメモを渡された。新留は関西の刑事らしい。励ましの言葉だったが、それも今は純平にとって、ただ単語を並べられているようにしか感じれなかった。恋人の死体を見た衝撃は心に深く刻み込まれた。一通り状況説明が終わると精神面も考慮し、一時間ほどで純平は帰ることになった。
「次は近所への聞き込みやな。」
「そうですね。隣の三〇二号室から順に話を聞いていきましょうか。」
刑事二人は駆けつけた応援に現場検証を任せ、聞き込み調査をする。三〇二号室の住民からも三〇三号室の住民からも有益な情報は得られなかったが、由美子の人柄は掴めてきた。近所にもよく挨拶していたそうだ。周りからすると、真面目で礼儀正しいなイメージを持っているようだ。次は三〇四号室のインターホンを押す。
「すみません。警察の者なんですけど。」
警察手帳を見せると、玄関扉が開いた。事情を説明し、何か知ってることがないか、些細なことでも良いから教えてくれと聞いた。
「あの、確か、今朝十時頃に三〇一号室に若い女性が訪ねてきてました。手にはがきサイズの紙を持っていてインターホン鳴らしてたんですけど、応答がなくてすぐに帰って行きました。ちょうど、私がごみ捨てでその女性の後ろを通ったので三〇一号室で間違いないと思います。」
「そうですか。その女性を以前に見た事はありますか。」
「そうですね。あるかもしれませんが覚えてないません。その若い女性は、由美子さんと歳が近いと思います。二十代前半ぐらいに見えました。同級生とか何かでしょうか。お役に立てるかわかりませんが…。」
「なるほど。分かりました。ありがとうございます。」
刑事たちは必死にメモをとっていたが情報が少なく、人を探し出すのには苦労しそうだ。
事情聴取と現場検証でもう既に現場に着いてから三時間が経とうとしていた。今日は一度切り上げて、明日からの計画を立てようと思っていた、ちょうどその時だった。
「あの、すみません。どうされたんですか。ここで何かあったのですか。」
急に後ろから若い女性が二人の刑事に声をかけてきた。明らかに住民でもないし、関係者ではない、部外者だ。
「まあ、ちょっとした事故が起こりましてね。ここの住民ですか。」
先程全ての住民の聞き込み調査が終わったところなのでこの女性が住民でないことは明らかだが、話を引き出すために聞いておく。
「あ、いえ。ここのアパートの三〇一号室に用があって来たのですが、どうも3階が封鎖されていて、通れないようなので何事かと思いまして。」
刑事は驚いた。その女性の用事の目的がちょうど三〇一号室だったからだ。しかも、この女性は若く、由美子と同年代に見える。何か知っているかもしれない。身を乗り出して聞く。
「もしかして、朝の十時ぐらいにも、ここに来ませんでしたか。」
「えぇ、来ました。二回インターホンを鳴らしたのですが応答がなくて直ぐに帰りましたけど。」
若い女性は目を丸くした。朝来たことは誰にも話していないからだ。刑事に、食い気味に聞かれたので、嫌な予感がした。
「話の説明が遅れてしもてすいません。あまり大きな声ではいえないけど、実はね、三〇一号室の住民の村上 由美子さんが亡くなりはったんですよ。それで、調査してましてね。お姉さんにも話伺いたいんやけど、時間いいかな。」
若い女性は驚きを隠しきれず、大きく空いた口に手を当てた。一歩後ずさる。足の力が抜けたのか、ふらふらしている。
「ごめんな、お姉さん。急にびっくりさせてしもて。ちょっと向こう行こか。座って、落ち着いたらゆっくり話そう。お茶取ってくるわ。」
新留が若い女性に付き添って、話を聞いている。飯田は大家に聞き込みをしに行くようだ。
「ほんなら、金岡 瞳さんは、由美子さんに同窓会のはがきを渡しに行こうとしてたわけやね。なるほど。でも、なんでポストインじゃなかったんや。」
「そうです。それは、特に深い意味はないんです。高校の時、親友で長いこと仲良くしてたのですが、最近なかなか会っていませんでした。それで、はがきを渡すついでに少し立ち話できたらと思ってました。」
「ほうほう。じゃあ、最近はあんまり連絡とってなかったゆうことか。」
「…はい。」
「最後に連絡とったんはいつや。そんとき変わった様子はなかったか。」
「確か、四ヶ月程前だと思います。その時は、十二月ぐらいだったので年末実家に帰るかを聞かれました。実は元々実家も近かったのでよく一緒に帰省していました。特に変わった様子はなかったと思います。」
「なるほど。ご協力ありがとう。また、こっちも色々調べるから状況が分かってきたら連絡するかもしれへん。その時はよろしくな。あ、それと、なんかあったら個別にここに連絡して欲しい。ほな、気をつけて帰るんやで。」
瞳は目に涙を浮かべた。ようやく、由美子が亡くなったことを認識した。帰り際、新留に、携帯の電話番号が書かれたメモを渡された。瞳は同僚に電話し、飲み会の予約はキャンセルしてもらった。
「だいたい今日はこの辺までやな。明日から色々やらんと。」
「えぇ。けど、これは事件ではなく、事故の可能性も高いかもしれないですね。密室でしたし。」
「そんなことはなさそうやで。遺書もないし、動機もないし。まだなんも調べてへんからわからんけど。」
「なるほど。事故と事件どちらの線でも考えた方が良さそうですね。」
「そうやなぁ、翌日からの現場検証と聞き込みがカギになるやろね。」
「なるほど。やはり新留刑事は現場慣れしていますね。見習います。」
「少しの経験の差や。飯田も、もう充分立派やで。」
「ありがとうございます。明日からの計画はどうしましょう。」
「そうやなぁ。とりあえず、近所への聞き込みと、あと大事なのは遺族や友人など親しい人へが重要やろな。それと、遺体の状態や、部屋の状況も大事やな。」
「分かりました。明日からも頑張りましょう。」
二人の刑事は、住民からの差し入れの缶コーヒーを飲みながら現場を後にした。
*
三月十一日。早朝から飯田と新留は現場の小さな古いアパートに向かうことになっていた。車には警察手帳、メモ、バインダー、書類、現場の写真、手袋、手錠、警棒、携帯、財布が入った鞄を忘れずに積む。刑事は普通、スーツで活動する。シャツの襟を整え、捜査車両に乗り込む。所謂、覆面パトカーだ。現場に着くと、紺色の制服が見えた。鑑識が先に到着しており、捜査を進めてくれているようだ。ちょうどその時、由美子の両親が到着した。両親に由美子の訃報の連絡が届いたのは遺体発見後すぐの事だった。両親は地方に住んでいたので、翌日の早朝現場に駆けつけた。
「お待たせしてすみません。母の村上 美和子と父の村上 智彦です。由美子が亡くなったって本当ですか。お電話頂いていましたが、未だに信じられなくて…。」
「担当の飯田と申します。残念ながら、由美子さんはご自宅で亡くなられました。ご遺体は検視の後の引き渡しになりますので、明日頃を予定しています。」
「そうですか…。」
美和子は泣き崩れた。智彦はそっと美和子の肩を寄せた。智彦も眉間に少し皺が寄り、目線が下を向いている。
「書類や手続きに関してはまたご連絡させて頂きます。そして、捜査にもご協力していただきたいのですが…。」
飯田はショックを受けている美和子と智彦を気にしながら控えめに言った。両親はどこか張りのない声で言う。
「それは、是非協力させてください。由美子もそれを望んでいるはずです。ところで、その、自殺とか他殺とかその辺は…。」
「あぁ、申し上げにくいのですが、現在時点では断言はできません。自殺と他殺の両面で考えています。大きな声では言えませんが、死因は縊死による窒息や脳循環機能障害と見られています。」
「そんな…。由美子は絶対に自殺なんてするような子じゃありません。きっと殺されたんです。胸が痛くてたまりません。」
「お気持ちお察しします。刑事一同も解決を望んでいます。由美子さんの為にも、是非捜査にご協力ください。」
「はい。」
「名残は尽きませんが、お話をお伺いしてもよろしいでしょうか。」
「えぇ。」
話が長くなりそうなので、飯田は駐車場に建てた捜査用簡易用テントに美和子と智彦を案内した。テントには、長机が二台と椅子が四脚並んでいる。
「どうぞこちらにお座りください。では、早速。ご両親は最近、由美子さんと連絡をとったのはいつですか。」
「確か、私が一週間前、主人が二週間ほど前だったと思います。」
「その時はどんなお話をされましたか。」
「私は、たわいもない雑談をしていました。仕事の方はどうかとか、実家では最近猫を飼い始めたよとか、そういう話です。」
「僕は、次回の帰省の新幹線の予約について話していました。僕達は美和子と二人で旅行に行く予定だったのでその日程と被らないように話したぐらいです。」
「なるほど、分かりました。その時に特に変わった様子はありませんでしたか。例えば、トラブルの話だったり、辛そうにしていたりとか。」
「いえ。そのような事はなかったと思います。電話ではいつも通り、元気で明るい口調でした。」
美和子は当時を思い出したのか、わっと泣き出した。落ち着きを取り戻すまで、一度休んだ方が良さそうだ。飯田はお茶を買いに行った。美和子の隣で智彦は肩を縮こめ、目元を押さえていた。一方で、新留は鑑識と話している。
「もう一度、分かってること全部纏めて言ってくれへんか。」
「はい。まず、死因は非定型的縊死による、窒息および脳循環機能障害、反射性神経障害または、そのうちのいずれかになります。」
「ほう。非定型的縊死いうたら、完全に宙ぶらりんじゃない方やな。まあ、遺体見たら分かるんやけど。ドアノブとかでも座ったり寝転んで自殺できると話題になってたあれやな。」
「そうですね。全体重の約十五パーセントから二十パーセントの体重がかかっていれば、気管と動脈は充分に圧迫されますからね。十数分発見されなかったらもう助かりません。」
「なるほど。死亡推定時刻は分かるんやっけ。」
「えーっと、午前二時頃〜六時頃です。凶器もしくは自殺道具についてなんですが、ナイロン製の三メートルのロープでした。」
「自殺か他殺かまだ断定できないもんなぁ。ナイロンって確か摩擦に強いんやっけ。」
「はい。かなり強度が高いので未遂になることは、ほぼほぼない素材ですね。」
「なるほどなぁ、鑑識はさすがやね。そんで、指紋とか靴の後とか、なんか怪しいもんは見つかったか。」
「それがですね。何も見つからなかったんですよ。ロープから指紋が検出されませんでした。」
「ということは、犯人は手袋付けてたんちゃうか。あとは、自殺か。」
「そうなりますね。でも、由美子さんの指紋すら見つからなかったです。自殺なら、本人が手袋を填めないといけなくなります。」
「確かにそれはそうや。手袋が現場に落ちてたりはしてなかったか。」
「落ちていませんでしたし、現場はとても綺麗な状態でした。」
「ほう。綺麗ってのが、ちょっと引っかかるな。どういうことや。」
「ベッドのシーツや布団が全く乱れていなかったり、部屋の家具、椅子や机、全てが整っていたんですよね。」
「それは気になるな。ロープの先端は部屋の照明についてたってことで間違いないな。」
「はい。かなりきつめに括りつけてありました。」
「それを付けるには、台かなんかに登らなあかん。仮にベッドの上に立ったとして乱れてないのもおかしいし、椅子を持ってきて結ぶんやったら、わざわざ死ぬ前に綺麗に直すなんて考えられへんな。」
「そうですね。今までのほとんどの自殺現場は基本椅子など、自殺に使われたと思うものは散らかっていました。」
「他殺の線で考えていくべきではあるやろうな。ちなみに非定型的縊死なのにわざわざ三メートルもあるロープを使って天井の照明に括りつけてるあたりも変やな。」
「照明からの場合、定型的縊死の場合が多いですし、非定型的縊死なら、新留刑事の仰ってた通りドアノブや棚が多いです。」
「そうやんな。やっぱり、なんか変やね。そういえば、第一発見者の川本さんが言うことには自分で鍵開けたって言ってたから、密室なわけやな。」
「えぇ。部屋の窓の鍵も全て施錠されてましたし、密室ということになりますね。」
「またなんか分かったら報告してもらえるか。」
「もちろんです。」
鑑識は現場に戻り、新留は大家に話を聞きに行った。その頃、飯田がお茶を持って帰ってきた。美和子と智彦に渡すと美和子は力なく受け取った。飯田が遠慮がちに話し出す。
「お待たせしました。一気に聞いてしまってすみませんね。」
「いえ、こちらこそ取り乱してしまってごめんなさい。少し落ち着きました。なんか徐々に実感が湧いてきて、その、なんというか、やるせなくて、居ても立っても居られないというか、気持ちの整理が追いつきませんでした。」
美和子は肩を小刻みに震わしていた。智彦が付き添うが、今にも泣きだしそうだった。飯田は暫くは美和子には話を聞けないなと思った。
「美和子さん、お気持ちは痛いほどわかります。私も以前、事故で身内を亡くしたことがあるんです。…そうですね、一度休憩しましょう。」
「あの、宜しければ僕が話の続きを。」
「そうですね…。では、智彦さんこちらに来ていただけますか。」
飯田は智彦を簡易用テントからアパートの階段まで連れ出した。美和子はテントで座って泣いていた。アパート一階では、新留が大家と話している。
「…お久しぶりです。刑事の新留です。昨日は飯田がお世話になりました。今日もすいませんけど、お話伺いたくて、お時間いいですかね。」
「ああ、大丈夫ですよ。お久しぶりです。良ければ、こちらへどうぞ。」
以前百合子は他の件で、新留にお世話になっていた。百合子は、大家用のアパートの管理室に新留を案内した。管理室の中は狭いが2人が座って話すには充分すぎるスペースだった。
「わざわざすいません。このアパートって鍵は何個あるんです?」
「いえ。ええと、大家用を含めたら三つですね。貸し出しは原則二つまでです。大家用は、緊急時に使いますからね。」
「なるほど。由美子さんが一つ持ってるものとして、合鍵は誰が持っていたか知ってはりますか。」
新留は、川本が第一発見者として鍵を開けていることをもちろん知っている。合鍵は川本が持っているという答えが返ってくるはずであった。
「いいえ、詳しくは知りませんけど、ご家族の誰かがお持ちになっていたと思います。」
「それは本当ですか。では、川本っていう二十代ぐらいの若い男性が三〇一号室を出入していたのを見たことありますか。」
「ええ、それは。確か、村上さんの恋人でしたっけ。三月十日の日に連絡が付かないから合鍵を貸してほしいと頼みに来られましたよ。それで貸しました。もちろん悪用されないために、鍵の貸し出しリストに名前、連絡先、続柄を書いていただきましたけど。帰りも必ず返すように、と言いました。ちゃんと返ってきましたけど、あんなことがあったから、刑事さんたちが到着した後のことでした。」
「ほう。その、三〇一号室分の鍵の貸し出しリストを拝見させてもらってもええですかね。」
「はい、どうぞ。」
新留は貸し出しリストを受け取った。過去六ヶ月以内のデータまでしか保存していないらしい。貸し出しは昨日の川本が一件と四ヶ月前に本人が一件、六ヶ月前に村上 理恵子、続柄は姉と書いている。
*
「お母さん、遅くなってごめん。由美子のことは本当なの?…信じられない。お父さんは?」
「ああ、理恵子着いたのね。…ええ、残念だけど、夢じゃないのよ。お父さんは、飯田さんって刑事さんと一緒にいるわ。」
理恵子は大阪で一人暮らしをしている。理恵子にも訃報が届いたのは昨日の昼のことだったが、新幹線の予約が取れたのが今日の昼着の分だった。テントの中で座っている美和子は未だに目に涙を浮かべている。理恵子は飯田と智彦のところへ向かった。
「遅くなりました。由美子の姉の理恵子です。」
「この度はどうも。刑事の飯田と申します。もう一人、新留という刑事と共に担当させてもらっています。今智彦さんにお話を聞いていまして、理恵子さんもお伺いしてもよろしいでしょうか。」
「ええ、それは構いませんけど、先に新留刑事にも挨拶してきてもいいかしら。どこにいらっしゃるかご存知ですか。」
「分かりました。多分、大家さんと話しているので一階のどこかにいると思います。」
「ありがとうございます。じゃあ、お父さん、また。」
理恵子は新留のところに向かった。鍵の貸し出しリストに、理恵子の名前が載っていたので、新留はあらかじめ話を聞きたいと理恵子に連絡を入れていたのだ。管理室の扉の隙間から刑事らしき人と大家が話しているのが見える。理恵子は控えめに覗いた。
「お待たせしてすみません。姉の理恵子です。話があると聞いて、新留刑事に…。」
「ああ、これは、どうも。私がこの件を担当している新留です。お忙しい中すみません。」
「それは由美子のことなので、全然大丈夫です。それでお話っていうのは、何でしょうか。」
「四ヶ月程前に、ここで鍵を借りていませんでしたか。そのときは、どのようなご用件で。」
「そうですね、借りました。その時は確か、私が東京に来る用事があって由美子の部屋に泊まらせてもらうことになっていました。着いてから連絡しても繋がらないし、インターホンを押しても反応がなくて、合鍵も持っていませんでしたので、借りました。由美子は私が来る日を勘違いしていたようで、その日は川本さんでしたっけ、彼氏の家に泊まっていたらしいです。」
「そういうことか、なるほどな。由美子さんのところにはよく来られていたんですか。」
「いえ、たまにですかね。年に一度程。けれど、最近は仕事や旅行などで、何度か来ていました。二ヶ月前にも来ましたし…ああ、その時も確か、鍵を借りました。」
「それは本当ですか。なら、えらいこっちゃや。ちょっと、佐藤さん、貸し出しリストもう一度見せてもらます?」
百合子は貸し出しリストを新留に渡す。それを、新留は理恵子の前に置いた。
「まず、四ヶ月前の貸し出しは十一月十六日の日で合ってますか。」
「少しお待ちください。」
理恵子は携帯とスケジュール帳を取り出した。メッセージアプリの履歴を遡っていく。あった。どちらも確認すると十一月十六日だ。
「合っていました。ええと、それで二ヶ月前の方は、一月三十日です。」
貸し出しリストには、一月は空欄になっていた。
「んー、困ったな。これはどういうことですかね、佐藤さん。」
百合子は、明らかに焦っている。急いでスケジュール帳を確認し始めた。
「実は私は仕事を掛け持ちしていまして、もう一つの仕事が忙しい時は娘に来てもらっているんです。その日も確か、娘に管理室に来てもらって大家の仕事を代わってもらっていました。伝えるのが遅くなってしまいすみません。」
「なるほど。他に娘さんに代わってもらってた日は分かりますかね?」
「ええと、今月は四日、五日、七日です。」
「事件三日前もですか。今、娘さんはどこにいるんです?すぐに来ていただきたい。重要な情報を持っていはるかも知れません。」
「それが…一昨日から沖縄へ旅行に出ていまして、明日には帰ってくると思います。」
「分かりました。ほな、明日ここに来るように頼んでください。それと、娘さんは貸し出しリストの仕組みは分かってはりますの?」
「ご迷惑をお掛けして申し訳ないです。ええ、一番最初に仕事を任せるときに一通り説明はしてあります。随分前のことですけど…」
「そうですか。まあ、また明日本人から詳しく聞きますわ。理恵子さん、お待たせしてすいません。話の続きをしましょうか。」
新留は理恵子の方に向き直し、理恵子は座り直した。百合子は、娘に連絡を取っていた。一方、飯田は智彦と話していた。
「智彦さんは、由美子さんの部屋にはよく来られていましたか。」
「いいえ、ここに由美子が住み始める前に部屋を下見した時と引越しの手伝いの時ぐらいです。今回、数年ぶりに来ました。」
「そうですか。では、由美子さんがご実家に帰る頻度はどのくらいでしたか。」
「大体、三ヶ月に一回とか、そのぐらいでした。お正月に帰ってきたのが最後です。」
「なるほど。ああ、それで、次回の帰省がそろそろだったわけですね。ちなみに由美子さんの交友関係はご存知ですか。」
「そうです。交友関係ですか、僕よりは家内の方が詳しいと思いますけど。あ、一人知っています。金岡 瞳さんっていうんですけど、その子とは高校時代からの知り合いで、二人とも上京して家も近かったらしく、よく一緒に帰省してました。」
「ほう、金岡さんですか。金岡さんはどんな人だったか分かりますか、人柄とか。」
「…そうですね、僕自身はあまり関わりがなかったので、良く知りませんけど、由美子はいつも本当にいい友達だ、と言っていました。」
智彦は悲しそうに俯く。話の節々で由美子のことを思い出しているのだろう。飯田と智彦の間に絶妙に重々しい空気が流れる。次に、話を切り出したのは智彦の方からだった。
「そういえば、もう一人知っている人がいました。恋人の川本さんです。実際にはあったことがなくて、名前だけは由美子から聞いていましたけど。あ…第一発見者も確か、川本さんでしたね。」
「川本さんのこと、ご存知でしたか。そうです。家に訪ねたときに中々出てこなかったので家に入った。とおっしゃていました。」
「その、なんというか、うまく言えないんですけど…。由美子が親しくしていた人のことを疑うと由美子を疑っているみたいで、なるべく考えたくはないんですけど、状況が状況なので可能性として…。」
智彦はここまで言いかけて口を閉じた。直接的な表現を避けるため、くどい文章になったが、飯田には智彦が何を言いたかったのか察した。
「ええ、可能性の話になると断言はできかねますが、私たちが必ず解決して見せますので、ご安心ください。」
飯田は不安を拭うかのように、語気を強めた。智彦は微かに目線を上げた。
「飯田刑事、川本さんにお会いしたらよろしくお伝えください。捜査の方もどうぞよろしくお願いします。そろそろ、葬儀場の予約を取りにいかないといけないので、今日はこの辺で先に失礼させていただきます。」
智彦は夕方から、葬儀場を予約する為に、現場を離れる予定だった。話が途切れるタイミングを見計らって、美和子を連れて、アパートを後にする。午後四時を回っていた。飯田は新留と合流した。百合子は、娘に連絡がついたようで明日には娘も現場に来ることになった。飯田が智彦と話している間に、新留は理恵子に生前の由美子の様子や家族関係について一通り聞いていた。
「理恵子さん、長い間ご協力有難うございました。ほんなら、最後にもう一度だけ確認させて下さい。由美子さんのお宅にいらっしゃって鍵を借りたのは、十一月十六日と一月三十日でお間違いないですね。」
「はい。間違いありません。」
「分かりました。今日は一応もう帰ってもうても大丈夫なんやけど、なんか聞いときたいこととかあります?」
「そうですね…。特にはないです。」
「そうですか。では、また明日も来ていただくことになると思うので、そんときは、また電話させてもらいます。長い間、お疲れ様でした。」
「分かりました。捜査の方、どうぞよろしくお願いします。先に失礼します。」
理恵子は静かに管理室を出ていった。百合子と刑事二人だけが残る。新留は百合子に出してもらったお茶を飲み干し、立ち上がった。飯田もつられて立ち上がる。
「百合子さん、明日もまた来ます。娘さんにも伝えとってください。お茶有難うございました。ほな、僕らもそろそろ失礼します。」
「はい。こちらこそ、話をややこしくしてしまってすみません。明日もよろしくお願いします。」
飯田も慌てて軽い挨拶をした。新留と飯田は管理室を後にした。夕方にもなるとかなり寒さが体にしみた。しばらく歩いてから、新留は飯田を近くの居酒屋に誘った。飯田は少し疲れた顔をしながら、是非、お供しましょうと答えた。
二人は今回が初めての同じ現場だったので、一緒に飲みに行くのも初めてだった。飯田はてっきり事件の話でもするのかと思っていたが、新留は一切事件の話は持ち出さなかった。たわいもない雑談をした。この二時間は事件のことを忘れて楽しんだ。
居酒屋を出るころには、二人ともすっかりアルコールが回っていた。新留が気をつけて帰りーやと言うと二人は解散した。飯田は家に着くと、かなり飲んだせいかひどく酔っていため、すぐに布団に入り、眠りについた。午後九時頃のことだった。しかし、五時間後にかかってきた新留からの電話で目が覚めた。
「こんな遅い時間に悪いな。早速、本題に入るが、どうやら大家の娘さんが行方不明になったらしい。至急、アパートに向うことになった。」
短い電話を切り、飯田は薄手のコートとコーヒーのカップを手に家を出た。
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