花園で踊れ

無為憂

 

 脳移植は成立しない。しかし、体移植という言葉でならそれは成立する。悲しいかな、両者はともには生きられない。レシピエントとなれば生きられない。存在ができない。

 

 蘭博ことげは、空席になった自身の隣の席を盗み見た。昼休みで騒ぐ高校生たちがことげの存在を掻き消してくれている。ことげの席は教室の中央にある。誰も見ていないというのに、ことげはその存在を気にすることがタブーであるかのように、密かに空白となった席を見ていた。そこに座っていた人間のことを考えながら。

 音埼におは、ことげの隣の席だった。よく学校を休みがちで、ことげがにおと仲良くなったのも、つい先日のことだった。仲が良いとはいうものの過去にたった一回、喫茶店でお茶をし、少しショッピングをしただけの間だ。

 何もすることがなくなって、ことげは腕枕に顔を突っ伏した。ブブ、とスカートに入れていたスマホが震えて、徐にラインを確認する。

〈今日の夜、例のところに来れる?〉

 メッセージ先は、ラインを交換したことも忘れていた、にお本人だった。ことげは例のところ、と聞いてすぐにはピンと来なかった。二人でそこに行ったことは一度もなかった。

 どん、とぶつかる音がして振り向くと、クラスメイトの男の子が水筒に入っていたお茶をにおの机に溢していた。

「ごめん、かからなかった?」

「あ、私は大丈夫」

 すぐさまその男の子は、ポケットティッシュでお茶を拭った。水滴がなくなると彼は満足そうに、ゴミとなったティッシュを捨てに行く。

 しばらくお茶の匂いが漂っていた。

 ことげは、その匂いを気にして、ポケットから除菌シートを取り出した。戻ってきた時お茶まみれの机で勉強する事になるにおの事が可哀想だと思ったのもあるが、机を見つめていた以上、守るべきものだと同情していたのもあった。

 溢れたあたりを基準に、ことげは汚れを拭き取っていった。溢した男の子は既にどっかにいっており、彼の事を傷つける心配もなかった。学校の机は、とくに濡れたもので拭き取ると、机の色を吸って木の色つまり茶色に汚れる。

 その汚れをお茶の汚れと受け取ればいいが、拭いていくと鉛筆やシャーペンの黒鉛の汚れも吸って、除菌シート自体が黒ずんでいく。

 ことげは机を拭く度、自分がこんな汚れたところで普段勉強しているのか、と悲しくなる。しかし、学校の貸与品であること、十何年も使われていることを考えると、そういう感情もしょうがないと捨てるしかない。

 机自体にコーティングがまだ残っている場合、除菌シートはそう汚れない。たいていは黒鉛や消しカスだけの黒っぽい汚れになり、ことげは拭き取った机に満足感を覚えることが出来る。もう何回か拭けば、舌で舐めることも出来る。ことげはアルコールに絶対の信頼を置いている。

 におの机を拭いた流れで、ことげは彼女の机も拭く事にした。除菌シートは三枚目を迎え、軽い掃除の様を呈している。

 彼女の机は、カッターや彫刻刀でところどころ削られた後のある、コーティングが剥がれた木丸出しの机だった。拭いたシートは茶色に黒みがかった色になり、全体を丁寧に拭いたことで、木がちょっと濡れたような感触になっていた。

 ことげは最後に自分の手を拭いた一枚で、汚くなった四枚ほどを包んで、ゴミ箱に捨てに行った。

 

 *

 雨が降っている。作り物の雨はどこまでも疑似的に、しかし雨が体にまとわりつく不快感だけは変わらずに、偽物の雨を演じている。ことげは安宿に泊まって、部屋の窓からにおを待っていた。フルダイブVR世界「アルカディア」。受け取ったメッセージはここであるとことげはそう解釈した。

 席が隣だということ以外に、二人を繋ぐもの。それはアルカディアをやっていること。

「ことげ! お待たせ」

 二つ編みをした、銀髪の少女が宿の前に現れる。挿している傘は、少女の身には少々大きい。ことげが入る事を予期した大きさだった。

「にお……。よかった。あってて」

 ことげは昼間貰ったラインには、了解、としか返事していなかった。傘の開閉を繰り返して、におは水滴を払った。

「今そっちいく!」

 そっち行こうとしたのに、とことげは呟いた。どうせ出ていくのは自分なんだから、と思うがにおの優しさに甘える。

 まもなく、におがドアをノックしてことげと対面する。

「学校どうだった?」

「普通。そっちは? 病院?」

「そう。ことげがいなくて退屈だった。病室って何もないし。本なんか怖くて読めないし、結局出来るのはアルカディアだけなんだよね。ことげが来て良かった! VRは一人でやってても寂しいしね」

 ことげは、におがことげより友達が多いことを知っている。それなのにことげとしか遊ばないのは、友達を制限しているのは……におが言わないだけでことげは薄々感じとれてしまうのが悲しかった。

 におは誰とでも仲が良かった。誰にでも平等に接するし、誰とでも仲の良さを一定に保っていた。

 しかし、ことげとは、だんだんとプライベートまで共有するようになった。

 ことげは、におがなぜ自分を選ぶのかまではわからなかった。付き合いはそれでも浅いほうだった。

 頭上に表示された【Nio】というプレイヤー名をことげはなんとなく見る。におはことげより背が低い。ことげの目の高さにあるネームプレートは自然と目が行きやすい。

「どうしたの?」

「どうもしないよ」

 現実には存在しないそのネームプレートは、ことげに現実と虚構の境界線を曖昧にさせる。彼女はここにいるんだ、という感覚が、しかし時として不在の実感が彼女のもとに違和感を呼び寄せる。

 白のジャンパースカートが、におに似合っていて可愛い。素直にことげはそう思う。

 ことげは、自分が抱いている感情をにおにはまだ告げていなかった。それは友情であるはずなのに、しかし確かなことは何一つわからなかった。

「私ここに来たことないんだよね。ことげのマーキングで初めて来た感じ」

「そうなんだ。結構良い場所だよ、気に入ってる。ほんとの異世界って感じで」

 中世ヨーロッパをイメージされた二人のいるエリアは、さながら異世界ものを想起させる。木造なのがそれらしい。

「におはいつもどこにいるの?」

「私は、新世界エリアにいるよ」

「あーあそこ、なんかごちゃごちゃしてて疲れるんだよね。ロボットとか機械ばっか。未知の技術感あって楽しいけどさ。それに、新世界行くまでのエリアがきつくて」

「ことげは潔癖症だもんね。旧世界エリアは昭和っぽいレトロな汚さがあるからねえ」

 におはことげの言うこと全てに共感して、肯定してくれる。きっと全てではないけれど、そう思わせる優しさと包容力がにおの雰囲気としてある。 

「におはなんで、新世界が好きなの?」

「あー、それは……私が死んだ後の世界が表現されてる気がして、好きなの」

 聞いた手前、答えてくれた以上、変に気を遣うのは失礼だとことげは思う。そう思って、「それは確かに、そういうところあるもんな新世界」

 におはことげの変に気を遣わないところが好きだった。だからこそ、におもにおで、ことげに隠せず本音を言える。

「じゃあ、はやく案内してよ、異世界エリア!」

 におは傘を広げて、ことげの手を握った。

 

 *

 二人がVRで遊び始めてから一ヶ月が経った。入院中のにおはことげをよく病室に呼んでいる。

「今日来てもらったのはね!」

 患者衣を着たにおが、溌剌とした調子でことげをベッドから出迎えた。手にはことげの見たことのないフルダイブ型のVRゴーグルがある。

「それでしょ。見ればわかる」

 病院に入ってから病室のドアノブを触るまで我慢していた分、やっとの思いでことげが除菌シートで手を拭いていると、

「機体(プロトタイプ)、出来たの」

「それが?」

 手を拭き、落ち着いたことげは自分のスマホをいじり始める。

「虚世(ヴォイド)ってもっと凄いところなんじゃないの。VRゴーグルで行けちゃうの?」

「いや、だからちゃんと聞いてよ! これはそのプロトタイプなの! 本物の虚世は、死んだ人にしか行けないから。それに私の生体機体(ヴィオメディア)はまだ出来てないから……」

 人は死んだら虚世に行く。脳(意識)をデータ化し、仮想世界に移住する。人は死なない。あるのは肉体の死のみ。

 におが持っているのは、虚世に行った時の元となるアバターの初期データだった。人は死ぬまでに完璧なデータを作って虚世に行く。

「この機体は、まだ私の容姿しか作れてないんだけどね」

 ことげは、ふうんと曖昧な返事をした。虚世に関する話をにおがする度、ことげは冷たくなる。ことげは、まだにおに死んでほしくなかったから。

「今からこれで仮設空間を作るから、ことげ、入ってきてよ」

「わかった。可愛いにおを見にいくよ」

 ことげは冗談でそういうことを言える様になっていた。におが喜ぶから、ことげもあまり照れずにそういうことを言える。

 作った仮設空間をことげに共有してからにおがゴーグルを被り、ことげもそれに倣って自前のゴーグルを被った。

 そこには真っ白な空間が広がっていた。簡素な作りで、他の空間設定を作るよりも早く、におはことげにその機体を見せたかった。ことげもそれを感じ取って、少し嬉しくも恥ずかしくなった。

「こっち! ことげ。見てみて」

 ことげは、振り向いてから、息を呑んだ。そこには、どこまでも忠実に再現されたにおがいた。VRの世界とは違って事前に設定したアバターなどではなく、正真正銘本物のにおがそこにいる感覚。

「どう?」とにおが聞いても、驚きのあまりことげは言葉を紡げずにいる。

「私は、まだそんなちゃんと確認してないんだからね!」

 少し怒ったような拗ねたような調子でにおは言う。

「なんで確認してないの? こんないいものを」

 それは自然と漏れたことげの本音だった。好感が極まったことげの、ポジティブな言葉だった。

 しかし、におは、

「だって、一番にことげに見てもらいたかったんだもん」

 におはことげに詰められたと思い、言い訳くさくそう言ったが、ことげはそのままの意味で受け取った。

 ことげは既に、はっきりと自覚していた。におのことが好きだと。

 思いっきり腕を伸ばして、におを引き寄せて、そしてことげは抱きついた。

「ちょっ! いきなりどうしたの」

「最高、可愛いよ、にお」

 肩越しに聞こえてくるその声に、におの胸をつく。

 最高の感想をもらえて十分なにおに、それでもまだことげは頻りに可愛い、最高、と零していく。

「もういって」とにおは照れる。焦れったくなる。

「生体機体(本家)が出来るのはいつなの」

 ハグをやめて、ことげはそう訊く。におは目を合わせながら言った。

「半年後かな。まだ体のデータをとるところはあるみたいだし、完成したらもっと完璧になってるよ」

 その言葉を聞いて、ことげは久しぶりに口を閉じた。

(半年後か……せめて一年後が良かった。いや、もっと、もっと先でいい。もっと長生きしてよ、にお)

 最後の言葉を口に出来たら、その人はどれだけ強いのだろう。ことげは思う。もっと長生きしてって、病人の前でそんなことは言えない。余命宣告をされている人の前で。ことげの言葉にならない声が消えていく。 

「閉じるよ」

 におのその言葉で、仮設空間が閉じられ、二人は元の病室に戻った。

 ことげはゴーグルを頭から外すと、日中汗を掻いた髪の汚れを拭うために、すかさず除菌シートを取り出してゴーグルを拭いた。次に使う自分のための配慮だった。

 その動作を陰ながらにおは見ており、くすっと笑う。

 

 *

 最後の外の世界。におは退院した。しかし病状は進んでおり、この機会を逃すともう外には出られないだろう、と医者に言われていた。

 しかし、これと言って外出することもなく、ことげを自宅に呼び寄せて漫画や本を読んでいた。

 におの自室は丁寧に整理整頓されている。長い間主のいない自室は、これといって物が溜まるわけもなかった。それをことげが我が物顔でちょいちょいと汚していく。ことげは、こまめに整頓をする人間ではなかった。掃除が好き、とは本人の言だが、それは本当なのかとにおは半分疑っている。「だって、私潔癖症だよ?」そう凄まれると、におもそれ以上言えなかった。

 夏休みだった。

 ことげはソーダーバーを咥えながらゲームをしている。におの肩に頭を乗せて。

「ことげ、私夏休みの間にどっかいろいろ行きたい」

 におがそう言うと、ことげは姿勢を正した。ことげは、外に出て遊べるほど、におはもう体が良くないことを知っていた。自分では気丈に振る舞うが、その綻びはずっと前からことげに知られている。

「わかった。でも今日はにおの部屋でゴロゴロさせて。明日になったら行くところ考えよ」

「うん……」

 ことげがそう言うものだから、におは否定出来なかった。におに複雑な感情が渦巻いた。誰よりも自分の限界値を知っているせいで。

「にお、大丈夫。好きだよ」

 許してもらえる様に、甘い声でことげは言う。ブラトップにショートパンツの格好のことげは、端的にいって綺麗だった。ハリのある胸だとか、体を曲げた時に少しだけぷに、とするお腹の肉だとかそれでいて背が伸びた時にはくっきりとするくびれだとか。それらがことげの綺麗の全てを助長していた。

 におにとって、そんな体型のことげは誇りだった。病気が悪くなってから恒常的に運動不足のにおは、良い体型は作れるものではなかった。だからといって太り気味なわけでもないが。

 におが、たるっと肩から下ろしていたキャミソールの紐を戻そうとすると、向き合ったことげに手を止められる。そして薄手のパーカーをゆっくりと脱がされる。近づいたことげに、におは首筋を舐められる。

 冷房のよく効いた部屋でのことだった。

 におはじれったくなり、ことげの顔を近づけた。自分の舌で唇を湿らせてから、そっと唇を重ねた。

「あ、大丈夫だった⁉︎」

 におは咄嗟にことげの潔癖症を思い出す。人の作った料理が食べられない、とか人が触った物を触ってから自分の物を触れない、とか言っていたのを思い出す。

「大丈夫、におは大丈夫だから」

 そう言って、ことげは自分から唇を差し出した。

 しかし、におがことげの指を咥えようとすると、除菌シートを渡され、お互いに手を拭いた。全てが終わった後も、ことげは除菌シートで手を拭いた。

 におは、拭かれることを少し悲しんだが、彼女の性分を詳しく知っていた分、我慢などしていない本当のことげとして居てくれて嬉しく思った。

 

 *

 結局、二人がにおの家の外で遊ぶことはなかった。におが提案したのは、アルカディアを巡ることだった。それなら体に支障が出ない、とことげは密かに安堵した。

 アルカディアの世界を巡ること。それがにおのやりたいことのひとつだった。

 アルカディアプレーヤーが、本来自治など存在しないエリアの自治権をめぐって抗争を仕掛けた時、その荒廃したエリアを見たにおは、「虚世ってこういうところなのかな」と言う。「そうであってほしくはないな」とも。

 また、バイクを使ってアルカディア世界の端までたどり着いた時も、「この先はもしかしたら虚世に繋がっているのかな」とぼやいた。

 着々とにおは虚世に執着、心を侵食されていった。その嘆きを、ことげは全て「死にたくない」という言葉として受け取った。掛ける言葉もなかった。

 アルカディアの最果てに辿り着いた時には、夏休みは終わり、におは高校に退学届を出していた。

 におとこよげはお互い、メイド服を着てバイクに跨り、そして最果ての地で、海を見た。

 二人を白い塔が出迎えてくれた。塔のテラスから手すり子が伸びてあり、そこに腕をもたれかけさせ、二人は海を見た。

「私たち、一周したんだね」

「一周、一周とはまた違うかな? マップの最端までいったプレイヤーなんて、私たちしかいないよ」

 におの言葉に、ことげは冷静に返す。異様な高揚感と達成感が体の隅々まで駆け巡っていた。

 ことげが慈しむように手すりを撫でる。それを揶揄う様に、

「大丈夫? ここには除菌シートはないよ?」と言った。

「大丈夫。ここに菌やウイルスはいないから」

 におは笑った。

「私、アルカディアのそこが好きなの」

「菌いないところ?」ちょっと冗談ぽく言う。

「うん。どこまでも滅菌されてる。どこを触っても、誰を触っても、私は安心できる。もちろん、におにもね」

 ことげも笑った。

 薬物療法でもう失ってしまったにおの長い髪が、潮風とともにここではよく靡いた。

 二人は、太陽が海に沈むまで、そこにいた。


 *

 じきに、におの生体機体(ヴィオメディア)が完成した。それはもう、におがベッドから離れられない、動けない時期に至っていた。

 衰弱。衰弱、という言葉には儚さを覚える。先が決まっていること。それだけなのに。いや、だからこそ。におは──。私は──。

 ことげは痩せこけていくにおを見ながら、唇を噛み締める。過去に一回だけ、におは言葉を荒げたことがある。自分の惨めな姿が、最愛の人に見られている苦痛。ことげに「もう来ないで」と言ったこともあった。しかし、ことげは、それを拒否した。「惨めなんかじゃない」と一蹴して。

 その時のことだった。ことげは、あることを思いついた。それは一つの細工だった──。

「それにしても生体機体によく私の姿も取り込んだよね」

 生体機体が完成した時のことを思い返しながら、ことげは言う。ベッドの脇でぎこちない笑みを浮かべながら。

「お母さんたちが、私を一番良い虚世保険に入れてたから。先立つ娘の為にね」

 生体機体は名前の通り、故人の一生を現す、記録するメディアだ。死後の世界でも、限りなく生前の姿に近いアバターでいたい。しかし夭折すると、成長した姿、年老いた姿のアバターは得られない。その補填として別のアバターを作ることが出来た。それをにおと家族は保険で賄った。

「遊びだよ。私にとっては、遊び……」

 ことげは静かににおの手を握った。

「私、死にたくない…………」

 におの発した言葉は、漠然とした恐怖だった。それはあまりにも身近で、あまりにも巨大な、恐怖だった。それとは別に、におには惨めで悲しい現実を襲う希死念慮があった。どれもこれも全て生きづらさの塊だった。どうしようもない塊。

 何も言えないことの苦しさを感じながら、ことげは歯噛みした。それを見て、におは、

「今のことげって、私は不幸ですって顔をしているよね。友人が死ぬ間際で、不幸ですって」

「っ違っ──!」

 左目から流した、におの涙を見て、ことげは何も言えなくなった。言えなくさせられたのかもしれない。そうであると自覚させられてしまったから。

「ごめんね、恋人にこんなひどいこと」

「ううん、なんでも言って。なんでも言って良いんだよ」

 ことげは話尽くしてにおと別れたかった。におは、綺麗な思い出のまま、別れたかった。しかし、ことげがこの選択をした以上、二人は最後までお互いと向き合わねばならない。

 弱りきった体から、におは声を絞り出す。

「ねえ……」

「……」

「最後に……、」

「……」

「アルカディアに行きたい」

「──うん……」

 ことげは、におの頭にゴーグルをはめる。ついで、自分の頭にはめ、二人はまた旅立った。


 *

 音埼におが死んだのは、それから三日後のことだった。

 

 *

 ことげは、告別式の時まで、におにゴーグルをはめた時のことを思い出していた。ことげは式場内の鯨幕に囲まれながら、白黒の幕のように、その記憶をオンオフとさせている。

VR世界にフルダイブしたことがきっかけで死期を早めた、と医者に言われていた。仮想世界にフルダイブすることは相当な体力を使う。ことげはそれを知らないわけじゃなかった。

 医者の言葉がことげの頭の中を永遠にループしている。におの家族からは、ことげちゃんのせいではないよ、と気遣いの言葉を貰っている。

(何も知らないクラスメイトの泣き声が妙に心に残ってうるさい)

 ことげは、におのゴーグルをとるために一足先にアルカディアから現実に戻る。

 ことげが本当に、傷ついているのは、医者の言葉なんかじゃない。

(まだアルカディアに居るにおのゴーグルをはめた顔は、死者の顔のようだった。現実と接続されていない顔。美しいと思った。なによりも。血色のない唇と鼻の穴だけが見えているだけの顔なのに。それが私の罪だと思う)

 告別式が終わり、花束を抱え白塗りの棺に入ったにおをことげは眺める。最後に、におの意識のコピーをとったのは、死ぬ一日前だった。良くも悪くも。

 虚世に意識がアップロードされるのは死後一週間後だという。

 

 *

 ことげの細工が始まる。におは独り、死後の世界で寂しく居るだろう。ことげは火葬後、におの家族に言って、におの自室に上がらせてもらった。

 機体(プロトタイプ)のゴーグルを抱えて。かつて寝転んだにおのベッドでことげは横になる。

「待っててね」

 ことげは、生体機体が完成した時、一部データを機体の方と同期させた。

 要は虚世に同じアカウントでログインするという作戦だった。しかしセキュリティの問題ですぐ弾かれるだろう。

 ──だからと言って、私がやらない訳がない。数分の命でも、会いにいく。伝えたいことを伝える為に──

 ゴーグルをはめる。

 今までのフルダイブ型VRとは比にならないくらいの意識が吸い込まれる感覚をことげは覚えた。

 目を開けると、花畑だった。青白い色をした蓮華の花畑、そして数々の青色の蝶々が周りを飛んでいる。その中で、におは座っていた。

「にお……?」

 恐る恐ることげは確認した。顔はにおそのものだった。紛れもない本物。そこにはアルカディアのようなネームプレートは存在しない。

「誰?」

 におの声を聞いて、ことげは戦慄する。声は普通のVR世界における模倣されたシステム音声ではなく、いつも聞いていたにおの声だった。生体機体は声まで再現されているのかとことげの体は感動で震える。

「ことげだよ」

「ほんとう? ほんとうのほんとうに?」

「うん。ほんとうのほんとうに」

 ことげはそう言って、自分のアバターを変更した。ことげにとってそれは賭けだった。データはあったとしても、虚世(ここ)で作用するのかわからなかった。

 登録していたことげのアバターに変える。

 ことげの周りの空気が蜃気楼を起こす──。

「ことげ──!」

 におがことげを視認した瞬間、におはことげに抱きついた。

「なんで! なんで!」

「数分しか居られないけど、きたよ。にお」

 におはことげの言葉を聞くなり、泣き出した。

「私、ずっとここに一人で。私、死んだんだよね?」

「うん。あっちでは、火葬も済ませたよ」

「そっか、もう私はどうあがいても戻れないんだ」

「にお。伝えたいことがある。私の一生をかけた言葉」

 におは涙を止めて、静かにことげの言葉を待った。

「私が再びここに来るには、におと会えなかった今の時間よりもすごい時間がかかると思う。けれど、私はずっとにおのことを忘れない。最後の最後まで。におは私の一番好きな人だから。だから!」

 言いたかったことを、声を振り絞った時、ことげのアバターが揺れ始めた。

(もう長くない──!)

「ずっと待っててね! 一生分の土産話をするから!」

 ことげは、におに最後まで言葉を届けられたか自信はない。

 けれど、花園の蓮華の香りは薫った。

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