第19話 偽物

天正9年11月24日、武田家から身柄返還された源三郎は、織田家において「勝長」として元服し、織田源三郎信房と称した。

「二度も元服式をするとは、幸運な奴だ」

式終了後、信長の次男信雄はそう言って笑った。式には信忠は勿論、三男の信孝も参列していた。兄弟4人は揃って正装し、信房を囲む様にして大広間の中央に用意された床几に腰かけていた。他の参列者は退散したので、4人だけが残っている。

「父上との対面はどうであった?」

信孝が聞いた。成長した信孝は、ますます容姿が信長に似て来た。少し気の短いところがあるが、頭脳明晰で思慮深い。その信孝が、これから1年半ほどで、信長の家臣である秀吉に討たれ、非業の死を遂げるとは、ここにいる誰もが予想だにしない。

「お父上との再会は、感無量でございます」

そう言って信房は目頭を熱くした。

「同席したかったのう」

信雄は悔しそうに唇を噛んで膝をうった。

「なぜそんなに同席したいのだ?」

「三七郎(信孝)其方は興味がないのか?長年人質になっていた息子との親子対面ぞ。さぞ盛り上がったに違いない。退屈な日々の遊興の様なものだ。感動して涙を流したいのだ」

「前々から言おうと思っていたが、其方は誠に不謹慎な男」

「なんじゃ三七郎、兄に向かって。口を慎め」

信雄は顔を赤くして閉じた扇の先を信孝に向けた。

「よせふたりとも。源三郎が驚いておるではないか」

「いえ、わたしは…」

うつむく信房の肩に信忠はそっと手を置いた。

「苦労させたな」

信房は顔を上げ、兄の顔を見た。以前、松姫に見せて貰った肖像画の中の信忠よりも、少し頬がこけて見えるが、瞳の奥にあるやさしさは、絵の通りだった。信房は心が温まるのを覚えた。それは松姫と過ごす時に感じた安心感と似ていた。

帰国の日、松姫が信房の住む館まで見送りに来てくれた。月に一度は顔を見せてくれた松姫の表情は、その日も明るかったが、ここ一年は、どこか物悲しい雰囲気を纏っていた。いつも一緒にいたさくらが離れてしまったことが原因だろうと、松姫と会うたびに、信房も心を痛めた。

出立の日、突然、松姫が信房の手を取り、広げた掌の中に何かを置いた。そして顔を近づけ、にこりと微笑むと、信房の耳元に唇を寄せた。

「ご武運をお祈りいたします」

そう小さく囁くと、信房の手をくるむように握り、今度は声には出さずに、「ごめんね、ありがとう」と言った。その時の松姫の瞳が忘れられない。女とは、これ程に頼りがいのある、そしてやさしい存在なのだと思った。一方で、悲しみの淵にいる松姫を、自分が守りたいという衝動にかられた。以前よりも随分と痩せて、か弱くなった肩を抱きしめたい。もう片方の手が小刻みに震えながら姫の身体を添った時、松姫は笑いながら涙を拭い、身じろいだ。

帰りの道中も、松姫が頭から離れなかった。17歳という未熟な自分を呪うような気持ちもあった。実の母親の愛情を知らず、他家へ養子に出され、その後、人質となった。戦の経験もない。織田信長の五男という肩書以外に一体、自分に何があるのだろうか。甲斐へ引き返し、松姫を連れ去ろうか。

そんな勇気はなかった。


「千代が感極まって泣いているぞ」

信忠はそう言って、広縁の端の方で正座し、着物の袂で顔を隠して泣いている信房の乳母に目をやった。

「これはこれはまるで以前に見た光景」

「なんだ三介(信雄)またか」

溜息交じりの信忠を見ても、三介は口調を緩めなかった。

「むかしむかし、その昔、兄上の元服式で泣いている乳母のさつき殿の事を思い出したので御座います」

「さつきはもう某の乳母ではない」

信忠がそう言い捨てても、信雄は続けた。

「そうで御座いました。さつき殿は父上の側室となり姫を産んだので」

「側室となり姫を産んだのではなく子を身籠ったがゆえ、側室となったのだ」

信忠は苦々しく三介を見た。

「順番が逆」

「何が言いたい三介」

「そうだぞ三介、兄上に失礼だ」

信孝に三介と呼ばれ、信雄は顔を赤らめて怒っている。

「何が失礼なのだ。めでたい事ではないか。しかも某を三介と呼び捨てにするな。兄と呼べ、兄と」

「さてさて…」

信孝は言いまぎらし、足を組んで斜を向いた。更に信雄は続けた。

「まあ話は戻るが、孫もいる年のおなごが子を産んだのだぞ」

「そういうこともあろう。兄上は噂好きですな」

「噂好きとは心外な。こんな不思議な出来事があろうか、と思っているだけだ。ならば三七郎、他に同じような事例を見聞きしたことがあるのか」

「ないよ」

「なら黙れ」

信雄は奥歯を噛み締めて信孝を見ていたが、気持ちを入れ替え、話しの続きをした。

「まず、さつきは大年増である。それに加え、息子の乳母に手を出す父上のお気持ちが、某にはわからぬ。息子の乳母だぞ」

言いながら口を歪め、首を振る信雄を横目で見て、いっそう大きなため息を吐き、信忠は腰を上げた。そして「兄の部屋に来ないか?」と信房を誘った。


「あの~、あのおふたりは仲が悪いのですか?」

信忠の居室に向かう廊下で、信房は聞いた。

「三介と三七郎か。そうだな、良くはない。時に血の繋がりは、ややこしい問題を引き起こすもの。我らの父上も、兄弟間の争いをとても気にしておられる。父は常に、兄弟は仲良くと仰せになられる。自身の苦い体験を踏まえての事だろう。某は三介と三七郎には仲良くして貰いたいと思っておる。ふたりの不仲は敵につけ入る隙を与える。それは織田家にとって絶望だ」

「そこまでの」

「兄弟喧嘩で家の滅亡はありえる。織田家とて、お前が思っているほど盤石ではない。父上の様に、稀有な才能をお持ちの方は別だが。某らは凡人じゃ。父上が築かれたものを守るだけで必死なのだ。ゆえに、お家の中の騒動は命取りになりかねない」

部屋に入ると、信忠は弟の烏帽子を取ってやり、それを側近に手渡した。

「ささ、こちらへ遠慮せずに」

「そこは?」

「某の寝所だ」

「よ、良いのですか寝所になど」

「構わぬ」

ふたりの側近が襖を開けると、広い寝所の奥の壁に、なにやら額縁に入った絵が飾られていた。

「近くに」

「あっはい」

「見覚えのあるお方と思うが」

窓際のすぐ横、太陽の光に照らされた絵の中の人は、薄っすらと笑みを浮かべてこちらを見ていた。

「これは」

信房は息を飲みこんだ。

「許嫁の松姫だ。美しすぎて、目が奪われそうじゃ」

満面の笑みを見せ、信房に同意を求めるように見つめる信忠の純真さを前に、信房は小さくうなずくことしか出来なかった。

「どうだ源三郎、見目美しいとは、まさに松姫のことを指すのだ」

「え、あっはい」

「どうした。何を固くなっておる」

信忠の言う通り、信房は微動だにせず肖像画を見ていた。真冬だというのに、額から顎の線にかけて汗が流れ落ちる。

「おーい」

信忠に背中を叩かれ、信房は正気を取り戻した。

「も、申し訳ありません」

「まあまあ良い。座れ」

肖像画を背にして着座した信忠の前に座る羽目になった信房の視界には、肖像画が広がっていた。心なしか、信忠の声は上擦っていた。

「其方が帰って来るのを待ち望んでいたのだ。もう聞きたいことが山ほどある。なのに何から聞いたら良いやら」

元服式とは、まるで別人の様に振舞う信忠に呆気に取られ、信房は目が廻る気分だった。胸を片手で押さえ、背中で息をした。

「おい、大丈夫か?具合でも悪いのか?」

「いえ、環境の変化のせいだと思います」

「そうよのう、帰国以降ずっと動き回っておったのだから。良ければ数日間、ここ岐阜城でゆっくりされよ。犬山城へはいつでも行ける」

信長より犬山城を与えられた信房は、帰還してすぐに一国一城の主となったのだ。

「はい」

力なく答えた信房は、肩を落としていた。

「うーん、どうやら誠に気分が優れぬと見える。残念だが松姫の話しは次の機会に聞くとして、もう自室へ戻るか?」

「そうさせて頂けると」

「ならばそうせよ。なーに、気にすることはない、時間ならたっぷりあるのだから。それにしても惜しい気もするが……」

顎に手を当てた信忠は、唇を尖らせて言った。

「では、失礼いたします」

「まあ待て」

「え?」

片膝を上げた信房だったが、ゆっくりと胡坐姿に戻った。

「ひとつだけ、ひとつだけじゃ」

右手の人差し指を立て、信忠は片目を閉じた。

「その、松姫殿のことじゃが」

「違います」

「いや違わぬ。某は松姫の話しをしたいのだ」

「違うのです!」

信房がいきなり声を荒らげるので、信忠は思わず首をかしげた。


日が落ち、目の前の景色はすっかり薄暗かったのに、空を見上げると、白い雲をほんのりと赤く照らす夕焼けが、ひとつ残っていた。自室の広縁に腰かける信忠は後ろに手をついた格好で肩をがっくりと落とし、顔を仰向けていた。

「これまでの某の想いは徒労に終わったと申すのか」

肖像画の中の女が松姫ではなく侍女で、いまや勝頼の側室となったさくらだと知った信忠は、やり場のない感情を処理できずにいた。松姫に、ていよく弄ばれた気もする。

「しかも勝頼の側室とは……」

そんな自分が情けなくなり、人前に出ることさえ憚られる思いになった。

「茶番は終わりだ松姫」

姿勢を戻し、前を向いた信忠の目は、信じた相手に裏切られた絶望の色をしていた。その様相は、母や弟、はたまた真の弟と信じた浅井長政に裏切られた時の、信長に良く似ている。

来年、織田軍は甲州討伐の総仕上げを行う。その際の総大将は信忠だ。武田を討伐するに際し、松姫の存在は確かに気がかりではあった。しかしいまは違う。肖像画の人物が、あろうことか敵将である勝頼の妾である事実を聞いた瞬間、松姫への憂慮は消えてなくなった。

「これは吉報である」

信忠は勢いよく立ち上がり、あの赤く染められた最後の夕焼けを探したが、空はとっくに暗い闇に沈んでいた。

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