第18話 嫉妬が生んだ妄想

信忠の小姓が相打ち同然にして命を落としたと、松姫の耳に届いたのは事件から随分と経った頃で、同時に信忠の第一子誕生の報も受け取った。

信忠からの文には必ずと言っていい程、新太郎と、甚七郎の話題があった。そうしたことから松姫にとってもあのふたりは見知った友達のようで、訃報を聞いた時は心臓が激しく波打ち、淀んだ空間に佇んだ。この半年間、信忠から何の音沙汰もなかった理由もわかった。信忠の苦しみを思うと、もうどうにもならず筆を執った。

文の内容は、躑躅ヶ崎館で人質になっている信房のことと、代り映えのしない日常を綴ったものだった。ふたりの小姓の話題にはふれていない。嫡子誕生のことも今回は控えた。その返事がきょう届いたのである。

「信忠殿のお気持ちは如何ばかりか」

信忠の文には、新太郎、甚七郎のことが、生前の思い出話と共に、詳細に綴られていた。筆の乱れが、未だ拭えない悲しみを表していた。そして追伸に、三法師のことが記されていたが、呆気ないほど形式的なものだった。他に、「松姫様からの文を読む時は、いつも肖像画を前にしている」そう書いてあった。出陣前にも肖像画を見て勇気を貰うとも。

「ふくざつだわ~」

冗談めいた口調で松姫はつぶやいた。本来なら、さくらに愚痴を言って自分を慰めていたのだろうが、さくらは勝頼の側室となったので、松姫の侍女として働くことはなくなり、いまは10歳も年下の侍女が世話を焼いてくれている。いくら何でも10も年下の部下に恋愛話をする訳にも行かず、ここ最近は、ひとり言が多くなった。

あの日以降、さくらは傍から見ても明らかな態度で、松姫を遠ざけた。それでも正式に側室となるまで、さくらは松姫の傍にいたが、必要最低限の会話以外は互いに避けた。

「あの子の絵を見ながら文を読むなんて、まあこれも自業自得」

今回はひとり言ではなく、最近、住み着いた猫に話しかけていた。白く長毛のメス猫は、両目の色が違う。保護した当時、身体にさわると肋骨しかなかったが、徐々に肉付き、いまでは肥満体である。保護された恩返しなのか、まるで松姫を守るかのようにひと時も傍を離れないで寝ている。

「信忠殿に申し訳ない」

絵の中の人物が、織田家の敵である男の妾だなんて、信忠が知ったらどう思うだろうか。馬鹿にされていたと激怒するに違いない。同時に、とても情けない気持ちになるだろう。

「ねえ白ちゃん」

白ちゃんとは猫の名前である。

「肖像画の人物が偽物だと、信忠殿に明かそうかと思っていたの。でも、お小姓たちの死を、とても悲しんでいる最中にそんなこと」

この数年間、いつも真実を告げようと思ってきたが、いつも理由をつけては後回しにしてきた。

「姫様!姫様!」

嵐のような足音が近づいたと思ったら、小手が広縁に姿を見せた。

「どうなされた突然、そんなに慌てて」

横座りで猫を触っていた松姫は正座になり、小手を見据えた。

「さ、さくらが」

そう言ってから、小手はさくら殿と言い変えた。側室になったさくらの名に敬称をつけ忘れるのは、いつもの事である。

「さくら殿が」

「さくらがなにか?」

「ご懐妊」

「懐妊?」

フーンと松姫はうなずいた後、「そう」と聞き流した。

「そうって姫様、それでよろしいのですか?」

「なにが?」

「姫様の侍女だった女が産んだお子が、もし男子だった場合、その子が武田家の跡継ぎになるやも知れぬと申すのに。しかも元は町人の子ですよ」

小手は松姫の膝の前の床に両手をついて、首を伸ばして姫を見た。

「いいのですか」

その目は赤く血走り妖怪のように見え、松姫はたじろいた。

「なにを申す。跡継ぎなら信勝殿がおるではないか」

「しかし信勝殿の母君は龍勝院、織田信長の養女でございます。養女と申してもただの養女ではなく、元は妹の娘ゆえ、姪っ子。つまり織田の血を受け継いでいる」

「だったら何だと?」

松姫は溜息交じりに聞いた。

「敵方の娘が産んだお子では、お屋形様の気が変わることも」

「信勝殿の御母上が、織田家の血筋だということは、信勝殿が生まれた時から兄とて当然知っておる。それに兄には次男勝三もおる」

「勝三君は産まれたばかりに御座います」

「さくらの子は未だ生まれてもおらぬ」

「だとしても、勝三君とて龍勝院様のお子です」

「あらま」

松姫はお道化たように開いた口に手を当てて見せた。

「姫様、真面目に。敢えて申せば、信勝殿が誕生した時と、いまの武田家と織田家との関係性は違うのです」

「そうかも知れぬが、それはひとまず置いといて。龍勝院様は随分と前に亡くっておる、死者がお子を産んだと申すのか。勝三は北条夫人の子ぞ」

「産んだのは北条夫人であっても、正室である龍勝院様のお子と正式に認められておりまする」

「ゆえに、其方の申す懸念は晴れた。勝三には織田家の血が入っていない」

「ですが…」

「さくらの産んだ子が世継ぎになることは其方の妄想」

そう言ってから、松姫は目線を膝に落とした。

「それに、衰退してゆく武田家の跡継ぎになったとて、それは喜ばしいことなのだろうか?死を待つだけのこと」

「なんと悍ましい」

わなわなと後退りする小手の両手が胸の前で震えていた。そして、

「其方は既に織田に与されておる」

「其方?、小手、いまわたくしを其方と呼んだか」

「そう。如何にも」

松姫は首を振った。

「まあ良い。しかし与されておるとは聞き捨てならぬ」

「そうではないか。城中その噂で持ちっきりだ。松姫様は織田信忠に骨抜きにされ、武田を売ったと」

「あー、もうよせ小手」

松姫はできるだけ心を落ち着かせたが、突然、小手が大声で笑い出した。騒ぎを耳にした家臣が駆けつけ、小手を拘束した。

「手荒な真似はよせ」

松姫は立ち上がり、裸足で庭に降り立ったが、気が狂った様に笑い、暴れる小手を、家臣数人がかりで連行して行った。

それから数日後、さくらの懐妊は、小手の妄想だったことが判明。小手は精神が安定するまで地下牢に入れられたが、その後は回復を見せ、最近では侍女いびりで日常の鬱憤を晴らしているという。


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