反魂香
高村 樹
反魂香
集合住宅の住みやすさというものは隣人の質で天と地ほどの違いがある。
この二階建ての木造アパート『高尾荘』は1Kルーム十部屋のどこにでもあるようなボロアパートである。
築四十四年で傷みがひどいが、都内で風呂トイレ付の条件で家賃三万五千円は破格だ。
塗装を何十年もしていないせいか、見た目からして廃墟のようで、入居者がなかなか現れず空き部屋ばかりだった。
そのおかげもあってか、壁も天井も薄いが比較的静かだ。
確か一階の端に中年の女性が住んでいたが、引っ越しの挨拶をしたきり、すれ違っても会釈する程度だったので名前は忘れてしまった。
八重樫五郎は八年ほど前に愛する妻に先立たれ、一人このアパートに引っ越してきた。
長く勤めた会社を退職し、年金となけなしの退職金を切り崩しながら、無為な日々を過ごしていた。
趣味もなく、友人もいない。齢七十三歳の寂しい独居暮らし。
欠かさないのは朝晩二回、死んだ愛妻の遺影が置かれた仏壇に線香をあげること。
何をするにもどこへ行くにも一緒だった妻を失い、人生は輝きを失った。
今望むことは、早くお迎えが来てあの世で妻と共に暮らすことだ。
替わり映えのしない毎日がただ淡々と続いていた。
そんな八重樫五郎の寂しいが比較的平穏だった暮らしが、隣の204号室に新しい入居者が引っ越してきたことで一変した。
この新しい隣人の名前は島田重三。
年齢は八重樫五郎と同じか、それより少し若いくらいだろう。
洗濯用洗剤一箱を持って、引っ越しの挨拶に来たが、どことなく陰鬱な冴えない感じの老人だった。
こんなに空き部屋があるのにわざわざ隣に越してくるなんてと頭に来たが、わざわざ不動産屋に文句を言いに行くのも億劫だったので、こちらに迷惑さえかけてこなけりゃいいさと自分に言い聞かせた。
ところが、引っ越してきたその日の夜。
突然、隣の部屋から金属製のなにかを叩いているような金属音が連続で響き、なにやら奇声が聞こえはじめた。
缶ビールを一缶空け、気持ちよくうとうとしているところに、いきなりの騒音である。
八重樫五郎は、火をつけたことを忘れてすっかり短くなっていた煙草を、吸い殻の山に押し込むと、すくっと立上り、自室を出た。
「おい、てめえ。何時だと思ってやがるんだ。夜の十一時過ぎてんだぞ」
頭に血がのぼり、部屋を出た勢いそのままに、隣の部屋のドアを何度も何度も、強く叩く。
部屋の中の音が止み、少し経つとチェーンがかかった状態でドアが少し開いた。
中からは甘ったるいような、それでいてどこか腐った生ごみのような匂いの煙が溢れてきて、隣の住人島田の顔が見えた。
「おい、あんた。こんな深夜に何やってるんだ。近所迷惑だろう。それにこの煙。ひでえ匂いだな、こりゃ」
「すいません。死んだ妻との約束で、毎晩この時間に、この反魂香を焚いて鉦を叩かなけらばならんのです。夜明け前には終わりますので、申し訳ないがしばし我慢していただきたい」
反魂香。死んだ妻がやってくる。
何を言っているのかさっぱりわからない。
直接、文句を言わないで警察に通報すればよかった。
この島田という男の眼はどこか焦点が定まっていない感じがあるし、変な薬物でもやっているのかもしれない。
「あなた、どこにいるの? 今、あの世から来ましたよ」
部屋の中から若い女の声が聞こえた。
「すいません。死んだ妻が戻ってきたみたいなんです。行かないと」
島田がドアを閉めようとしたので、慌てて隙間に手を入れ阻止した。
「おい、ちょっと待て。死んだ女房があの世から戻ってきたと言ったな。本当か?」
「はい、嘘ついて誰が得するっていうんですか。その手をどけてください」
「駄目だ。お前の話が本当だというのなら、死んだお前の女房を見せてみろ。そうしたら、お前の話を信じてやるし、警察にも通報だけはしないでおいてやる」
島田は小さなため息をひとつすると、ドアのチェーンロックを外した。
「まあ、これから毎晩ご迷惑をおかけすることになると思うので、特別にお見せいたしましょう。でも、今晩見たことは誰にも言ってはいけませんよ。知られたら、私もあなたも反魂香を授けてくださった祈祷師に呪い殺されてしまう」
「わかった。わかった」
祈祷師だの、呪いだの、馬鹿らしい。
だが、部屋の中から女の声が聞こえたのは事実だ。
ただのおふざけである可能性が高いが、もし万が一本当なら、自分も死んだ妻に会えるかもしれない。
妻に先立たれてからというもの、生きているんだか死んでいるんだかわからない日々を過ごしている。もう一度、彼女に会えるのならば。
島田の後に続いて部屋の中に入ると、室内は異様に煙たく、むせ返るような臭気にえずきそうになる。
畳敷きの六畳間に新聞紙を敷きその上に簡素な祭壇を設け、その上に香炉が置かれている。高炉に立てられた線香は、通常のものに比べて異様に煙を発しており、室内には紫がかった煙が充満していた。
「ああ、いけない。香を足さなければ」
島田は祭壇の前に座り込み、祭壇横の木箱から新しい香の束を取り出すとその中から一本取り出して、火をつけ、香炉に挿す。
するとにわかに煙が増し、香炉の上に女性の上半身が現れる。
「ひえっ」
本当に出た。
上品なまとめ髪の二十代前半くらいの女性だった。
身に付けている衣服は少し時代遅れな感があるが、純和風の美人である。
「たしか……八重樫さんでしたね。これでわかったでしょう。納得されたらどうかお引き取りを」
島田が歩み寄り、部屋の外に押し出そうとする。
「おい、俺にもこの反魂香というやつを分けてくれ」
若い頃の、一番美しかった頃の妻に会えるかもしれない。
自分のどこにこんな情念が残っていたのかわからないが、腹の底から湧き上がってくる感情に突き動かされ、島田の肩を掴み、揺さぶる。
「無理だ。この反魂香は、妻の遺髪から作られているから、私にしか効果が無いんだ。それに様々な戒めがあって、破ると黄泉の使者に魂を奪われてしまうんだ」
「嘘つけ。譲りたくないんだろ。だから、あることないこと言って俺を騙そうっていうんだな」
「痛い。乱暴はやめてくれ」
「金なら出す。半分譲ってくれ」
「無理だって言っているだろう」
島田は両腕を振り回し、力づくで振りほどこうとした。
その反動で右手が顔にぶつかった。
痛みが不意に怒りを呼び起こす。
「やりやがったな。この野郎」
つい、力いっぱい右の拳で島田の頬を殴りつけてしまった。
島田は勢いそのままに、背後の箪笥の角に後頭部をぶつけ、仰向けに倒れ込み、動かなくなった。
「おい、すまん。つい殴ってしまった。おいっ」
返事はなかった。
島田は目を閉じ、口を半開きにしたまま、動かない。
右手に生温かいものを感じ、見ると島田の後頭部から出た血で赤く染まっていた。
「やっちまった」
慌てて胸に耳を当ててみるが心音が無い。脈もなかった。
八重樫五郎は己がしでかしたことの大きさに愕然とし、まだ微かに残っていたアルコールのほろ酔い加減が失せていくのを感じた。
落ち着け。落ち着け。
八重樫五郎は今自分が何をすべきか考えた。
慌てて部屋を見回すと、香炉の上に現れていた女性と目が合った。
女性は酷く恨めしそうな表情でこっちを見ていた。
「なんという惨いことを。うちの人があなたに何をしたというのです」
「うるさいだまれ」
八重樫五郎は両手を振り回し香煙をかき回すようにし、そのあと高炉に立ててあった線香を引き抜くとその熱くなっているところを高炉の灰の中に突っ込んだ。
すると女の姿が消え、部屋の中には島田の死体だけが残った。
さてどうしよう。
このままでは自分は逮捕されてしまうであろうし、証拠を隠滅しなければならない。
幸いにも祭壇の上には蠟燭が燈っているし、これが倒れて火の不始末で火事になったことにでもしようか。
だが、その前にこの反魂香とやらが本物か確かめたい。
本物であるならば、このまま燃やしてしまうのは惜しい。
八重樫五郎は木箱から新しい線香を一本取り出すと火をつけ、香炉に挿したが、何も起こらない。
たしか島田の奴が自分にしか効果が無いと言っていたが、そうであるならば自分にもあの島田の女房らしき女が見えた道理がわからない。
そうだ、たしか鉦を鳴らすとか言っていたな。
八重樫五郎は「妻よ来い。現れよ」と念じながら一心不乱に鉦を叩いた。
おかしい。何も起こらない。
量が足りないのかと思い、木箱から線香一束取り出し、その全部に火をつける。
線香の束は、夥しい量の煙を吹き出し、にわかに視界が悪くなった。
その時、右足首を強く掴まれる感触がして、見ると男が這いつくばった姿勢でそこにいた。
若い二十代くらいの男だったが、その顔を見て八重樫五郎はぎょっとした。
島田の面影があった。
「八重樫さん、あんたそんなにたくさん反魂香を焚いちゃいけないよ。あんたの奥さんは現れないが、あの世とこの世の境目が薄くなってしまう」
「こ、殺されたことを恨んで、化けて出てきたのか」
「そうじゃないよ。礼を言いに来たんだよ。あんたに殺されたおかげで、妻とこっちの世界でまた暮らすことができる。だが、あんたは人殺しの罪を犯してしまったから、多分奥さんとは二度と会えないだろうね。地獄行きだ」
島田だと思われる若い男は薄気味の悪い笑顔を見せ最後に言った。
「八重樫さん……、殺してくれて、ありがとうね」
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