『私』の夢が始まった夜まで

たけすみ

初対面は夕立と共に

 夏の雨を示す言葉の語感も、少し風情がなくなったような気がする。

 夕立はいつしかゲリラ豪雨という物騒なものに取って代わられ、さらに近頃は線状降水帯なんて警報級のものにまで進化してしまった。

 『せんじょうこうすいたい』、どうやら俳句の季語にはなりそうもない。

 ……いや、自由律句の時代がくれば別か? まあどうでもいい。


 そんな中で、その日は夕立があった。

 そのときは明日の朝から祖母の一周忌の法事があり、午後と翌一日分の有給を取って実家に戻る途中だった。


 生活している東京の天気予報はアプリで確認していたが、地元の降水予報までは把握していなかった。

 そして、晴れているから、こっちも大丈夫だろうと思い込んで、その日は当然のように傘は持っていなかった。


 最近は男性でも日傘がめずらしくないと聞くが、私には無理だ。

 例えば友達と酒を飲んだ後などは、携帯電話すら店に置き忘れて帰りそうになるような身である。

 今やウェアラブルクーラーの時代だけど、学生の頃、仲間内で扇子が流行ったことがあり、そのときは毎月のように失くしては新しいものを買っていた。


 同じように、なにかに気を取られてどこかのコーヒーショップなどに置き忘れてしまうような気がして、日傘なんてものは持ち歩けない。

 普通の雨傘だって、いつ失くしても良い覚悟でいつも透明に白い柄のビニール傘と決めている。


 り出した雨をバスの車窓から見ながら、いやだなあ、りたくないなあ、という気持ちにかられていた。

 それでも、目的地は近づいてくる。

 携帯電話を出して、実家の母にメッセージを送る。

『雨ふってきた。できればバス停まで車お願い』

 ほどなく返事が帰ってくる。

『わかった。ついたらまた連絡して』


「大正堂商店前、大正堂商店前です。停車します」

 自動音声のアナウンスとバスの制動の大きな前のめりになるようなゆらぎを感じて、私は席を立ち、下り口の精算機に小銭を落とした。

 開いたバスの戸口の外はばしゃばしゃとくぼみで水たまりが弾けるような音がしている。


 いやだなあ、やっぱりりたくないなあ。

 まだそんなことを思いながら、えいや、と手前の水たまりを飛び越えるように、バスを跳ね降りた。

 

 仕方なく、昔はパン屋かなにかの商店だったように記憶しているぼろぼろのひさしのせり出た店先に立った。シャッターは当然降りている。この界隈も昔に比べていよいよ人が減っているようだった。


 空は暗く、高まった気温は水の匂いのする濃厚な蒸し暑さに変わった。

 大粒の雨が降る中、伸びた通りの先から、カバンを頭にかけた人影が走ってくる。

 背は私よりいくらか低い、肩や膝先の出た服装からみて女性だろうか。

 その姿はぐんぐんと近づいてきた。やはり女性だ、それもまだ学生さんかという若さに見える。

 私が入っている軒先に、彼女はまるで巣に戻るツバメのように飛び込んできて、急停止した。


「いやーまにあわなかったー」


 可愛らしい声、口調からしてまだかなり若い。少なくとも私はそう思った。

 近頃は自分もふくめて誰も彼もマスクをしているから、顔だけ見ても年なんてなかなかわからない。女は特にそうだ。着ているものや体型や顔以外の肌の質感でなんとなく察するしかない。


 彼女は大きな独り言をいいながら、頭にかざしていた小さなカバンからなにか出して体を拭き始めた。

 私はそこで、はたと気づいて体ごと向きを変えて視線をそらした。


 携帯電話を出し、母に連絡のメッセージを入れる。

『バス降りました。迎えよろしく』

 すぐに既読がつく。


「あのーちょっといいですか」


 ツバメのように飛び込んできた彼女にふいに話しかけられて、思わずびくりと背筋を伸ばして振り向いた。

「はい?」


 よく見るとどうやらこの辺の人では無さそうだった。何しろ服装が鮮やかだ。どちらかというと東京か大阪か、とにかく華やかな都会の若者向けの服屋の多い通りに居そうな装いである。

「この辺に、スマホ充電できるコンビニ、ありませんか?」


 そう問われて、あーと私は声を出して少し考えた。

 あるにはある、まだつぶれていなければ。

 駐車場がやたら広い典型的な田舎のコンビニが。


「自転車で、15分くらい行ったとこ、ですね」


 そう言われて、彼女はあちゃーというように顔をしかめて「あー」と相槌を返した。


「ですよねー」


 そこで、彼女は真っ暗な画面になった携帯電話を握りしめて、息をついた。よく見るとカメラは特徴的な縦に並んだ目のような配置をしている。

 人気の大手メーカーの、比較的新しいの機種のものだ。


 一瞬の沈黙のあと、私は意を決して口を開いた。


「それ、13ですか?」


 彼女は

「あ、えーと、12です」

 と答えた。


 私は鞄のサイドポケットを開いて、手を入れる。

「じゃあ、たぶん対応してるバッテリー、持ってますよ。使います?」


「え、いいんですか?」


 私の手は見た目より重たいプレート状のマグネット式の外付けバッテリーをどうにかつかみ取り、引き抜いた。

 それを手渡すと、彼女はすぐさまスマホのワイヤレス充電面に、それを重ねるように押し当てた。

 すると、黒い手鏡のようだった画面に充電中を意味するサインが浮かび上がった。


「わあ、ありがとうございます」


 そう深々と頭をさげられて、私はすこし照れて笑った。

「私、あとしばらくしたら、迎えが来ちゃうんで、それまで使ってください」


「どうも、すみませーん」


「いえいえ。このバス乗るなら、どちらまで?」


「えーと、中の村駅前まで、ですかね」


「じゃあ終点までですね。駅前ならコンビニありますから、そこでちゃんと充電できますよ」


「よかったー。……あ、この辺、お住まいなんですか?」


「ええと、東京から帰省で。実家がここから車で10分ちょいくらいのところにありまして」


「へー、東京、ですか?」


「あ、はい。会社員してます。……こっちにはなにか御用があって?」


「あ、ええと……駅から歩いていけるところにおばあちゃんが住んでて、そこに泊まりに。今は、光明寺を見に」


 光明寺、ここから歩いて15分ほどのところにある古寺だ。裏の森が広くこけむしていて、春から夏にかけては神秘的な雰囲気のあるささやかな名所である。

 たまに日本映画や邦楽のPVなどを見ると、撮影に使われていて驚くことがある。

 更に奥にいけば急な斜面があって、そこからは杉林の彼方に整然と広がった美しい山間の水田風景が見える。

 どちらも晴れていれば、それなりに美しい画像の撮れる田舎の隠れたインスタスポットである。


「いい画像、取れました?」


「あはは……そのつもりで来たんですけど、つく前に曇りだしちゃって、なんか暗くて怖い感じがして、……引き返してきたら、ここまで戻る途中で降り出しちゃって……」


 無理もない、光明寺は私が小さい頃は幽霊寺と呼ばれていた。当時は夏休みの夜になると、正面まで行って縁台にさわって戻ってくる肝試しなどがあった。時代は変わるものだ。


「ああ、それは残念」


「明日は晴れるみたいなんで、またリベンジに来ます」


 それを聞いて、私はふと思いついた。


「いつまでこっちに?」


「ええと、金曜の新幹線で東京に帰るので、明後日のお昼くらいまでなら」


「それなら明日の午後、ほかにも案内しましょうか? 私の運転するうちの母の車でよければ」


「え?」


「私も明日の最終の新幹線で東京帰るんで、午後は空いてますから」


「え、いいんですか?」


 ……彼女は意外そうな、それでいてまんざらでもなさそうな様子を見せた。


 私は、この反応を見て、鞄から名刺を出して彼女に差し出した。

 これを受けて、彼女は脇をしめて丁寧に両手で名刺を受け取り、頭を深々と下げてくれた。

 名刺交換のマナーを知っている。見た目の派手さの割にきちんとしている子だ。


『株式会社◯✕プロダクツ 情報システム部社内開発課

 後藤 登環とわ


 ……誤解を招いていそうな気がしますので、そろそろ自己紹介いたします。

 今年で26歳、東京の大学を出てシステムエンジニアをしております。彼氏いない歴1年強、いわゆるOLです。


 彼女はおろおろとして、

「ええと、私、名刺とかないんですけど。直でアドレス交換でいいですか?」


 恐縮して少しうろたえる彼女がどこか可愛くて、私は少し笑ってしまった。


「いいですよ」


 彼女のスマホが起動するのを待ち、それから搭載アプリの機能で番号をその場で手早く交換する。


「水沢茉凛まつりです。庚申大学の2年です」


 都下の私大だ。

 わたしはにこりとしてうなずいていると、すぐ後ろから車のクラクションの音がした。

 驚いて振り向くと、そこには白の軽自動車が止まっていた。私の母の車である。


「あ、迎えが来たんで、これで」


「あ、それじゃあこれ……」


 モバイルバッテリーを返そうとする彼女の手に、私は手を重ねて止めた。


「あ、それ返してくれるのは明日でいいです。今日はこのまま持っててください」


「あ、はい。すみません、ありがとうございます。明日、よろしくお願いします。後藤さん」


「登環でいいですよ」


「じゃあ、とわさん」


「うん、あとで連絡しますね。まつりさん」


「はい! 明日、楽しみにしてます」


 そうやり取りしている間に、またクラクションが鳴らされる。


 これに思わず振り向いて「聞こえてるって」と口答えした。それから、まつりさんに向き直して、あらためて頭を下げた。

 それから荷物を抱え直し、私は母の車の助手席に乗り込んだ。

 ちょうど、道路の彼方に次のバスが来るのが見える。


 だが、すぐにシートベルトは止めず、

「あ、そうだ、あそこにいる子、中の村の駅まで……」

 といい掛けつつ、後ろの席を見た。


 そこにはおそらく買い物帰りと思しきいくつもの膨らんだエコバックと、寺に渡す手土産と思しき菓子折りの紙袋や、クリーニング帰りらしいビニールに包まれた父や母の喪服が座席を占めている。

 無理だ。ここには乗せられない。


 私は舌打ちして、後部座席の足元からビニール傘を引っこ抜いて、一度車を降りた。


「ちょっとなあに」


 と呼び止める母を無視して、傘を手に軒先に戻る。


「あ、どうしました?」


「これ、使って」


 そういって、傘を差し出した。


「家まで送ってあげたいんだけど、後ろの席が荷物で一杯で……」


「あ、すみません。いえ、これで十分です。ありがとうございます」


 そう頭を下げられて、こちらこそ申し訳なくて頭を下げ返した。


 頭を下げあっている前に、次のバスがバス停についていた。バスの表示は『中の村駅前』とある。


「あ、このバス乗って」


「えっ、あ、はい」


 私にせかされる形で彼女はバスに乗り込み、その窓越しに私たちは小さく手を振り合ってわかれた。

 それから私は雨の降る中、母の車に戻った。

 二人のやり取りを車から見ていた母が聞いてきた。


「さっきの子、お友達?」


「うん、たぶん」


 私はそう答えて、さっそくにメッセージを送った。


『とわでーす』


 すぐに返事が帰ってくる。


『まつりです。傘、助かりました』


『明日、中の村の駅前でいいですか? 何時頃にしましょう』


『祖母がお昼を作ってくれるっていうので、その後の、ご都合のつく時間であればいつでも』


 私は少し考えた。


『それとも、荷物だけ引き取るほうがいい感じですか?』


『え、さっきの、社交辞令だった感じですか?』……末尾に逆さになった笑顔の絵文字がついている。


『いいえ、駅前のファミレスにつれこんで十数万円の数珠を売る気です(なお、中の村の駅前にファミレスはない)』 サングラスをかけた笑顔の絵文字を添える。


 ほどなく、返事が返ってくる。

『もし明日、二人連れだったら他人のふりして帰りますけどいいですか?』

 大笑いの絵文字がついてくる。


 絵文字を見てほっとした。冗談が通じる相手だ。


 まず無言で考える顔文字だけ返し、すぐに

『じゃあデートついでにお茶というのは?』

 と送る。


『それなら、まあ。パパとママが心配しない程度なら』


『了解しました。軽めのデートコース考えておきます』


『楽しみにしてます』と青いハートの絵文字がついてくる。


 それを見て、私は、スマホから視線を離した。

 それを見計らったように、運転席の母がため息をついた。


「まるで高校のときみたいね」

「え?」

「ろくに私と話もしないで、車に乗っても携帯触りっぱなしで」


 私は懐かしくて思わず笑った。

 そして言い返せなかった。確かに高校時代も家につくまで友達とメールのやりとりをし続けていた。


 これがまつりさんとの出会いだった。

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