第五章

再来 ……1


 なにごともなく、週明けに梶山は退院した。


 右手が自由にならないのもあって、頼まれごとはしばらく断り、大学に通う以外は家でおとなしくしてる、と梶山は言った。

 挽回するかのごとく気力も健康も取り戻し、一ヶ月もすると外見もほぼ全快となった。


 ちょうど長い夏休みに入った。それぞれの都合が合わず、なかなか会って話せない。梶山は深夜に会議アプリに似たSNSのスペースを使い、気ままに集まる仲間と話すようになった。

 笑ったり咳をしたりするとつらそうにしていたが、肋骨のひびもよくなったらしい。ただ、右手首は動かすと曲げにくい方向があって、すこし痛むと言う。


 九月の半ば、夏期休暇の終わりも近づき、都心で映画でもと待ち合わせて久しぶりに梶山と会った。

 言葉を交わすうちに、梶山は「水沢さんは大学を辞めたらしい」と残念そうに漏らした。仲間から噂の口伝えで知ったのだと言う。


 そうなるだろうな、と予感はあった。


 もし梶山を階段から突き落としたのが水沢遙香ならば、のうのうと素知らぬ顔をして大学に通えないだろう。他人の目を一切気にしない、図太い神経があれば別だが。

 病室での、他人の視線から逃れようとする彼女の態度を見るかぎり、それはできないと踏んでいた。


 もう二度と会うことはないかもしれないと考えていた。だが奇遇というものは、不意に訪れるものだ。


 梶山と、駅へと向かう人混みを移動していたときだった。まだ強く照りつける昼過ぎの日差しに汗が滴る。

 ふいに、梶山が水沢遙香を見つけたのだった。


 持ち前の行動力で、後れを取らぬよう俊敏に後を追う。人混みを巧みに縫い、梶山は水沢遙香に近づいた。慌てて修哉も後を追う。


「水沢さん、久しぶり」


 そう声をかけられた水沢遙香は、反射的に振り返った。梶山の顔を見て、あからさまに顔を歪めた。


 病室で会った時とはずいぶん出で立ちが変わっていた。腰を覆うほどに長かった髪は、鎖骨の下ほどに切り揃えられている。

 明るい色の服を身につけ、化粧をした顔は間違いなく目を惹く。


 ぱっと見ただけでは、同一人物だと修哉にはわからなかった。さすが大勢の人間とつきあってきただけのことはある、と修哉は梶山の見識に舌を巻いた。


 彼女の両眼に不審の色がうかがえる。激しく警戒している目。


 意外な言葉が返ってくる。

「——あんた、誰?」


 声は冷淡に響いた。病室で聞いたのと同じ声質だった。

 本心から問いかけている。知らない振りをしているとは思えなかった。


 すぐにでも逃げ出せるように身構えている。病室で出会った水沢遙香の、激しい敵愾心てきがいしんからくる態度とは違った。


 初対面——しかも異性に対し、脅威の対象と感じての警戒だと気づく。

 意外な反応を食らって、梶山も水沢遙香を眺めるしかなかったようだった。


 目の前に立つ男ふたりに不審に満ちた一瞥をくれると、水沢遙香はいらだちを顔に貼りつけたまま、早足で遠ざかっていく。

 けっして振り向かない。


 その後ろ姿を見やり、梶山はあきらめたように言った。

「どうやら嫌われたみたいだ」


 さほど傷ついたようすはなさそうだった。こちらを見て、苦く笑う。「彼女にとって、俺の記憶は不要になったのかな」


 修哉には奇妙な違和感が残った。

「……そういうもんか? あんなことがあって、そう簡単に忘れられるわけないだろ?」


 梶山は曖昧に、うーん、と唸った。眉のあたりを掻いている。

「覚えていても知らないふりをされるなら、その気持ちを尊重したほうが後腐れが無いだろうしさ」

「梶山、おまえ……」


 水沢遙香が人混みに紛れた方角を眺め、残りの言葉を飲み込む。

 まったく——お人好しにも程がある。続ける言葉を呼吸に変えて、小さく漏らす。

 梶山は、水沢遙香が消えたのと逆方向へと歩き始めた。その顔には晴れやかな笑顔がある。

 やけにあっさりと気持ちを切り替えたかのように見えた。


 いいんだよ、と独り言のような調子で梶山は続けた。

「俺は、彼女が嫌な思いをしてなけりゃそれでいいんだ」


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