第一章
霊障
苦笑、という言葉がぴったりの表情を浮かべ、アカネは言った。
「
ある意味、あの子らしいわよね、とアカネは付け加えた。
店に戻る前に、修哉は梶山に連絡を入れた。もうすぐ着く、とスマートフォンに入力している横で、アカネが口を出してくる。
「すぐ戻るのに、それ必要?」
「よけいな弁明しなくてすむなら、先手打っといたほうがいいんですよ。下手な言い訳で変な空気になって、もっと焦るのはごめんです」
場当たりで苦し紛れの説明をするのは危うい。
幽霊に取り憑かれているのが、事実であっても知られたくない。確実に頭がおかしいと思われる。
他人に視えない男女ふたりをこの身に抱えている。しかも生命を削りながらの、プライベート完全無視の同棲生活なんて割に合わないにもほどがある。なのに今や、アカネとグレに振り回される生活にも慣れつつある。我ながら順応性がありすぎて呆れる。
やたらひとりごとが多い、突然あさっての方向を見てはおかしな反応を取る。自分の行動の端々が、他人の目には奇行と映るのは間違いない。自覚は薄くなる一方で、いずれ、どんなところから墓穴を掘るものかわかったものではない。
送信し終えると、歩きながらジーンズのポケットにスマホを突っ込む。
アカネが、じっとこちらを見下ろしているのに気づく。
「なんです?」
「相手の姿、シュウも見ておいたほうがいいのかしらと思って」
アカネの真意がとらえられずに、間が空く。
え、と修哉は発した。
「姿……?」
「見ればわかるわよ」
ふたたび喫茶店に足を踏み入れると、今度はいつもと変わらぬ梶山の態度があった。
先に知らせておいたせいか、修哉が入店するなりこちらを見つける。想定どおりの笑顔で合図を送ってくる。ただ、違うのは梶山の右脇にグレが立っていること。
存在感がありすぎる、と即座に思った。周囲の生者に視えてなくてよかった。上背もあるが、なによりも肉の詰まった重量のある体格を暗色のスーツに包み、強面にサングラスの出で立ちは喫茶店のなかで確実に浮いていた。
仁王立ちの巨漢に詰め寄られているさまはまるで、ヤクザに因縁をつけられる直前の光景としか思えない。
修哉は眉根が寄るのをこらえながら、着席する梶山に近づいた。
「遅れてごめん」
「いや全然」
なにも知らない梶山に、笑顔で応じられる。だが、テーブルの上に置かれたアイスコーヒーの、グラスを伝う水滴や氷の溶け具合が時間の経過を物語る。
気づいていた。
厭な気配が薄まってる。梶山の周囲がさっきよりも暗く視えない。
なんでだろう、ここまで梶山に近づいたからか。それとも梶山の意識がぼんやりしてなくて、今は明瞭だからだろうか。
グレが立つ場所を避け、隣のテーブルとの隙間から奥に入って壁側の席に着く。
「で、なんかあったのか」
珍しいじゃないか、と修哉は続けた。「おまえのほうから相談ごとって」
そのとき、左肩の定位置にいたアカネが修哉の左側から顔の内部へと入りこんできた。
ぞわりと冷たい感触が滲入する。左目の視界が水中に沈んだかのように歪み、揺れる世界に自分の視野と異なる配色が現れる。
「――見て」
アカネの視界で、梶山を視る。
必死に平静を装う。日常の光景に、暗く、荒れた映像が重なって視えた。ピントが合っておらず、粒子が粗い。解像度が低い、とでも言えばいいだろうか。古い時代に撮られた、無音の白黒映画の映像にも似ている。
周囲は普段どおりのまま、梶山にだけ別の合成がかけられているかのようだった。
ざらざらとした質感の、フイルムノイズが視界にちらつく。不快な塵が、視る者の頭の中を侵蝕する。べったりとした穢れを、精神そのものになすりつけられる忌まわしさがある。
目の前の梶山は、絶えず流動する粒子で形を成している人型の影にまとわりつかれていた。
得物を逃がすまいとしている。乱れ、
背後から、梶山の右肩ごしに垂れ下がった右腕。肘が曲がり、持ち上げられた右手が梶山の喉をつかみ上げ、親指と残りの四指の先が皮膚に食い込んでいる。左脇の下から左腕が差し出て、心臓のあたりに爪を立てる。
梶山の右首筋に顔を寄せている。口もとが動いていて、延々と無音の呪詛を吐き続ける。
髪が長い。垂れ下がる毛束が、梶山の上体に濃い灰色の血を滴らせたかに視える。直毛が床にまで広がり、幾重にも足に巻き付いて梶山を縛る。顔が見えないので判別がつきにくいが、女の体つきだった。
若い女。
わかる。あれは、間違いなく梶山に害を
梶山は、修哉になにか言おうとしていた。
口を開くのに、言葉が出てこない。邪魔をしている。会話を奪い、楽しげな時間を許さない。時の速さが失われて、やけに引き延ばされて感じる。梶山の表情が止まって見える。
首をつかむ女の指に、更なる力がこもるのがわかった。梶山の喉をつかみ、声帯の自由を奪う。心臓に突き立てられた爪が深く突き刺さる。
こんなものを視て、心が掻き乱されないわけがない。動悸が激しくなって、周囲の音が聞こえなくなった。
やめろ、と叫びたかった。だが行動に移る前に、アカネが修哉の口を右手で覆った。口のまわりの感覚が失せて、自分のものでなくなってしまう。
「我慢して」
耳元でアカネが
アカネが視野を上げる。肉体の左半分をアカネと共有しているせいで、視覚が同化する。修哉もグレを見上げていた。
梶山の脇に立っていたグレが、一歩近づいた。
梶山にへばりついていた女の姿が、生者ではありえない
さっき、グレに触れられて懲りたのだろうか、グレの存在を嫌っているのは明白だった。それでも梶山から離れようとはせず、ぬるりとした動きでグレ――得体の知れない死者から身を隠そうとする。
生き霊は死霊を嫌がるのか、と修哉は思った。元はと言えば、あれは生者から離れた一部なのだから、当然なのかもしれない。
アカネは、死者は生者の命だけでなく、負の感情の高ぶりをも吸収して力をつけると言った。
死者に見つかれば、おあつらえ向きに餌食となるのか。
もう一歩、グレが詰め寄る。梶山にほぼ触れる距離となり、女の姿が縮むのが視て取れた。
固唾を呑んで視ていると、背中から脇腹、腰から下肢にずるずると下がって移動していく。店内の明かりに照らされて床に落ちる影、そこを目指している。
荒い粒子で
「えっ……と、なんだっけ」
梶山の口から、拍子抜けするような言葉が漏れた。思いがけない事態らしく、目線を泳がせている。思い出そうとしているのに思い出せない、そんな顔をしている。
アカネが修哉から抜け出るのを感じた。押さえられていた口もとが自由になる。
「なんでもないなら、それでもいいよ」
修哉は努めて明るい声を出した。
梶山の間近に立っていたグレが、一歩、二歩と後ろに退く。律儀にも一礼をする。
向き直ると、こちらに歩いてきた。やけに硬い表情のまま修哉の脇を通り抜けると、アカネの背後へと消えた。
結局、梶山はなんのために修哉を呼び出したのかを話そうとしなかった。それとなく聞き出しそうと何度か試みたものの、はぐらかされるだけで何の手がかりもつかめなかった。
もしくは生き霊からの影響もあって、話せなくなっていたのかもしれない。
互いに他愛もない近況報告を一時間半ほど交わしたあと、アルバイトの時刻が迫り、修哉は梶山とふだんどおりに別れた。
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