幸せっていう怪物

内田ユライ

序章

生者に憑くもの

 梶山ただしの姿を認めたとたん、修哉は血相を変えた。


 七月に入ったばかりなのに梅雨空はどこへやら、とんでもない日差しが照りつけて汗が引かない。なのに、いつも待ち合わせに使う喫茶店に近づくだけで嫌な予感はしていた。

 予感、と言うよりは、肌感と称するほうがしっくりくるかもしれない。外気が熱いのに、ぞわぞわと産毛が逆立つ。風邪を引く前の、体調が悪くなる気配に似ている。


 だが、まさかこんな光景を目撃するとは予想もしていなかった。


 人感センサーが反応して、ガラスドアが自動で横にスライドする。店内は冷房がよく効いていて、ほっとする思いだった。店の中に入ると梶山を探して視線を泳がす。

 視線が吸い寄せられる。


「――え……え?」


 第一に浮かんだのは、マジか、という台詞セリフ。まさに怪奇の光景があった。

 ガラス張りの明るい店内。一点に影がある。不安を誘う暗色だった。そこだけ色彩を反転させたかのようなピンスポットが落ちている。


 梶山がおかしな色に染まって視える。あれはヤバイ、と本能的に直感する。

 自然に足が止まった。近づくべきか、迷った。


 誰もが好印象を抱く人物。服装、髪型ともに無理なく自分に似合うものを選んでいる。細い銀縁の眼鏡の両眼は涼しげだが、常に快活に応じ、言動に裏表もない。決断と行動が早い。皆から頼られ、それを苦に思わない。


 そうだ、いつもなら。


 いち早く梶山が気づいて晴れやかな笑顔をこちらに向け、軽く手を上げて居場所を知らせてくる。それなのに、珍しく反応がない。

 気重な表情で、ふたり席のテーブルに置かれたアイスコーヒーを両手で包み込んだまま、差したストローのあたりに目を向けて放心している。


「シュウ、どうしたの?」

 アカネの声が左耳に届く。ふだんどおりの明るく、お気楽な口調。死者である彼女には、季節の寒暖は関係ないらしい。


 自分以外には聞こえない声。左の肩越しに、修哉の顔を覗きこんでいる気配がある。

 店内の入り口で付近で立ちつくした時点で、挙動を探る店員の視線を感じる。


 周囲の目がある状況で、誰にも視えない幽霊相手に話すには気を使う。さりげなく右手で口もとを覆い、小声でつぶやく。


「……だって、アカネさん」


 なんで気づかないんだ? 腹の底から急激に湧き上がる不安を押さえつける。


「どう視ても梶山が変です」


「え? ――ヘン?」

 んん? とアカネがうなった。


 修哉の肩に手をつき、身を乗り出す。宙に浮いた明るい色の髪が宙を舞い、流れる。毛束は修哉の肩にかからずに、修哉の身体へと入りこんで視えなくなる。

 周囲の光景を半分ほど透過した姿が、眼の端に映った。アカネは眉を寄せ、眼を細めて梶山を凝視する。


 じっくりと吟味して、いきなり声をあげた。


「あら、すごい!」

 ねえねえ、ちょっとちょっと、と前を向きながら、後方に向けて手招きをしている。

「見てみて、グレ! ねえってば、面白いわよ」


 なんでしょうか、と重低音の、腹に深く響く声が先に聞こえ、五歩ほど離れたところから威圧が現れる。覆いかぶさってくるかのような巨軀が修哉の背後に寄りつく。


 あれは、とグレが声を出すのが聞こえた。


 ふたりの気配が修哉から離れるのを感じた。アカネはふわりと泳ぐように上空から、一方でグレは生者と同じく床を歩く。店内の通路をを無視し、重量のある足取りで直進すると、障害物――店内の什器や観葉植物、そして客や店員を悠然と突き抜けて梶山へと近づいた。


 通り抜けられた者たちは、次々と妙な表情を浮かべ、ぶるりと身を震わせたり、不審そうな表情で視線を泳がせている。


「あっ、ちょっ――」


 思わず声がもれた。そして、あっけにとられた。

 あれだけ梶山に近づくのを嫌がっていたアカネとグレが、修哉といるときと同様、パーソナルスペース、つまり心理的な縄張り空間、身体の周囲にある他者との間合いに親しい者は警戒無く近づけるが、それ以外は不快を感じる距離に無遠慮にも入りこんでいる。


 アカネは梶山の真正面を陣取ると、顔に触れそうなほどに接近して覗きこむ。

 グレに至っては神妙な面持ちで梶山の背後に回り、手を上下左右に動かしていた。触れるか触れないかの距離をあおいで、自らの分厚い手のひらを凝視する。その身体は、背景を半透明に透過している。


 修哉は、驚きすぎて口が半開きになっていた。あのふたり、なにをやってるんだ? 一見、珍妙な光景にも視える。


 そして、考えを巡らす。ふいに思い至った。


 ちょっと待て。

 霊を無自覚で吹っ飛ばしてはらけるはずの梶山が、アカネさんたちにちょっかいを出されてる。


 そうだよ、……こんなの、ちっともいい状況のはずがないじゃないか。


 彼らが容易に近づけるってことは――、

 照準が合ったかのように、いやな認知が落ちてきた。重たい衝撃となって心臓を貫く。

 あの強力な生命力の持ち主が。あの梶山が。


 つまり――、あいつの生命力が弱ってるってことだ。


 だめだ、と思った。今すぐ、梶山から引き離さないと。気づいたら回れ右をして、自動ドアが開くのも待てぬ勢いで店の外に出ていた。早足で、もっと遠くへと歩みを進める。


 人の群れを縫いながら、昼過ぎの大通りの歩道をいつしか駆けていた。食事を終えて職場に戻るサラリーマンたちや体格の良い労働服の数名とすれ違う。ベビーカーを押す母親は歩きながら、懸命に機嫌の悪い幼児をなだめ、あやしている。


 晴れ渡り、まぶしい太陽光の下、人々の姿は自然に視える。誰もが同じに視えるべく、勝手に脳が補正している。

 ふだんはさして気にしたりしない。通常の生活で、不必要な情報は自然と排除されるものだからだ。


 人間の知覚は、無自覚にうまく対応するべく出来ている。たとえば会話の最中に、周囲の雑音のひとつひとつに意識が行ったりしない。そんなことをしていたら集中できずに、必要な言葉ひとつすら聞き取れなくなってしまう。


 よく視れば多少、個々に差はある。おそらく前日徹夜をしたとか、連日の勤労で疲労が溜まっているとかの理由がある。だが、尽きぬ生命力からすれば多少の変化でしかない。あんな暗い色をまとったりしない。

 いちいち視えていたら、死の間際の人間がわかってしまう。冗談じゃない、そんな能力はない。ただでさえ死者が視えるせいでわずらわしい思いをしているのに、生者の寿命まで気を巡らす余裕なんてあるものか。


 唐突に、わぁーやだあ、という言葉が届いて、修哉は我に返った。アカネの戸惑った声だった。すこし遠ざかったところから左耳に聞こえる。


「シュウ、ちょっと引っ張らないでったら」


 十メートルほど後ろからアカネが宙にふわりふわりと浮かび、水色のワンピースの裾をたなびかせながら追いかけてくる。


 彼女と話をしなくてはならない。人通りのない横道へと逸れる。

 ようやく足を止め、修哉はアカネに向き直った。走ったせいで息が上がる。鼓動が早まり、頭のなかが脈打っている。


「なぁに、どうしたの?」


 アカネは戸惑った声だった。わからないのか、と思うのと同時に、いらだちが満ちた。

 第一声を放つ。


「頼むから、あいつで遊ばないでください」


 自分でも意外なほど、尖った声が出た。

 あ、とアカネが声を出した。目を見張り、表情が固まる。

 その顔に、ばつの悪さが浮いた。


「ごめんなさい」


 意外にも、しおらしい声をアカネが発する。

 修哉とアカネ、さらにグレ、もとは同じ人間であっても、生者と死者の立場となっては常識が異なる。散々思い知らされてきた。


 アカネとグレが浮つくほどのことだ、なんらかの理由があると考えたほうがいい。彼らと言い争うより、現状をはっきりさせて対処するほうが大事だ。


「――で?」


 修哉は大きく息を吸い込むと、吐いて気持ちを落ち着けた。気持ちを押さえつけ、平坦に訊ねる。


「あいつ、一体どうなってるんです?」

ただしくん?」


 どうなってるっていうか、とアカネは口ごもった。

「逆に質問なんだけど、シュウにはどう見えてるの?」


「嫌な感じ。梶山の身の回りだけ、光が吸い込まれてるように暗い」

 気が急いて早口になる。


 あれは、なにかに取り憑かれている。でも、いつもとなんか違う感じがする。

 そもそも霊だったら、見た目が異形いぎょうであっても視えるはずだ。なのに、あいつの周囲にそんなものはいなかった。


 ふうん、とアカネが合点がいった面持ちになる。「シュウとは波長がずれているのね」


「波長?」

「向き不向きの問題」


 ほら、とアカネは人差し指を立ててみせた。

「たとえば、ラジオの周波数、テレビやスマートフォンの電波帯。それと同じ。死んだ者はあなたに見えるのにね」


「――? どういうことです?」


 だから、とアカネが強調する。「ただしくんに憑いてるのは」

 アカネは一拍おいて、真顔で発した。


よ」



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