賢者は空を見る    …… 5

 ピッツァの店は街でも一番 にぎわっている噴水ふんすい広場に面していた。約束通り、街に着くと真っ先に予約を入れに行った。評判にたがわず繁盛している様子で、予約を入れないと品切れになってしまうこともあるんですよ、と店員が愛想よく笑った。


 次には粉屋の前で馬車を停める。

「まずは小麦粉を仕入れましょう」

「ほかには何を買うの?」

「砂糖にバター、紅茶、それとアッリリユさんにキャンデー。最後に魔法使いギルドに寄る予定です」

「あら、姉さんにキャンデー?」

「サンドイッチのお礼です」


 荷台は最初に買った小麦粉と次に買った砂糖でほぼ満載、無理やりバターの樽を乗せ、紅茶の缶は袋に入れてナッシシムの足元に置いた。


「なんで紅茶は小さな缶で買ったの? いくつも買ったのだから大きな缶がお得だったんじゃ?」

「開けてしまうとどんどん味が落ちるのです。どうせなら、美味しい紅茶を召し上がって欲しいでしょう? 足元、狭くなりましたね。窮屈で申し訳ありません」

「ううん、落ちないようにちゃんと袋を押さえておくね」

「はい、ナッシシムさんが落ちないように気を付けてください」


 魔法使いギルドはガラガラで、奥のカウンターに受付がいるだけだった。

「やぁ、ルナウ。もうできたのかい?」

どうやらルナウは注文されたポーションを届けに来たようだ。カウンターに小さな瓶を五本並べた。


「さすがルナウ、完璧だ。見ただけで効果の強さが判る――代金はどうする? 今日も口座に入れておくかい?」

「はい、そうしてください」


 そのあとナッシシムお待ちかねのピッツァ屋に行った。

「ちょうどいい頃合いですよ」

店員がそう言って出してくれたピッツァは熱々で、チーズがトロリとよく伸びる。

「美味しいっ!」

ただナッシシムの誤算は、思っていたよりもピッツァはずっと大きくて、注文し過ぎたことだった。とても食べきれる量じゃない。


「どうしよう。頑張ってももう無理……」

泣き出しそうなナッシシムにルナウが微笑む。

「大丈夫ですよ」

そして店員を呼ぶと、何か話した。するとまだ残っている皿を店員が下げてしまう。


「あぁ、せっかく美味しいのに、勿体ないことをしちゃった」

「いいえ、持ち帰れるよう包んでくださいと頼みました。家に帰ったら、フライパンにふたをして弱火で温め直せば、またチーズがとろけて美味しくいただけますよ」

「あぁ、ルナウ! 姉さんにも食べさせてあげられるのね」


 食事の後は少しだけ食器屋をのぞき、遅くならないうちに帰りましょう、と、今度は『靴が磨けそうな森』を抜けて帰った。『底なしになれなかった沼の森』よりそのほうが近道だ。


「靴が磨けそう、って不思議な名前の森ね」

 ナッシシムの疑問にルナウがニッコリする。

「森のあちこちに苔が生えていて、歩くとその苔で靴が磨けそうなのです」


「そうなんだ? それじゃ、『底なしになれなかった沼の森』は?」

「来るときサンドイッチを食べた沼が『底なしになれなかった沼』だと知っていますね? あの沼は、底なし沼になりたかったんです」


 最初は小さな水溜りのような沼でした。沼はあるとき気が付きます。自分の周りには草が生え、命の輝きが見え始める。自分が抱いた水が命を育んでいる。


「そこで沼は思いました。もっとたくさんの水を抱けば自分を中心に森が生まれるんじゃなかろうか」


 なるべく多くの水を抱き締めるようにすると、思った通り草がたくさん生え、小さな草原になり沼は喜びます。けれど、なかなか木は生えてきません。


「木は深い地中に根を生やす。そこに水がなければ生えないよ」


 草の入れ知恵に沼は、ある決意をしました。それなら底なし沼になればいい。


「底なし沼になればいくらでも水を抱け、深い深い地の底まで水を運べる。横にだって染み渡らせられる。木々が生い茂る立派な森ができるだろう」


 沼は頑張って水を溜め込み、どんどん深さを増していきます。地中深くに水が蓄えられている層があるから、そこまで深くなれば沼は底なし沼になれます。そうなれれば雨の降らない季節でも沼が枯れることがなくなりますから一石二鳥、沼は自分の考えに夢中になりました。


 小さな草原は広い草原へと変わっていき、木も生え始め、林へ、そして森へと移っていきます。沼には藻が生え、魚やカエルも住み始めました。


「虫しかいなかった草原とは違い、森には多種多様な生き物が住みました。鳥やウサギ、キツネやオオカミ、もちろん草原にいた虫たちもそこには生き続けています」


 これが生きる喜びだ、沼はしみじみ感じました。これこそ自分がここにいる意味なんだ――けれどまだ、沼は底なしになっていませんでした。


「今でさえ、こんなに素晴らしいのだから、底なしになれば、もっと素晴らしいはずだ」


 水を求めてほとりに集まるシカやイタチ、卵を産みに来るトンボ、みんな自分を頼りにしてくれる、喜びは沼に愛を教えます。生き物たちが愛しくてたまらないのです。生えた藻は水中の生き物たちに暮らしを与え、沼の周辺だけでなく、水の中にも命が溢れていきました。


「それでも沼は、底なしになる夢を諦めてはいません。今日よりも深く、明日はもっと深く、沼は求めてやみません」


 沼の森は大きく育ち、さらに豊かに育っていきました。


「豊かな森があると噂になって、ある日一人のケンタウロスがやってきました」


 ケンタウロスは沼の畔に立ち、空を見上げて言いました

「豊かな森、豊かな沼――だが多くを望み過ぎている」


 ケンタウロスの言葉はいつも抽象的、そして大抵皮肉を含む。嫌な気分になった沼は呟きます。


「より多くの命を望んで何が悪い? より多くの愛を望んで何が悪い?」

「悪いのは何か――善悪のみで測ろうとする愚かさ」


 ケンタウロスに屁理屈へりくつで勝てるわけがない。沼は押し黙り、ひたすら己の意志を貫こうとします。ケンタウロスもそれ以上は何も言わず、沼の畔で空を見ていました。


「そんなある日、沼の上に伸びた長い枝で遊んでいたシマリスが、誤って沼に落ちてしまいます」


 落ちたシマリスは何とか岸に上がろうとしましたが、沼に蔓延はびこった藻が邪魔をして思うように泳げません。畔に集まった生き物たちが何とか助けようとするのですが、沼の深さを恐れて誰も飛び込んではいけません。


「沼が深すぎるんだ! 沼がシマリスを殺したんだ!」


 水面からシマリスが見えなくなると、畔の生き物たちが一斉にそう言って泣き始めました。


「深くなり過ぎたのがいけなかったのか、沼は悩みますが今更後には引けません。大きくなり過ぎた沼は地中から水を補給しなければ、すぐに枯れてしまうでしょう」


 愛しい生き物たちのため、こんなに頑張ってきたのに何がいけなかったのだ? 悩んだ末に、とうとう沼は底なしになることを諦めます。


「空を見上げていたケンタウロスは少し沼に同情したのかもしれません。水なのだから泣くことのできない沼に涙を流す力を授け、今も沼は涙を流し続けています」


 沼は底なしにはけれど、流し続ける涙で今も枯れることなく森を潤しています。そしてケンタウロスは今でも沼の畔で空を見上げているのです――

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