第55話

 睦空も捜査に加わることになった。私からしたら、こんなに心強いことはない。また、皆で暮らしていた頃のような関係を築けるだろうか。

 早朝、五人は集まった。まだ、街が夢を見ている時間だ。それぞれの仕事があるので、この時間帯しか集合できなかったのだ。

 昔に戻ったみたいだ。そわそわして浮いているようだった。隣にもその隣にも、反対側の隣にもその隣にも、何年も見続けてきた顔が揃っていた。

 今まで、何か物に対して懐かしさを感じることは多々あったが、誰かとの共有の時間をすることで感じる懐かしさは初めてだった。

 太陽の光が私たちを照らす。人気がない街は、私たちのために用意されたもののように感じた。

 レンガのタイルでできたランウェイと太陽の照明は、私たちを前へ前へと進ませる。飛べそうなくらい体が軽かった。この道がどこまでも続けばいいのに。


 しばらく歩くと、お母さんの家があった。社会人になってからも、一ヶ月に一回ほどは顔を見せに来ていた。

「意外と立派なんだね。一人なのに。」

 この家と、初めましての如紀ちゃんは、感心したように言った。

 お母さんは最後の最後まで贅沢だった。我慢はしなかった。自分のやりたいことをとことん突き止めた。手を抜かなかった。自分の気持ちに正直だった。いつか、そんなお母さんを憧れた時期もあったかな。

 整えられた庭は私たちを快く迎えた。茜と紫苑の花が咲き誇る。まるで、天国のような風雅な庭だった。一人暮らしをするには、十分なほどに大きい庭と家。彼女の偉大さを表しているようだ。

 歓喜の声をあげながら、家へ入って行く。

 中は全く変わっていなかった。私たちが見てきたお母さんの家、がそのまま再現されているように見えた。本家なのに。

 骨董品で溢れた玄関を抜けると、広々としたリビングがある。誰かの意向で片付けられていないようだ。お母さんの生活の一部に入り込んでいるみたいだ。

 母がアートルームと呼んでいた、趣味のことをする部屋も、何一つとして変わっていなかった。散らかった部屋は芸術、母はこの部屋に来るたびにそう言っていた。何度聞いてもよく理解できなかった。でも、確かに、他の部屋はちゃんと整頓されているので、彼女の言葉は、片付けるのがめんどくさいから出たものではないだろう。

 とにかく広かった。四人家族が住めそうな一軒家だ。

「なんか見つかるかもしれないから、手分けして探す?」

 如紀ちゃんは、手に腰を当てながらそう言った。皆が頷き、それぞれの仕事に没頭し始める。

 私はアートルーム担当だった。やはりその部屋は、別空間のようだった。そして、母の気持ちを、母の生活を、もはや、母自身を表しているようだった。

 赤青黄色、ここに書き切れないくらいの絵の具が壁を彩っている。規則性はなく、思いのままにぶつけられているようだ。その一つ一つをなぞる。目を瞑ると、そこにお母さんがいた。いつものエプロンをつけながら、笑顔を振りまいている。しばらくすると、消えてしまった。

 私たちは、母の遺した物でしか、お母さんの温かみを感じることができない。思い出すことができない。そのルールは破りようがなかった。ルールは紙に書かれていなかったから。

 部屋の中をウロウロと歩き回る。いつか、母が通ったであろう道を上を、歩き回る。気持ちを紛らわすように、歩き回る。昔のあの瞬間に戻るために、歩き回る。しかし、そんな時空ワープみたいな凄技は私には使えない。どんなに頑張っても嘆くことしかできない。

 思い出でできたアルバムを見つけた。これを開いたら三十分は動けなくなるだろう。しかし、こんな機会滅多にない、と自分に言い聞かせてアルバムを手に取った。

 思い出は重い。ずっしりとした重みを感じた。

 一ページ開くごとに、新たな幸福と絶望を噛み締める。思い出が幸福であれば、それだけ今は絶望で、思い出が絶望的であれば、それだけ今が幸福。思い出はほとんどが幸福だった。

 丁寧にまとめられていた。彼女らしい装飾も所々に施されている。カラフルで若さを感じる色だった。実際に若い時に制作したものなのかもしれない。

 中には記憶にない写真もあった。横に書かれた説明を読み、一生懸命思い出す。彼女の丸っこい字をなぞりながら。

 この部屋を包む静寂は私を落ち着かせる。一人にさせる。そして、二人にさせる。そこにはいない人に話しかける。絶対にあり得ないけれど、私にはその人の面影がこの目に映る。まるで、すぐそこにいるようだ。

 お母さんは幸せだったのかな。だとしたら、なんで余計なことをしたのだろう。いや、余計なことをしたから、幸せだったのだろうか。どちらが先なのかはわからなかった。

 彼女は悪くない。ただ人間の本能として、ある人間に惹かれただけで、咎められるようなことはしていない。咎めるなら人間の本能を責めて欲しい。なんて、おかしい話だけど、本心だった。

 棚の中には趣味の読書で築いた、本の帝国があった。とにかくたくさんあった。一つ一つ手に取り、中身を確認する。

 この本には彼女の指紋が残っているだろう。いつか、彼女が触れたものに、自分も手を重ねる。あるはずのない温かみを感じる。

 所々に付箋が貼られていた。心に響いた部分や、覚えておきたいところに貼られているようだった。真面目だな。

 隣から物音がした。それぞれ振り分けられた仕事を忠実にこなしている。私も始めないと。寄り道をしてしまったけれど。

 書類を集めれば、丘くらいにはなりそうだ。それくらい膨大な量だった。今日一日かけても、読み切れるか不安なくらい。

 手紙があった。こちらは父から送られているものだった。一方通行かと思っていたが、それぞれの思いは通い合っていたようだった。二人の仲の良さを示しているようだ。もしかしたら、やることが無さすぎて、他に楽しみがなかったのかもしれない。特に、お父さんは。

 

 茜さん。元気にしていますか?

 僕は元気です。でも、自由に縛られています。

 非日常は不安しか与えません。どうやら、私の当たり前の中にはあなたがいたようで、この状況で日常を築くのは、困難だと思います。同じ感情を抱いていたら嬉しいです。

 突然の自由は退屈で仕方ありません。思い出を掘り返すことだけが、唯一の楽しみです。状況が落ち着いたら、通りすがりに振り向くだけでいいので、顔を見せてください。

 紫苑


 やはり、かなり暇だったようだ。父らしいユニークな文章にクスッと笑う。

 アルバムのようにいつまでも見ていられる。なんだか秘密の会話を聞いているようで、特別な気持ちになる。

 手紙には必ず日付が添えられていたので、いつ書かれたものなのか、即座にわかった。

 手紙の他にも、メモなどもあった。絵を描くことが趣味だった母は、良い案を思いついたときにメモを残しておいたのだろう。ほとんどが殴り書きだった。


 たった一枚だけ、お母さんが書いた手紙があった。日付的に、死ぬ間際だ。もしかしたら、最後の手紙かもしれない。その渡されかかった手紙には、黒いチューリップの不気味な絵が描いてあった。豊かな色彩を好む母にとって、真っ黒という要素は珍しいことだった。何があったのだろうか。何を伝えたかったのだろうか。結局最後まで黒いチューリップの真意はわからなかった。

 

 その後も捜索を続けた。しかし、皆の前で発表するほど、大したものはなかった。でも手紙は共有しておいた方がいいかな。

 まず初めに手を挙げたのは、皐奈ちゃんだった。彼女は倉庫で捜索をしていた。

「これ、見て欲しいんだけど、」

 そう言って、そっと手を開いた。中からは警察手帳のようなものが出てきた。皮で作られたそれは、紛れもなく本物に見える。どうやらお父さんのものらしい。写真がそれを示していた。

「なんで、お父さんのが?」

 如紀ちゃんは声を震わせながら、そう言った。その声は、明らかにポジティブなものだった。

 仕方ないことだと思った。誰だって親戚や友達を他人よりも優先させるから。

「見た目的には、多分本物だと思う。」

 緋弥も冷静を装っているようだったけれど、喜びは隠し切れないようだった。

「でも、どうして?」

 現実を押し付けるような凛とした声だ言った。

 近所の人の話では、どちらかは真逆の存在なのに。

「なんでだろう。誰かが嘘をついているのか、元々警察官だったのか。」

 嘘。それだったら、これ以上に嬉しいことはないだろう。でも、これまでやってきたことは何だったのだろう。ただただ騙されていただけなのかもしれない。

「それか、二人の警察手帳のうち、どちらかが偽物なのか。」

 緋弥は声を窄ませながらそう言った。

「それってどういうこと?何のためにそうする必要があるの?」

 皐奈ちゃんは不安そうにそう言った。彼女からすれば、どちらに転んでも何も思わないのだろうけど。

「本物に追われているときに、使ったとか。あとは、どこかに侵入するときも、これ一つで一時的な信頼は得られるから、それに使ったのかもしれない。」

 その言葉に場が静まった。立ち位置が自然と二つに分かれていることに気がついた。やはり、一度できた亀裂は二度と綺麗に元通りになることはないのだろう。そう実感する。

「これ。誰も確認しないようなお風呂場にある棚の中で見つけた。」

 睦空はそう言いながら、一枚の手紙を見せた。そして読み始める。

「茜さん。おそらくこれが最後のやり取りになると思います。僕たちが恐れていたものが現実になる予感がします。」

 睦空は自分のことについて語られているために、読みづらそうにしている。皐奈ちゃんと目を合わせて笑った。

「そうなる前に伝えるべきことがあります。この手紙と一緒に送っているのが、僕の警察手帳です。好きに使ってください。隠しておけば、おそらく僕が疑われるので、そうしてくれても構いません。一緒に作った茜さんの分は、僕のところに保存しているので、一番に見つかるはずです。今見ても、よくできているので、しばらくは持ち堪えることができると思います。」

 答えは明確だった。私たちが間違っていた。二人にすっかりと騙されていた。そして、母の警察手帳は偽物だった。その事実よりも、手紙の続きが気になった。

「最後の手紙がこんな内容になってしまい、申し訳ありません。ただ、僕は本当に本当に、茜さんが幸せに暮らしていてくれればそれで良いです。それが生きがいです。あなたと出会ってから、順風満帆な予定だった人生は、波瀾万丈になりました。良かったのか、悪かったのか。どちらにも取れると思いますが、少なくとも茜さんと過ごした時間は、間違いなく幸福で溢れていました。何があっても生きていてください。それが僕が生涯をかけてでも言いたいことです。さようなら。そしてこの手紙は処分してください。」

 沈黙が一途な愛に拍手をした。

 如紀ちゃんと皐奈ちゃんは、涙を流していた。綺麗な透明色で輝いていた。

 緋弥は静かに睦空を見つめる。その視線は責めるというより、心配しているように見えた。私の勘違いかもしれないけれど。

 その睦空は口を結び、遠くを眺めていた。誰にも話しかけることを許さないような厳しい視線だった。本当は言いたいことがあるはずだ。私だったら、過ちを美化するなと言いたい。なのに、黙っている。空気を壊さないように自分に視線を集める。自分が手紙で語られるように脅威をもたらす悪者となることで、彼らを美化している。

 お父さんとお母さん。二人と何と呼ぼうがその人の自由だ。もし、犯罪者だとか裏切り者だとか呼ばれても、彼らがそれを否定する権限はないだろう。


 お母さんの作り上げた彼女独自の世界は、私たちを取り込んだ。答え合わせをする私たちを静かに見守った。この家自体がお母さんのように感じられた。明るいリビングや、彩豊かな庭は、お母さんそのものだった。温もりを感じる。今この瞬間に何を思うのだろうか。幸福?絶望?後悔?今じゃなくてもいいから、いつか幸福を感じて欲しい。そう願うばかりだった。


 この状況で意味深な手紙を差し出す勇気はなかった。そっとお父さんの家に送っておこうかな。緋弥に後で頼んでおこう。

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