第2話
「ごはんよー。」
一階にあるリビングの方から母の声が聞こえる。その声には、いつもより荒々しさが追加されたような気がした。何か気に食わないようなことでもあったのだろうか。返事はせずに、階段を降りていく。下へ降れば降るほど、橙色に包まれた家族の匂いが深まっていった。この光景に幸せを感じなくてはいけないのだろう、と感じる。しかし、いつもその中心で笑顔を振りまく母が、今日はその役割を放棄して険悪そうな顔をしていた。それに気がつかないふりをして、席についた。
私の前にたっぷりの水を注がれたグラスが置かれた。容器から解き放たれた水は、まるで生きているかのようにグラスの中を駆け巡った。グラスから水滴が二、三滴ほど滴っている。
「はいどーぞ。」
そう言ってスマイルのサービスをするのは、悩むということを知らない我が家の三女だ。最近はお手伝いをすることが彼女の中でブームになっているらしい。毎日のように何かすることがないか、母に尋ねる声が聞こえる。そんな純粋で素直な心は、もうどこかへ行ってしまったのだ。別に、頼まれたら手伝いをするけれど、こちらから申し出るのは嫌だ。なぜだか、恥ずかしさを感じるからだ。
いつまで待っても家族全員が揃うことはなかった。兄がいなかった。兄は、受験生だ。だから、この夕飯の時刻には、部屋に閉じこもって勉強をしているか、塾で勉強をしているかのどちらかなのだ。大体の場合、母が後で夕飯を届ける。それも今では日常なので、誰もそのことを話題に出したりはしなかった。私だけが欠けてしまったテーブルに心を寄せていた。月だっていつかは満月になるのだから、このテーブルも埋まる日が来るのだろう。
「さあ、みんな手を合わせて」
陽気な母の声が響く。
「いただきます。」
続いて元気な声が響いた。もちろん私は手を合わせただけだった。私の隣には、最近生意気になってきた中学二年生、同級生の
食卓には、五つの料理が並んでいた。おそらく本日のメインディッシュであろう、トンカツが堂々と真ん中に置かれていた。油は太るからやめてと言ったのに、と嫌そうな顔をわざと見せる。母は私の表情に気が付いていないのか、見て見ぬ振りをしているのか、目を合わせてくれなかった。どうせ、私が母に問い出したところで、世界はあなた中心で動いているわけじゃないとかなんだか言われて、何も解決しないのだ。わざとため息をつこうと思ったのだが、この空気を悪くしたいわけではないので、心の中だけで我慢することにした。トンカツの代わりに、スーパーで買ってきたのだろう、お惣菜ばかりを食べていた。意地でもトンカツは食べない、と心に決めた。一度言ってしまったことをすぐに撤回するような行動をするのは、恥ずかしいと感じたからだ。
美味しい、美味しい、という声が飛び交う中で、私はただ一人黙っていた。誰もその会話の中に私を入れようとはしなかった。それが嫌なわけではない。むしろ、わざとらしく話を振られたら、もっと嫌だ。今はそういう時期なのね、と空気を読まれていたとしても、子供扱いをし、軽侮されているようで良い気がしない。結局のところ何をされたとしても、嫌だと感じてしまう。自分の気持ちを変えるしか方法がないことは明らかだった。
「ちょっとね、実は話があるの。」
学校での出来事の話題が食卓を占領する中で、母が唐突に新たな話題を突っ込んできた。母の表情をさっきからずっと見届けてきたのだが、おそらく話を割り出す間を見計らっていたようだった。しかし、あまりにも緋弥と皐奈ちゃんの会話が長引きすぎて、呆れてしまったのだろう。そんな原因を作った彼らは、突然話を中断させられたことに、むっとしながらも、怪訝そうに母の顔を覗き見ていた。父にもこの話は聞かされていないようだった。同じような表情を浮かべていた。対して、如紀ちゃんは何も気にせず、先ほどから変わらずスマホを見続けている。
「実はね、ママのお金が盗まれたの。」
そう言われた瞬間にわかりやすく下を向いた。思っていたよりもシリアスな話題のようだった。下を向いたのは、言えないようなことがあるから、ではない。何も問立てられるようなことはしていないのだが、このような重たい空気の中でどこに視線を向けたらいいのか、わからなかったからだ。目を合わせてしまったら、再び逸らすのも見続けるのも、疑わしく見えてしまう。どこにも焦点を当てずに視線をぼやかしているのも危険だ。いつも通りを装えばいいのに、それが途端にわからなくなってしまう。
「この間、望卯が鈴木さんに旅行に連れて行ってもらったでしょ?」
名前が出て、ドキッとする。どうかこのドキッとが誰にも見られていませんように。
「事前に渡していたお金では足りなかったみたいで、追加の代金を後払いで払う予定だったの。それでお父さんに一万円札を望卯に渡すように頼んでおいた。そしたらお父さんったらリビングに置きっぱなしにしてて。そうしたら無くなってた。」
続けて下を向いていた。まるで尋問を受けているようだった。母の声が耳の奥まで突っ込んできて、戦慄していた。
誰も何も喋らなかった。それもおかしくない。相槌なんて打ったら、疑われてしまうからだ。そうなんだ、なんて言っても声が震えてしまうに違いない。この沈黙を再び破ったのは、母だった。
「別に疑うつもりはないんだけどね、」
「犯人はこの中にいるって?」
緋弥が苦笑しながら言った。映画やドラマに出てくるセリフだ。母は動揺していた。おそらく、母が言いたかったことと彼が言ったことは、同じだ。しかし、母はもう少し包んで言いたかったのだろう。
「疑ってるじゃん。めちゃくちゃ。」
彼は嘲笑っていた。本当に生意気になったものだ。
「そうね。」
母は諦めて認めた。一方、緋弥は満足げに微笑んだ。
「何か知っている人いたら教えてね。」
皐奈ちゃんだけが頷いた。他はみんな知らん顔、のふりをしていた。
その後の空気は明らかに重かった。最初っから知っていたことだけれど。いつもなら剽軽なことをして空気を和まず皐奈ちゃんも黙っていた。リビングの灯りに照らされて、輝きを得ていた食事たちも、その味が落ちたように感じた。
「ごちそうさまでした。」
空気に重りをつけた張本人である緋弥は、清々しい顔をして自分の部屋に戻った。私もそれに続いて部屋に戻る。二番目という一番良いポジションをゲットした。
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