第11話 篁、上皇を助ける。
明るい月に照らされて、立派な構えの屋敷が見えてきた。
庭に面した正面には、ゆったりした幅広の
帝が住まう紫宸殿にも負けないほどの御殿だが、月明かりのせいか少し寂れたように見える。
シロタの背から屋敷の前に広がる庭園を見下ろした
グルルルルルルル
突然、シロタが低く唸りだした。
背中の筋肉がぐわっと盛り上がるなり、シロタが大きく横へ飛んだ。
「わわっ」
振り落とされそうになった篁は、とっさにシロタの首にしがみつく。
次の瞬間、篁たちのすぐ脇を黒い物体が勢いよく通り過ぎた。
背筋がヒヤリとした。シロタが気づいてくれなければ、篁は相手が何なのかもわからぬうちに吹っ飛ばされていただろう。
ひらりと空中で反転したシロタの背から前を見れば、黒い物体も同じようにこちらへ反転する。
「あれは何だ?」
「たぶん、
四つ足の大きな黒い獣。その体は巨大狼に
波打つ長い黒毛に覆われた巨体。その尻尾は蛇のようにうねっている。何よりも不気味なのは、顔を覆う黒毛の隙間から見える金色の一つ目だ。
鵺という魔物のことは何も知らないが、目の前に居るのが良くない物だということはわかった。
篁はスラリと剣を抜き放つ。
シロタは鵺との間合いをはかっているが、今にも
そんな中、鵺がフッと意識を逸らせた。
光る目の視線をたどれば、青白い物体がフヨフヨと宙を漂っている。
「シロタ、あれ!」
「うん。魂だよ。オイラたち、魂が入った壺を追ってここまで来たんだ。でも、オイラたちは人の子に害を成すことは出来ないから、見てるしか出来なくて……」
「人の子? 魂が入った壺を持っていたのは人だったのか?」
篁が疑問を口にした瞬間、鵺がその大きな体を躍らせて漂う魂へ肉薄する。
(まさか、あいつが魂を喰らうのか?)
急ぎ助けねばと思った時、四方から襲来した何かが黒い獣に飛びかかった。
「母ちゃんたちだ!」
シロタが歓喜の声を上げる。
獣の四肢に食らいついているのは、確かに四頭の魔犬だった。
グオォォォォォォォォォオ!
咆哮を上げて鵺が身をよじる。しかし、鵺がその頭を大きく振った瞬間、四頭の魔犬は弾き飛ばされていた。
そのまま鵺は宙を駆け、大きな口を開けて青白い魂を一飲みする。
(ああっ……)
篁が思わず顔を背けたとき、その視界に壺を抱えた男の姿が見えた。
木の影にうずくまる男が抱えた壺からは、青白いものが次々と外へと出ようとしている。
「シロタ! 俺をあそこへ下ろしてくれ!」
「わかった!」
シロタは空中でくるりと踵を返すと、男のいる木の側に着地した。
「ひっ……ひぇぇぇぇっ! 来るなっ、化け物め!」
巨大狼から降り立った篁を魔物とでも思ったのか、髭だらけの男は壺を放り投げて後ずさりする。
見るからにくたびれた男だった。辛うじてくたくたの
篁は、男が放り投げた壺を急いで拾い上げた。魂らしき青白いものが外へ出ようとしているのを、転がっていた蓋で閉じ込める。
「おまえが、官吏たちの魂を狩り取らせたのか?」
「わっ、私は頼まれただけだ。何も知らん!」
「頼まれたって、誰にだよ?」
「そっ……それは」
男は目を
「あっ……あの方だ。あの方に頼まれた! おまえは、あの方が誰か知っているか?
わははははははははっ
狂ったように笑い出した男の前で、篁は息を呑んだ。
伊予皇子──────その名には覚えがある。
今年の正月に、帝が『伊予皇子の謀反は冤罪であった』と御触れを出したのだ。
(まさか、本当に?)
伊予皇子が謀反の罪で捕らえられたのは、【薬子の変】が起こる三年前。今の上皇が帝だった頃のことだ。
謀反を企んだ罪で彼は寺に幽閉され、無実を訴えても聞き届けらなかった。飲食も止められてしまい、母と共に毒を飲んだという。
まだ二十四歳だった皇子が冤罪で自死したのだ。無念であったことだろう。
「あの方に謀反の罪をなすりつけたのは上皇様だ! だからあの方は怨霊となって上皇様を呪いに来たんだ! 早く助けに行かないと、上皇様が殺されるぞ!」
男はそう言うと、踵を返して逃げ出した。
「くそっ!」
追いかけることも出来ずに、篁は屋敷の方へ振り返った。
薄々そうではないかと思っていたが、ここは上皇の住まう平城京の宮なのだ。
「シロタ! この壺をエンマ様に届けてくれ。官吏たちの魂を身体に戻してもらうんだ!」
そう言って壺をシロタに押しつけると、篁は駆け出した。
黒い獣────
庭を駆け抜け、篁が屋敷の階を駆け上がると、
この
それを追って、黒装束の男がゆったりとした足取りで外廊下に出てくる。朱雀門の上で会った時と同様に、黒い頭巾を被っているので顔は見えない。
篁はとっさに上皇と男の間に割って入った。
「待ってくれ! 例えこの人がすべての黒幕だったとしても、裁きは冥府の王に任せてはくれないか? あんたが手を汚す必要はないんだ! これ以上、自分の魂を穢さないでくれ!」
篁が必死に言葉を投げかけても、黒装束の男は無言のまま近づいて来る。まるで篁など存在していないかのように。
いつの間にか、彼の手には黒剣が握られていた。
その剣を大きく振りかぶる。
上皇の前に立つ篁ごと斬るつもりだろうか。
「待てというのがわからないのか!」
篁も剣を抜き「ええいっ!」と、気合いと共に剣を繰り出す。
その瞬間、どこから湧いて出たのかと思うほどたくさんの
「くそっ!」
出来得る限りの早業で剣を振るうが、相手は魔物だ。斬っても貫いても手応えがない。それなのに、魔魅に喰いつかれた篁の足には確かに痛みが走るのだ。
篁が魔魅に手こずっている間に、黒装束の男は篁の横を素通りし、外廊下で腰を抜かしている上皇の方へ近づいて行く。
「おい、やめろ!」
魔魅に噛みつかれたまま、篁は黒装束の男を止めようとした────が、間に合わない。
全身に怖気が走った瞬間、上皇の上に覆いかぶさるように白狼が飛び込んできた。
「シロタ!」
「壺は兄ちゃんに託した! タカムラ急げ!」
シロタの緊迫した叫びに、篁は魔魅に喰いつかれたまま振りかぶった。
「伊予皇子! お覚悟!」
篁の声に振り返った男が、一瞬笑ったように見えた。
繰り出した剣に手応えは無かったが、その一撃で、黒装束の男は霧のように消えてしまった。
それと同時に、魔犬と戦っていた鵺も消えていた。
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