第7話 篁、結婚が決まる。
人界へ戻ると、シロタは人型から巨大狼に姿を変えて、
それほど長く冥界に居たつもりはなかったのに、藤原
シンと静まり返った庭にシロタが降り立つ。
篁はシロタの背から下りると、そっと屋敷に忍び込んだ。いつの間にか子犬の姿に戻ったシロタも、篁を追い越して前を駆けてゆく。
すでに祈祷師は去ったらしく、使用人の姿もない。
御簾が下ろされた壱子の部屋には、濃い香のかおりが漂っている。
まるで死者を弔うようなその静けさに、篁は居ても立っても居られなかった。
(壱子!)
御簾を蹴散らす勢いで、篁は壱子の寝室に飛び込んだ。
呆然としながら壱子の横に膝をついた篁は、彼女の肩をつかんで揺さぶった。
「い、ちこ……壱子っ!」
「きゃぁ!」
小さな悲鳴を上げて、壱子はパッチリと目を開けた。
「い、生きてる! ああ、良かった、本当に良かった!」
体中から力が抜けた。
その場にペタンと座り込んだ篁は、驚いて目をぱちくりさせている壱子をひしと掻き抱いた。
「タ、タカちゃん? あのっ、あれは……あれは夢じゃなかったの? あたしを、冥府まで助けに来てくれたの?」
「ああ、そうだ。夢じゃない。だけど、冥府のことは忘れていいんだ」
「うん……ありがと、タカちゃん」
腕の中で壱子が小さくうなずいた。そのモゾモゾした動きが何とも愛おしくて、篁は思わず壱子を抱く腕に力を込めてしまった。
「痛いよタカちゃん」
「あ、ごめん。嬉しくてつい……」
篁は慌てて腕の力を緩めたが、まだ手を放す気にはなれなくて、そっと壱子を抱いたままでいた。
その時────。
近づく足音に気づいた瞬間、バサリと御簾が払われた。
現れたのは壱子の父、
彼は抱き合う二人を目にした瞬間、くるりと踵を返し「餅だ餅!」と騒ぎ出した。
「壱子が生き返った! しかも篁が通って来たぞ!」
三守の声を聞いて、篁は慌てて壱子を放した。
「おっ、俺は何もしてないぞ! ただ壱子が心配で!」
「当り前だ。今夜から三日、欠かさず通えよ。そうしたら祝言だ!」
「え?」
篁はおろおろして視線をさまよわせた。その途中、篁を見上げる壱子の不安そうな目と合ってしまう。
今朝方、藤原邸を訪ねた折、三守は確かに、篁と壱子に縁談があるようなことを語っていた。おそらく父親同士の思いつきだろう。
篁は初耳だったけれど、もしかしたら壱子は知っていたのかも知れない。
「タカちゃん……嫌なの?」
「いっ、嫌なもんか! ただ、俺は、ちゃんと、自分から、言いたかったって言うか……」
親に決められた事ではなく、自分から文を送り、返事をもらい、いつか壱子の下へ通えたらと、そう密かに願っていたのだ。
「良い良い。そなたが壱子に惚れているのはわかっていた。早速、なにか食べ物と飲み物を持って来させよう。私は今夜、そなたの
三守は迫力のある笑顔で篁を見つめる。帰ることを許さない凄みのある笑みだ。
「そうだ。婿殿さえ良ければ、私が管理している壱子の母の家をそなたに贈ろう。祝言の後はそこで二人で暮らすが良い」
早く独立して壱子をこの家から救い出せ、という三守の圧力をひしひしと感じるが、ただいま篁は無位無官。絶賛すねかじり中だ。
家を貰っても、当然、家人を雇うような余裕はない。それでは返って、壱子に苦労をさせてしまうだろう。
「そっ、それは……せっ、せめて、
目を白黒させながら、篁はそう三守に懇願することしか出来なかった。
初夜は、篁にとって嬉しいような苦しいような夜だった。
篁自身まだ心の準備が出来ていなかったせいもあるが、魂を切り離されて戻ったばかりの壱子に無理はさせられない。
かと言って、篁の沓を抱いて寝ると豪語していた三守の手前、家に帰ることも出来ず、篁は壱子の隣で添い寝をして一夜を過ごすほかなかった。
(……眠れるわけがない)
朝靄の中、家に向かって歩く篁の足には力が無い。
一晩中、壱子の横で、彼女の甘い匂いを嗅ぎながら、ただひたすらに己の欲望に耐えた。
(今夜と、明日の晩を共に過ごせば、
壱子の婿となれるのは嬉しくてたまらない。けれど、正直まだ気持ちが追いついて来ない。
三日通って婿となれば、
「はぁ~」
朝帰りの篁は、困惑するばかりだった。
──────────────────────────────────────
※小野篁が文章生の試験に合格したのは、弘仁13年(822年)だと言われています。
あと三年もあるけど……どうする篁?(≧▽≦)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます