第4話 篁、冥界へ渡る。


 翌朝起きると、しとしとと雨が降っていた。

 たかむらは、そぼ降る雨の中そっと家を出て、藤原三守ただもりの屋敷へ向かった。


 一刻も早く、壱子いちこの無事を確認したかった。

 昨夜も、篁はシロタと一緒に藤原邸まで戻ったのだが、屋敷には祈祷師きとうしが呼ばれ、病平癒やまいへいゆの祈祷がはじまっていた。

 とても壱子の部屋まで忍んで行ける状況ではなく、仕方なく翌朝出直すことにしたのだが────。


 正門の前まで来て、篁は眉をひそめた。

 朝の藤原邸も、築地塀ついじべいの外まで祈祷師の声が聞こえている。


(まさか、昨夜から一晩中続いているのか? ……ってことは、壱子の魂は戻ってないのか?)


 その事実に気づいて、篁は愕然とした。

 魔魅まみと怪しい人影が消えてすぐ、篁とシロタは壱子の魂を探し回った。が、いくら探しても見つからず、壱子の体に戻ったのだろうと軽く考えていた。


「何てことだ……」


 篁は大急ぎで檜皮葺ひわだぶきの正門をくぐると、右手にある侍所さぶらいどころにいた使用人に、主に会いたいと声をかけた。

 祈祷師が一晩中祈祷を続けているのだ。主である三守ただもりは在宅しているだろう。だが、こんな時だけに、篁に会ってくれるかどうかはわからなかった。


 しばらく待っていると、中門廊の扉から三守が現れた。憔悴しきった顔は青白く、いつも朗らかな三守とは別人のようだった。


「篁か……ちょうど良かった。壱子は昨夜倒れて、まだ意識が戻らない。祈祷師も、もはや打つ手がないと泣き言を言っている。……おまえの妻に壱子はどうかと、岑守みねもりと話していたところだったのに……残念だ」


「そんな……壱子は大丈夫だ! きっと大丈夫だ!」


 諦めきった三守の顔を見ていられず、篁は藤原邸から飛び出した。


 しとしとと降り続く雨。

 ひと気のない大路を、篁はひたすら走った。


(壱子はきっと、迷子になっているんだ。魂を引き出されて、家がどこにあるかわからなくなったんだ!)


 どこをどう走ったのか、篁はいつの間にか鴨川のほとりに立っていた。

 いつもより僅かに水量を増した鴨川は、まるで黄泉路にあると言う三途の川のようだった。


(まさか……壱子は、冥界へ行ってしまったのか? そんな……俺はまだ、おまえに好きだとすら言ってないのに!)


 六尺二寸の大男と言えど、彼はまだ青年期に差し掛かったばかりの若人だ。

 じわりと熱くなった目頭から、つぅーっと涙が一筋伝ってゆく。



『泣く涙 雨とふらなむ渡り川 水まさりなば かへりくるがに』(※古今829)


(俺の流す涙が雨のように降って、あの世へ渡る川の水が増えて渡れなくなればいいのに)



 呆然と川の流れをながめていた篁は、ハッと我に返り、己の頬を両手で思い切り叩いた。


「壱子は死んでない! あの魔魅って妖怪に魂を抜かれただけなんだ! 俺は、何があっても壱子の魂を取り戻す! イザナギノミコトの故事に倣って黄泉平坂よもつひらさかを通ってでも、壱子を取り戻して見せる! 絶対だぁっ!」


 わぁぁあぁぁぁぁぁああぁぁぁ! と雄叫びを上げながら、篁は走り出した。

 ザブザブと水しぶきを立てながら鴨川を渡りきる。


 イザナギノミコトの故事に倣うと言ったところで、黄泉平坂がどこにあるのか篁にはわからない。ただ、鴨川を渡った先にある鳥野辺とりのべは、昔から人界と幽界の狭間の土地だと言われている。


「シロタっ! シロタぁっ! いるなら出て来てくれ! 壱子が戻って来ないんだ!」


 枯れ草の波をかき分けて、夏にシロタを見つけた林に分け入ると、篁の呼び声に応えたように突然シロタが現れた。


「タカムラ! ちょうど良かった。冥府でイチコを見つけたんだ。しかも、裁きの列に並んでるんだ!」

「裁きの列だと!」


 壱子の居場所がわかってホッとすると同時に、篁の胸には怒りが湧いてきた。

 寿命でもないのに魂を狩取られ、その体は今も死の淵をさまよっているというのに。まだこれから何十年も生きるはずの彼女が、なぜ裁きの列に並ばなければならないのだ。


「冥府の王は何をしてるんだ! シロタ、俺を冥界へ、壱子の所へ連れて行ってくれ!」

「うん。こっちだ!」


 シロタはくるりと方向転換すると、林の中を縫うように走り、草に覆われた岩の裂け目に飛び込んだ。


「何だ? この穴が冥界への入口なのか?」


 岩の裂け目のような狭い穴は、飛び込んだばかりのシロタの姿すら見えない真っ暗闇だ。

 篁は一瞬ひるんだが、勇気をふりしぼって岩の裂け目に足を踏み入れた。


「ええいっ、待ってろ壱子!」


 狭い岩の裂け目は、大柄な篁の体を難なく飲み込んだ。

 落下するとばかり思っていた篁は、穴に飛び込んだ瞬間グルグル回った。

 眩暈がするような、胃の腑がかき回されるような最悪な気分の中で、篁は意識を失った。


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※この歌は、本当は妹(?)が亡くなった時に詠んだ歌だと言われています<(_ _)>

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