淑女教育(1)

 ポーラニア帝国との戦争が終結し、講和会議によって私が帝国に渡った翌日。その朝から、早速私の淑女教育が始まった。


 教育係は侍女であるクラリスが担当するらしい。


「お嬢様の存在は非常に強い機密となっているので、関与する人数は少ない方がいいに越したことはありません。私の生家であるバスティエ伯爵家は隣国ルナリア王国を守る辺境の家門です。イクリプス王国との国境ほど緊張度は高くなく、辺境には娯楽も少ないので、淑女教育については鍛錬の合間にみっちり叩き込まれました」


 自室の執務机に座る私へと、侍女服のクラリスが説明する。私の目の前には、部屋の本棚から抜き出された一冊の本が置かれていた。


「お嬢様にはこちらの帝国貴族名鑑をお読みいただき、姿絵と名前、領地の特産品などの基本情報を覚えていただきます」


「えーと……上位貴族だけ、とか?」


 貴族名鑑とやらは、いかにも貴族向けという質のいい紙で作られている。紙が薄く平らで、ページとページの間に隙間がない。


 それでもなお私の指二~三本ほどの厚みがあるということは、いったいどれだけの分量があるのだろうか。


「殿下は帝国の全貴族を対象にするようにとおっしゃっておりました」


「ですよね……」


 どうやら抜け道はないらしい。


「代わりにといってはなんですが、話し方や立ち振る舞いに関する指導は最低限でよいと言われています」


「それは……どうして?」


 女性としてはともかく、貴族令嬢の話し方とは到底言えないものだという自覚はある。


 帝国貴族とぶつかっていくにあたって、顔と名前が一致することよりもそっちの方が重要なのでは?


「殿下がおっしゃるには、お嬢様は貴族令嬢としてではなく、お嬢様として活動することが重要なのだ、とのことでした」


 ふむとつぶやいて、皇太子の発言の意図を探る。


 皇太子が私に求めていること、そして私がやるべきこと。


「なるほど……私に求められているのは、『隣国の公爵令嬢』としての立ち振る舞いではなく、『戦姫令嬢』としての立ち振る舞いということね?」


「おそらくはそのとおりかと。戦姫令嬢という帝国にとっての仇敵が、今度は帝国の貴族令嬢にとっての仇敵となる。お嬢様にはそういう立ち回りを期待されているようでした」


 この大陸内で、王族が隣国の王族や上位貴族を婚約者に迎えることはままあることらしい。


 私は確かにイクリプス王国の公爵家の令嬢であり、家格だけ見れば帝国の上位貴族と比較しても見劣りしないだろう。


 だけど、たとえ私が伯爵令嬢であっても、帝国に大打撃を与えた戦姫令嬢であり、帝国の仇敵であることに変わりはない。


 そちらの方が大事だということは。


「私に求める役割は、帝国貴族にとっての『悪役』ということね。いいでしょう、やってやろうじゃない!」


「その意気です、お嬢様。その意気でこの本を読んでいきましょう」


 強く握りしめた拳が、あっという間にしなびていく。


 目の前の貴族名鑑をパラパラとめくってみるが、とても一か月で覚えられる分量には見えない。


「もちろん、これだけ覚えればよいということではありません。戦姫令嬢であっても身に着けておくべき最低限のマナーと帝国法、あとはパーティーで踊るダンスについても習得していただく必要がございます」


「……それ、本気で言ってる?」


 貴族令嬢の淑女教育といえば、幼いころから教育を受けて当たり前のように体に染みついているものだ。この年で新たに学び、身につけるなんて容易ではない。


「あら、もう根を上げられますか? 皇太子殿下からは、無理だと判断したら切り捨てて構わないと仰せつかっておりますが」


 クラリスが背中に手を伸ばす。


 何をしようとしているかは明白だけど、こちらには抵抗するための武器がない。


「うぐぐ……やるわよ!」


「その意気です、お嬢様。お嬢様が早く覚えられるように、私も説明を頑張りますね?」


 クラリスは華のある笑みを浮かべる。その目は笑っていなかった。

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