まだ眠る蛇

梅緒連寸

_

臥龍院がりゅういん 地平じへい

---------------------

19⚫︎⚫︎代に活躍した霊能力者。当時日本で急増していた霊害に対し多様なる対策が生まれた時代の中、神山で修行を積む。後に自身が編み出した通称ヒ◼︎◼︎◼︎霊害対策の普及を目的に著書の出版及びテレビや雑誌等のメディアに多数出演したことから注目を浴びた。19⚫︎⚪︎年。元支援者◼︎◼︎から、除霊行為に対する法外な報酬の要求を受けたして裁判を起こされるも和解。19⚪︎⚫︎年。かつて薫陶を受けた◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎(生没日不明)と◼︎◼︎◼︎◼︎対策における方針で対立、その後◼︎◼︎。19⚪︎⚪︎年。県内の◼︎◼︎にて火災が発生するも体◼︎は残◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎の死体が発◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎そ◼︎後の消息は不◼︎



本当ならば目玉が収まるべきところにふたつ真っ暗な暗闇が空いている老人は至極落ち着き払った様子で正座の姿勢を崩さない。

僕が読み上げる経など痛くも痒くもないようだ。こうした状況が40分以上は続いておりもう随分と喉が疲れた。口の中も渇いて痛い。いずれは舌も縺れてしまいそうだと思った矢先、俯いた男性の肩の辺りが薄らと避け始めている事に気がついた。ほんの少しずつだが、確実に透けて見える向こう側がはっきりとし始めている。僕は希望を見出し、引き続き懸命に経典を握りしめ、彼の成仏だけをただひたすらに心から祈った。


矢磨田やまだくん、お疲れ様」

事務所に戻り更衣室で着替えていると高裂たかさきさんが声をかけてきた。既に着替えも済ませたようで機嫌良さそうに帰り支度をしている。

「お疲れ様です。今日は高裂さんも出張だったんですか?」

「うん、本当は終わったら直帰したかったんだけど使った道具が借りもんだからさ。君こそわざわざ事務所まで帰らなくても良かったんじゃない?」

「僕は事前に仕事着に着替えてたんで、荷物も預けてまして。毎回汗だくになっちゃうんで帰りに着替えてるんです」

本当はたったひとつの案件に自分がそこまで手こずった事はあまり話したくなかったけれど、僕よりもふた回りほど年上の高裂さんは知り合った時から妙に親しみやすく、気構えずに喋ることができる。

「もうちょっと体力つけた方が後々楽だと思うよ。君の使ってるお経は大半のものには効くけど、ずっと詠んでないといけないでしょ。長い時は丸1日かかる時もあるから」

「そんなにですか。僕にはちょっと無理かもですね」

「大丈夫、数こなしていったらそのうち身についていくから。けど矢磨田くんはもうそのスタイル一本でいくつもりなの?」

「僕は不器用なんで、これひとつやるだけで精一杯です」

絞山こうやまさんいるでしょ、あの人この間観た映画に影響されて、改造した掃除機持参して全部吸い込んだんだって。君も色々やってみるといいと思うよ」

白髪の中に幾筋かの黒が混じった髪をかき上げながら、高裂さんは自分の荷物から使用済みの札を何枚も取り出して無造作に紙袋に放り込み、『禁』の文字を表に走り書いた。マジックペンで書かれた黒い文字から一瞬白い煙が一筋のぼり、すぐに霧散した。


他の人には見えない誰か。

生き物ではない何か。

それらは物心ついた時から僕の視界に不意に入り込んでくる。

万人に可視化出来ない存在を総称して霊、その霊の干渉・あるいは存在するだけで及ぼす悪影響を霊害と呼ぶ言葉がある事を知ったのは小学校に上がってからだった。

僕が生まれる少し前の時代にそれは前触れなく起きた。ある年を境に辻褄や整合性の合わない事件・事故の類が爆発的に増加し、それによる社会的混乱、経済への影響、理不尽なほど治りの遅い傷病者の増加、因果の無い死者の続出などあらゆる悪影響が今日まで続いている。

不可解なものが見えたり聞こえたりなんらかの形で感知できる人、今でいう霊能力者も比例する様に続出した。それ自体が霊害の影響とする見方もある。ただ見えないものが事実存在し、見える人もいるという社会的な認識はまだ無いに等しい時代で、訳の分からない物に怯え騒ぐ子供については個々の問題・あるいは社会規模のヒステリーによる影響と片付けられていた。

僕自身、己の性質を徐々に理解し始めると同時に疎外感や腫れ物に触るような周囲の扱いにも気付いていた。なんとなく学校に行く気になれず、毎日家と図書館の往復をしては時間を潰し、そんな時に初めて臥龍院先生に出会ったのだった。

正確には臥龍院先生の書いた本に。

毎日流れる悲惨なニュースの影響を受けてか、オカルトやスピリチュアルを扱う本が非常に多い時代だった。子供向けの怪談集から胡散臭いムック本まで、僕はありとあらゆるものを片っ端から暇潰しに読んでいた。直感的に自分と関わりがあると感じていたのかも知れない。

先生の書いた本は背表紙に何も書かれておらず書架の中で異質な存在感を放っていた。経年劣化により黒い装丁は色褪せていたが、中身はまだほとんど読まれていないようで本文の紙が新品のようにピンと張っていた。

恐る恐るページを捲りはじめた手はその本を読み終えるまで止まることがなかった。最後に本を閉じる前、著者への手紙を送ることが出来る宛先が書かれているのが目に留まった。

返事が来た時は本当に驚いた。内容は一枚の便箋のみ、僕が贈った感想の言葉に対する簡潔な感謝と僕に弟子入りを薦めるものだった。

「明けましておめでとう。今年はこちらで学びませんか。正月の弟子入りは金運を高めます」

「暑中お見舞い申し上げます。夏休みはこちらで修行いたしませんか。今なら20%夏割がお得」

「お変わりないようで何よりです。まずはお試し期間という事でも如何でしょう。期間中に積んだ徳は本弟子入り後も引き継ぎ可能」

そういった手紙が両親に見つかってからは先生との文通は禁止されてしまい、やりとりは途絶えてしまった。数年経ってまたこっそりと手紙を出したことがあったが宛先不明で戻ってきてしまい、本の出版社もその後解散していたためこちらからの連絡のしようもなくなってしまった。

しかしこれがきっかけで僕には自信がついた。自力で有名な霊能者になれば先生にお目にかかる機会もあると信じ独学で勉強を続け霊害対策試験に合格し、以降は大学での勉強と対霊業者派遣会社でのアルバイトという二足の草鞋を履いている。


一足先に事務所を出て行った高裂さんと入れ替わるように絞山こうやまさんが現れた。噂通りごちゃごちゃとしたコードが巻きつく掃除機らしきものを抱えている。一見だけなら普通の女子大生のような絞山さんはいつもその仰々しい装備のせいで遠巻きな視線を集めている。

「おはようございまーす、やっと研修終わったからバイト入れるわー。なんか会うの久しぶりじゃない?矢磨田くん」

「確かに。基本絞山さんと現場被らないですもんね」

「お互い得意な相手が全然違うもんね。ところで矢磨田くん、いま何か悩み事あるでしょう」

「ないわけじゃないですけど別にここ最近で抱えた問題じゃないし今後も地道にやっていこうと思ってます」

「悩み事あるよね。人は全て迷える羊。紹介したい人がいるんだけど」

噛み合わない会話を強いる人が相手でも女性からの親切は受け取るべきと思い、僕は名刺を受け取った。「よっしゃー、紹介割引ゲット。来月はロングコースにしよ」と憚る事なく喜び跳ねている絞山さんに挨拶をしてそのまま帰途に着いた。

後日。簡素な名刺に書かれた場所に赴いた。

プロの占いを受ける事は初めてだったが、霊能者の中にはこれを本業にしている人も少なくないと聞く。

駅からそう遠くない場所にある雑居ビルの中にあるその店は、建物の中の薄暗さもあって誰かの隠れ場所のようだった。

「いらっしゃい」

少し錆びた音を立てる扉を開くと、ほとんどが吐息のようなささやく声が薄いカーテンの向こうから聞こえた。

驚くほど小さな声なのに、なぜか言葉ははっきりと耳に届く。

「どなたかのご紹介でいらしたのですか」

「ハイ、絞山さんからお話を聞きまして。よく当たる占い師さんがいると」

「あなたがここにいらしたのも全ては星の導きによるものです」

「いえ普通に人ヅテです」

「今日お越しになったのは探したい人がいらっしゃるからですね」

驚いた僕に構うことなく女性はカーテンの向こうから手招きし、席に座るよう示した。真っ黒で長い髪が、臥龍院先生の不鮮明な著者近影写真に似ていて少し心臓が跳ねた。

「わたくしのお客様は霊能者の方ばかり。実体のないものが見えても自分の見つけたいものは見られない」

「貴方はそうじゃないんですか?小池さん」

小池さんは細い指でカードを何枚か取り、ビロードの布が掛けられたテーブルの上に伏せ置いていった。

「わたくしにはそんな力はありません。でもあなた方には見えないものが見えます」

伏せられたカードの内何枚かが開かれる。てっきりタロットか何かだと思っていたがそこに書かれていたのは抽象的な文字に似た模様だった。小池さんは淡々とカードを裏返し続け、それはまるで単なる確認作業であったかのようにあっさりと会話に戻る。

「あなたにとってその方はどういった人ですか」

「どういったというか……直接会って話した事はないんです、子供の頃に手紙でやり取りをしていただけで。色々あってそれも無くなってしまったんですが、あの頃の僕にとってはその人だけが頼りでした。一人ぼっちだと思っていた自分の世界を広げてくれたんです」

やがてすべてのカードを開き終えた小池さんは黙り込んだ。目線は自分の爪先にある。伏せられた睫毛がなだらかなカーブを描いているのが優美で、やはり臥龍院先生とは似ても似つかない。

「天啓を受けたつもりでいるのですか。そう自分を納得させて」

言葉に詰まった。

大人になってから臥龍院先生について調べて出てきた結果はどれも醜聞だった。

特定の宗教との衝突、土地権利を巡って争った裁判、返還を求められた報酬の問題。

本を出していた頃は霊害対策のパイオニア的存在としてそこそこ名を馳せたようだったが今や世間での評判はインチキで荒稼ぎする詐欺師同然だった。そんな風に知られた人が小学生に対して頻繁に勧誘を掛けていれば親が止めに入るのも当然だ。

「それでも、今の僕があるのはあの人のお陰なんです。だから会えないままで後悔をしたくない」

小池さんは潤んだ真っ黒な瞳でじっと僕を見つめ、やがて受け入れたように溜息をついた。

「その人もあなたの事を探しています。あなたのその気持ちを周囲にさらけ出せば自然と縁が引き合います」

これまで僕は臥龍院先生を探し出したい一方で、それを人に知られたくない気持ちも持っていた。先生が僕を弟子にしたがったのは単なるいっときの戯れで、僕がそれを今でも本気にしているだけなのだとしたら。そんな想像がいつも頭の隅にあった。だからそれを現実にしないように本当の事を知るのを避けていたのだった。

小池さんの言葉には不思議と深い実感を与えられた。先生はまだ、僕の事を覚えていてくれているのだと思えた。

「僕、ここに来てよかったです。ありがとうございます」

「それは何よりです」

「……あと、よければもうひとつ聞きたかったことがあるんですけど。僕って、今後霊能力者として食べていけるんでしょうか」

ずっと夢を見ているような目つきの小池さんは、この日初めて静かに微笑んだ。

「ここから先は別料金ですよ」

 


「なんだ矢磨田くんが探してたのって臥龍院くんだったの。狭いなあ世間」

真っ先に思い付いた身近な人。高裂さんに打ち明けてみれば、数年越しの探し人は3秒で見つかった。

事務所には仕事上がりの絞山さんもいた為、紹介のお礼を言おうと思ったが真剣な顔つきで今日の報酬を計算していたのでそっとしておいた。

「何年か前に年賀状もらったけどまだそのの住所にいるんじゃないかな。行ってみなよ」

「いえさすがにいきなりお宅に向かうのは失礼だと思うので」

「でもあの人電話持ってないし事前に連絡できないんだよね。そもそも家に電気通ってるのかな?手紙もこっちから送ったものに返してくれたことないんた。でも知ってる人間が近付いてくるのは事前にわかるらしいからアポ無しでも大丈夫だよ、多分」

どこから訊けばいいのか分からない要素がいくつも挙がって面食らったがとりあえず1番気になったことを聞いてみた。

「高裂さんと臥龍院先生はどうやって知り合ったんですか」

「どうやってというか、普通に何回か一緒に仕事したことあるんだよ。あ!昔2人で撮った写真があったかも。年賀状と一緒に持ってきてあげるよ」


舗装されていない山道を小1時間ほど上がると不意に古い石の階段が現れ、そこを登り切ると臥龍院先生の住む古屋敷があった。ほぼ廃屋のような佇まいだったが、庭先の物干し竿で揺れる洗濯物が辛うじてこの家で人が生活している事を示している。

懐から古びた写真を取り出してもう1度臥龍院先生の顔を確認する。色褪せた写真でも判る真っ赤な長髪、太く濃く引かれたアイメイクと大きなフリルの付いた服を着た派手な出立ちの人が笑顔でピースサインをこちらに向けている。その隣で影の如く黒い格好で突っ立ち幽霊のようにぼんやりとした表情で写っているのが臥龍院先生だ。かつて手に取った本に載っていた近影とほぼ変わらない。そして最初に目につくこの派手派手しい格好をしているのが若い頃の高裂さんだそうだが、どう受け止めていいのか分からなかったため深くは考えないようにしている。

屋敷の玄関までに続く道は半ば藪のように生え放題のツツジが囲っており、その突き当たりに先生は立っていた。

全身に頭巾と黒衣を見に纏う姿は尼僧のようだったが、覗く顔は男性にも女性にも見えた。垂れ下がった黒い髪が僅かに風に揺れている。

能面のように固定された表情からはなんの感情も読み取ることができなかったが、

「待っていましたよ」

かけられたひと言で、これまでの時間の事はもうどうでも良くなった。

僕が知らない先生の過去さえ、どうでも良くなった。


迎え入れられた屋敷の中は外観ほど傷んではいなかったが、決して綺麗でもなかった。

「私の下で修行するという事は朝も夜も私の世話に明け暮れる事でもあります。覚悟は出来ていますか」

「はあ、家事はそんなに得意でもないですが、そんなに苦手でもないので頑張ります。」

「そうですか。矢磨田くん。改名をなさい」

「えっ。いきなりですか」

「強い霊能力者はみんなします。私の弟子という事は家族も同然。今日から臥龍院を名乗る事を許しましょう」

「初日でもらっていいんですか」

臥龍院がりゅういん天爛てんらん先生は手を差し出した。

子供の頃の記憶が鮮明に蘇る。あの時きっと差し出されたものと同じ手。

地平じへいくん、私は君を頼りにしますよ」

まあいいか。深く考える前に僕はその痩せた手を握り返していた。

この人の手足になりにきたのだからそれも当然のことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

まだ眠る蛇 梅緒連寸 @violence_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ