第三十集 廃

「お、おお……」

 昨日逃げ出してきたはずの妓楼の前へとやってきた霓瓏げいろうは、その独特の雰囲気に、はやくも怖気づきそうになっていた。

「にょ、女人にょにんの華やかな香りでむせそうだなぁ……。昨日とはここにいる理由が違うから、なんか変に緊張してきちゃった」

 深呼吸をするも、漂ってくる香りは変わらない。

 霓瓏げいろうは少し震える指先をぎゅっと握りしめ、祁禮きれいに言われた通りの態度で中へと入って行った。

「わあ……」

 三階建ての妓楼には、正面に左右へ伸びた大階段があり、まるで舞台のよう。

 入口から見て両壁沿いに個室があり、二階と三階には左右と正面にも部屋があるようだ。

 店内は広く、そこかしこで男女が仲睦まじく会話している。

 その笑顔を照らす灯篭一つとっても、意匠が細かく、高級な印象だ。

 鎮火用の水瓶にすら雅な絵が描かれている。

「ようこそ、歓甜楼かんてんろうへ。お客様は……、まぁ、きっと初めてでしょう?」

「そ、そうです」

 現在の霓瓏げいろう祁禮きれいの様々な装飾により、『商売で望灯もうとうへやってきた大商人の息子が親の目を盗んで妓楼へ遊びに来たがどうすればいいかよくわからずとまどっている』という長ったらしい設定がつけられている。

 ただ、上手くいったようだ。

 霓瓏げいろうの服や身に着けている小物から『金持ち』と判断した妓女が、女主人を呼びに行ってくれた。

「せっかくだから、色々教えて差し上げたいんですの」

 柔らかな感触が腕に……。

 霓瓏げいろうは頭の中で生薬の名前を羅列しながら意識をそれから遠ざけた。

「あらあら、可愛いお客様ですわ」

 大階段の中央、一目見て女主人だとわかる品のいい女性が降りてきた。

 控えめな輝きになるよう丁寧に織られた布地で作られた金の旗袍チーパオは、女主人の顔を優しく照らし、その艶やかな魅力をぐっと引き上げている。

「さぁ、お客様。こちらへ。最高の妓女たちとおもてなし致しますわ」

「は、はい」

 霓瓏げいろうは女性たちに腕を組まれ、されるがままついていった。

 部屋は三階。

 中へ入ると、華やかな装飾がなされた火鉢と、艶々の良く磨かれた円形の机と椅子五脚が用意されていた。

 少し離れた場所では、美しい天女のような妓女が琵琶を奏でている。

「さぁ、お掛けくださいな」

 霓瓏げいろうが席へ着くと、女主人が斜め前に座り、霓瓏げいろうの左右隣には誰も席につかなかった。

 不思議に思っていると、障子が空き、大柄な男と、見覚えのある顔が入って来た。

(髭面の! え、バレたのか⁉)

 霓瓏げいろうはわけがわからず、女主人の顔を見ると、彼女はとても穏やかな笑顔で頷いている。

「はじめまして」

 大柄な男性が恭しく頭を下げたので、霓瓏げいろうも立ち上がり、同じように頭を下げた。

「は、はじめまして」

「さあさあ、おかけください。突然のことで驚かせてしまい、申し訳ありません」

 大柄な男は、髭面の男に目線で指示を出すと、髭面の男は外へと出た。

 用心棒なのだろうか。

「将来有望な青年が来ていると女将から聞き、是非挨拶させていただきたいと無理を言ったのです。お遊びのところをお邪魔して本当に申し訳ありません。少しだけ、お食事などいかがでしょうか。もちろん、わたくしからのささやかな贈り物です」

「あ、ありがとうございます」

 どうやら、霓瓏げいろうだとはバレていないようだ。

 大柄な男性が近くにいた妓女に「最高の食事を頼む」と言うと、妓女は笑顔で頷き、外へと出ていった。

「まだ名乗っておりませんでしたね。わたくしはここ望灯で商いをしております、趙 透ちょう とうと申します」

 霓瓏げいろうは偽名である「金 蓮きん れんです」と名乗った。

「蓮殿、妓楼は初めてだとか」

「そうです。父からはまだ早いと言われておりまして」

「そんなことはありませんのに。遊び方は実際に体験して知るものですから」

「そうなんですね」

「そこで、いいものがあるんです」

 ちょうど、料理が運ばれてきた。

 どれも美味しそうなものばかり。

 ただ、その中に、一つだけ異質なものが混じっていた。

 茶色いガラスで出来た小瓶だ。

「こちらの丸薬なんですがね……。これを一粒呑むだけで、いい気持ちになれるのですよ」

「いい気持ち、ですか」

「そうです。飲む前に女人と戯れるよりも、飲んだ後に戯れたほうが、快感が何十倍にもなるのです」

「へぇ……」

 霓瓏げいろうは興味のあるふりを続けた。

「しかし、父からは厳しく言われているのです。主治医が出す以外の薬は飲むな、と」

「それは……。さすがはお父上、蓮殿をとても大切に思っていらっしゃるのですね。正しい教育かと存じます。ただ、この薬は名医による処方なのです」

「ううん……」

 渋る演技をしつつ、相手の出方を窺った。

「いいでしょう。では、蓮殿にだけお教えしましょう。実はわたくし……、もと皇族の関係者なのです」

「……というと?」

「はい。慧国の先帝がまだ二十代だった頃、太后様よりも前に一人、皇后陛下がいらっしゃったことは御存知ですか?」

「え、知りません」

 これは霓瓏げいろう自身も初耳だった。

「ええ、ええ。そうでしょうとも。お若い方はご存知ありませんよね。でも、事実なのです。ただ、その最初の皇后陛下は、嫉妬のあまりの一人を陥れ、死に追いやってしまいました。それが露見し、先帝の怒りにふれ、廃后されてしまったのです」

 とうはまるで物語を朗読しているように、少々大げさな身振りで話し続けた。

「廃后となったその女性は、絶望しました。なぜならば、すでに陛下の子供を身ごもっていたからです」

 危険な話になってきたぞ、と、霓瓏げいろうの直感が告げた。

「女性は故郷であるここ、望灯で一人の男児を出産しました。それが、わたくしなのです」

 目の前の透は、感情もなく、ただ微笑んでいる。

 先帝は七十歳手前で崩御した。

 透の年齢は五十代いくかいかないか。

 話が本当ならば、彼は宗室の血筋ということになる。

「恐れながらお聞きしますが……、証拠はあるのでしょうか」

 早鐘のようにバクバクと動く心臓。

 霓瓏げいろうの警戒心は嫌でも高まっていく。

 すると、透は待ってましたとばかりに懐からかんざしを取り出した。

「信用していただけましたかな?」

 霓瓏げいろうの背に冷や汗が流れた。

 目の前に出されたかんざしは一度割られており、金継ぎがなされているものの、それはまさしく皇后陛下が儀式などで身につける重要なものだったからだ。

「こ、これは……。あ、あの、わたし……。少し気分が……」

「それは大変です。では、明日もう一度お会いできますでしょうか。今日はここまでに致しましょう」

 そう言うと、透は柔和な笑顔を浮かべ、立ち上がり、恭しく頭を下げながらその場から立ち去って行った。

 霓瓏げいろうは女主人が呼んでくれた馬車に乗り、途中まで行くと、「ここからは歩きます」と言い、すぐにその場から離れた。

「いやぁ、これは大変なことになったぞ」

 霓瓏げいろうは追手がいないことを確認すると、すぐに太桃矢タイタオシーに乗り、祁禮きれいたちが待つ邸へと戻って行った。

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