第六集 炎の涙

 昨夜、兵部の野営地から聞こえてきた悲鳴はとても愉快だった。

 「く、くせものぉぉお!」という声に、待ってましたとばかりに祁旌きせいが現れ、「なんと、ウルナ殿下ではありませんか」と会話を始め、兵部侍郎が悲鳴を上げたことへの非礼を詫びるという茶番劇。

 兵部侍郎は顔を真っ青にしてひたすら謝っていた。

「またやりましょうよ、ああいうの」

 翌朝、ウルナの隊が馬市到着まで案内してくれることになり、兵部侍郎はまた顔を青くしていた。

「機会があったらな」

「俺は良いぞ。面白かった」

 馬に乗り、前に祁旌きせいとウルナ、後ろに霓瓏げいろうとスニアクが並び、仲良く出発した。

「ウルナ様はご自分へ向けられるべき敬意について、もう少し真剣に考えたほうがよろしいかと」

「……スニアクは毎日真面目だなぁ」

「話が合いそうですね、スニアク殿」

「お前はどちらかというと不真面目だろうが、霓瓏げいろう

「失礼な!」

 あはは、と笑いが起こる。

 その頃、兵部侍郎一行は朱燕軍の兵士たちとウルナ隊の戦士たちに護衛されているため、もはや馬車の中で唇を噛みながら悔しがるしかなかった。

「なぜ気づかれたのだ!」

 小声で叱責する兵部侍郎に、侍従は一枚の紙を渡した。

「なんだこれは……、な、なんだと⁉ あの陛下からも称された軍医、 霓瓏げいろう仙子せんし族だと⁉」

「昨夜、鬼魅きみの大将がそう言っているのを見張りが聞いております」

「……これは、絶対に他には漏らしてはならん」

「はい。そのため、その見張りはすでにこの世にはおりません」

「うむ。適当な理由をつけて、遺族にはお悔やみの銀子でも渡しておけ」

「かしこまりました。手配いたします」

「それにしても、まさか仙子せんしとはな……」

「争いの絶えない不安定な治世に、各聖域の妖精王族より送り込まれてくる螢惑けいこく守心しゅしんのような存在だと聞いたことがあります。それは吉兆か、はたまた災厄か。彼らをそうたらしめるのは、我々人間の行い次第だと……」

「ふんっ。麒麟や鳳凰、白澤はくたくでもあるまいに……。いったい、何が出来るというのだ。あんな小僧に……」

「ただ……」

 侍従は遠慮がちに目を伏せ、口をつぐんだ。

「なんだ、言ってみよ」

「では……。仙子せんし族はあまりに未知数の存在です。高名な呪術師でも致死節ちしせつを見つけることが出来ず、占星術師の占いでもその結果を読み解くことは不可能。導師による祈祷は当然効かず、魔術師では歯が立たない。唯一対抗できそうな力を持つ魔女族に至っては、仙子せんし族と未来永劫の同盟を結んでいる始末。そのような存在が、よりによって朱家にいるのです。これは由々しき問題なのでは?」

「……いいことを教えてやる。いいか、血の出るものはそれが何であれ、殺せるのだ。仙子せんし族は血煙けつえんと呼ばれる白い煙を出すらしいが……。まぁ、なんであれ、出血することには変わりなかろう」

 「それにな」と、兵部侍郎は意地の悪い笑顔を浮かべて言った。

「人間に溶け込むために、奴らは液化薬というものを飲むという。それは血を赤く染め、液状にする薬だ。副作用に、流血が止まりづらくなるというものがあるらしい。本来、血液が持っているはずの凝固作用が低下するのだ」

「それならば、雑兵でも殺すことが出来るということですね」

「その通りだ。きっと奴も飲んでいるだろう」

 先ほどまで通夜のように静まり返っていた馬車の中が微かに賑わいだした。


 ウルナの協力により、クハルゥ族の自治区域もなんの衝突もなく通ることが出来た祁旌きせいたち一行は、予定よりも半日速く馬市の会場へと到着することが出来た。

「昼飯は俺らと食べるか?」

「先に族長殿にご挨拶せねばな」

「母上か……」

「父君の具合はそんなに悪いのか」

「ああ。もう、長くないだろうと」

「わたしが診ましょうか?」

 しばらく馬に乗らなくていいことに清々しい笑顔を浮かべて喜ぶ霓瓏げいろうは、二人の会話にひょっこりと入って言った。

「いいのか⁉」

祁旌きせい殿とウルナ殿の母上が了承してくださるなら、わたしは誰でも診ますよ」

「もちろん、俺は良いが……」

「母上は俺とは違い、慧国を恨んでいる。だが、朱燕軍の、それも祁旌きせいの言葉なら聞いてくれるやもしれん。なんせ、俺の命の恩人の息子だからな」

 馬市での軍馬買い付けはとても重要な任務であり、それ以外の話し合いでクハルゥ族と軋轢が生まれるのは裂けたい。

 だが、祁旌きせいはそんなことは気にしない。自分が素晴らしいと認めている男の力を、信じているからだ。

「……霓瓏げいろう、行くぞ」

「はぁい!」

 霓瓏げいろう霓瓏げいろうで、病気の人は放っておけない。それは助けたいとか、命は大事だとか、そういう高尚なものではなく、大いなる好奇心からのもの。

 もし自分がまだ知らない病だったら?

 手に入れたばかりの薬草を使う絶好の機会チャンスだったら?

 霓瓏げいろうはただただ好きなのだ。

 消えかけていたが、自分の技術で再び燃え上がるのを見ることが。

 馬市の会場で、一際大きく豪華な天幕。

 色とりどりの布が掛けられ、見る者を圧倒させる。

「母上、戻りました」

「入りなさい」

「朱燕軍の将軍も一緒です」

「……いいでしょう。一緒に入ってきなさい」

 中はとても広く、極彩色の洪水のよう。

 焚かれている香はおそらく山梔子サンシシ。その実に精神安定の効果がある薬草だ。

「プラミア様にご挨拶申し上げます」

「……朱の若様ですね。お父上はお元気でいらっしゃいますか」

「はい」

「兵部侍郎殿はまだお越しではないのですか?」

「いえ。今プラミア様への贈り物を準備しているところでしょう」

「そうですか。……隣にいる者は何者ですか」

「我が朱燕軍の筆頭軍医でございます。ウルナ様よりイヨヒキ様のことを聞き、連れてまいりました」

「母上、この霓瓏げいろう仙子せんしなのです」

「……まことですか」

 視線が一気に霓瓏げいろうに集まり、居心地の悪さを感じながらも、頭を下げ、口を開いた。

「はい。わたしの名は李 霓瓏げいろう太陰星君たいいんせいくん嫦娥じょうが陛下が治める聖域から参りました」

「……頼みます」

 一呼吸の後頭を上げると、そこには玉座で涙を流しているプラミアがいた。

「夫を、救ってくださいませ……」

 クハルゥの女族長は、あろうことか玉座から落ちるように地面にひざをつき、平伏した。

 急いでウルナが駆け寄り、その身体を支えた。

「お、おおお、お顔を上げてください!」

 これにはその場にいた全員が狼狽えた。

 夫が倒れてから三年間、一度も弱音も涙も見せたことの無かった炎の女帝が、ひたひたと涙を流し、願い乞うているのだ。

 夫の命を、会ったばかりの青年に。

「あ、案内していただけますか」

「ウルナ、連れて行って差し上げて」

「は、はい、母上……」

 三人は深くお辞儀をし、イヨヒキが眠る天幕へと向かった。

「あの、案内していただいた後はすぐに戻ってあげて大丈夫ですよ」

「いや、大丈夫だ。母は家族にも涙を見せることを嫌がるから……」

 ウルナは明らかに動揺していた。きっと初めてだったのだろう。母親の涙を見たのは。

「ここだ。霓瓏げいろう……。よろしく頼む」

「ええ。任せてください。祁旌きせい殿は兵部侍郎の見張りにでも行ってください」

「わかった。任せたぞ」

「はいですとも」

 霓瓏げいろうは一人、クハルゥの族長が眠る天幕へと入って行った。

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