第四集 悪意のにおい

 次の日、都へと戻った霓瓏げいろうは、真っ先に居候中の祁旌きせいの屋敷へと向かった。

「ただいまもどりましたぁ」

「おお、どうだった」

 まだ早朝だというのに、祁旌きせいはすでに甲冑を着終えていた。

「大きいのを倒したので、しばらくは魑魅すだま鬼魅きみも怯えて出てこないと思いますけど……。なぜもうそんな支度を?」

 祁旌きせいは溜息をつきながら、勅旨を見せてくれた。

「昨日の昼頃届いたんだ」

 そこには、『馬市の間、兵部侍郎じろうを護衛せよ』といった内容が書いてあった。

しゅ主師しゅすい様は一緒ではないのですね」

「ああ。父上は兄上と共に都に残る。……心配だ」

「そうですね。あなたに何かあれば、きっとあの二人は兵部に対して挙兵も辞さないでしょうから」

「大切に思ってくれているのはわかるのだが、それでは奴らの思うつぼだ。兄上が普段の冷静さを保って行動してくれれば良いのだが……」

「わたしも一緒に行きましょう」

「……いいのか?」

「もちろんです。居候にとって家とは、屋敷ではなく家主のこと。もちろん、同行させていただきます」

「なんだか気味の悪い言い方だな」

「失礼な!」

「すまんすまん。ほら、準備しろ。三十分後には出発だ」

「激しい香りの薬草ばっかり持って行ってやる!」

「だから、すまんってば」

 霓瓏げいろうは速足で自室、もとい居候させてもらっている離れへ行き、持ち運び用の百味箪笥に薬草の補充を始めた。

「あ、昨日買った薬草……。干す時間ないなぁ」

 かといって、幻華天雛げんかてんすうに入るところを屋敷の者に見られるわけにもいかない。

「……籠ごと持っていくか」

 霓瓏げいろうは籠に布をかぶせ、そのまま鞄に押し込んだ。

 鞄の中も、馬車三台分ほどの小さな幻華天雛げんかてんすうになっている。

「服も持って行かないと……。お風呂用の大きな桶と、天幕と、お菓子と……」

「おい、遊歴に行くんじゃないんだぞ」

「ちょおおお! なんで覗いてるんですかどうしてここにいるんですかこの覗き魔!」

「お前が遅いからだ! 持っていきたいものをさっさと馬車に乗せやがれ」

「ああ、大丈夫ですよ。わたしは自分で鞄に詰めていきますから」

「ああ、あのなんとかかんとかっていう」

幻華天雛げんかてんすうですぅ。いつになったら覚えるんですか。戦のことしか頭にない脳味噌兵法野郎なんですか」

「ああ?」

「……ごめんなさい」

「ほら、終わったんなら行くぞ」

「はぁい」

 霓瓏げいろうは詰め終わった鞄を身体に斜めにかけ、祁旌きせいの後をついて行った。

「今回はどんなことになるでしょうね?」

「クハルゥ族には心底嫌われているからな、慧国は」

「限定的な条約が結ばれているとはいえ、つい十年前まで殺し合ってましたもんね」

「……その筆頭が我ら、朱燕軍。今のクハルゥ族の若い世代は戦争孤児も多い。どうなることやら」

「兵部はどんな感じなんです?」

「クハルゥ族の族長らに『朱燕軍はあなた方に対してやりすぎた』って言っているらしい」

「……は? 朱燕軍が他の軍の略奪や凌辱行為を抑え込んだから、今クハルゥ族は血が絶えることなく存続出来ているのでは?」

「そんなの関係ないんだよ。事実、クハルゥ族の兵を一番殺めたのは朱燕軍だ。それも、当時の俺の隊だ」

「護国の英雄がする顔ではありませんね。後悔しているのですか?」

「後悔はしていない。国を護るのが俺の仕事だ。だからこそ、弱さを忘れちゃいけないんだよ」

「ご立派です。若様」

「やめろ気色悪い」

「またそうやって! 失礼な人ですねぇ」

「はいはい」

 靴を履き、屋敷の門から出ると、街道にはすでに見送りの人々が集まっていた。

「若様、どうかご無事で!」

「お気をつけて行ってらっしゃいませ!」

「若様かっこいいー!」

「きゃぁあ! こちらにもお顔を向けてくださいませぇ!」

 こういったことに慣れている祁旌きせいは颯爽と馬に跨り、声のする方へ笑顔を見せながら都城の門へと進んでいく。

 霓瓏げいろうも馬に乗ったが、誰も声はかけてこない。

 唯一、いつも行く食堂のおじさんが「軍医さん、お気をつけて!」と言ってくれただけだ。

(どうせわたしは居候中の何のとりえもない美少年ですよ)

 美少年、というのは譲れないらしい。

 霓瓏げいろう祁旌きせいの背中を睨みながらその後をついて行った。

 北門を出ると、二千の兵と共に西の方向へ進んでいく。

 すると、ちょうど西門からこちらの方へと進んできた兵部侍郎の隊、三百と合流した。

「おやおや、若様。立派な甲冑で……。また陛下からですかな?」

「ええ。前回の遠征の褒美として賜りました」

「ご活躍はよく聞き及んでおります。ほんに華々しい一族ですなぁ。朱家は」

「いえいえ。ただ護国のため戦っているだけです」

「……ご立派なことで」

 兵部侍郎はそれ以降、全く話しかけてこなくなった。

 おそらく、祁旌きせいに突き回すことが無いからだろう。

 霓瓏げいろうは慧国が保有する軍についてさほど詳しいわけではないが、朱燕軍に関しては清廉潔白だと大声で言うことが出来る。

 朱燕軍は遠征先の城主から渡される賄賂はすべて書面に記し、帰還次第国庫に納めているため、私的に受け取ったことは一度もない。

 女性だけで編成された医術隊が二つあるため、捕虜として保護した非戦闘員への心理的配慮も手厚い。

 朱燕軍代々の主師しゅすいが軍を動かす際に大切にしていることが、『護国とは、新たに国民となる人々も護ることである。民あってこその君主なり』だ。

 この考え方のせいで、もちろん、皇帝を含めた上層部とお意見がぶつかることもある。

 それでも、曲げず、折られず、歪められず、ただひたすらに進んできたのだ。

 その甲斐あってか、朱燕軍の士気は常に高く保たれており、その絆は簡単には壊せない。

 だから文官たちはその中枢たる朱家のものたちを。あの手この手で失脚させようと狙っているのである。

 当主である朱 祁光きこうとその長子に対する領地の人々の信頼は、まるで一国の主に匹敵するほど。

 もし朱家が慧国に反旗を翻すことがあれば、それに同調する勢力は多い。

 朝政を預かる文官たちにとって朱家は、大きすぎる目の上のたん瘤なのだ。

祁旌きせい殿、そろそろ休憩しませんか?」

「疲れたのか、霓瓏げいろう

「お尻が痛いです」

「……あと四日もあるのに、出発して一時間で休憩はとれん」

「ぐぬぬぬぬ」

 霓瓏げいろうは「お尻が貧弱ですいませんね!」とぶつくさ言いながら、次の休憩まで耐えた。

 何度か休憩を重ね、馬を変え、野営を挟みながら走り続けること三日目。

 太陽が地平線に近づき、あたりを夕闇が支配し始めた。

「野営の準備だ!」

 号令がかかり、やっと本日のゆっくりする時間がやってきた。

 しかし、霓瓏げいろうには混乱を持ち込む何者かの悪意が透けて見えていた。

「……わたし、見回りしてきましょうか」

「何か気付いたのか?」

「誰かが近くの森に豚の血液を撒いている」

「……行け」

 霓瓏げいろうは篝火に影が映らないよう、暗闇の中太桃矢タイタオシーに乗り、森へと向かった。

(あれは……。兵部侍郎の侍従たちか。魑魅すだま鬼魅きみを呼び寄せて、襲わせる気だな? 大方、朱燕軍の失態を招きたいのだろう。援軍が届かない場所まで来たから実行に移したんだ。そうはさせない)

 霓瓏げいろうはすぐに祁旌きせいの元へ戻った。

祁旌きせい殿」

「兵部の奴らが何かしてきたのか」

「奴ら、自分たちを襲わせる気です」

「……俺の護衛としての能力を朝廷に疑わせたいのだな」

「そのようです」

「討伐隊を編成したいが……。我らは二千。あいつらの三百は期待できないし、なんなら邪魔してくるかもしれない」

「わたしが出ます」

「でも、兵部に仙子せんしだということが露見するかもしれないぞ」

「まぁ、一年間隠し通すことが出来たのですから、上々でしょう」

「……俺は全力でこの野営地を護るとしよう。兵部の奴らを一歩も外に出さないようにな」

「では、行ってまいります」

「頼んだ」

 霓瓏げいろうは再び太桃矢タイタオシーに乗ると、豚の血が撒かれている場所へと急いだ。

(鍛えるのも戦うのも正直大嫌いだが、朱家には恩がある。それをないがしろにするほど、怠惰ではないぞ、わたしは)

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