ある作曲家の話
睡蓮
第1話
彼はピアノが好きだった。
自分の世界を創ってくれる88の鍵盤が奏でる音と彼は常に一緒だった。
彼はピアノと一緒に歌を作った。
夏の夕焼けの寂しさを歌った。星が降る夜の静けさを歌った。自分の好きなピアノのことを歌った。彼が美しいと感じたものを残すために歌った。
彼はそれをたまにインターネットにアップロードした。なぜかと言われれば、彼のピアノの師はインターネットにアップロードされた音楽たちだったからである。それだけの理由である。でも彼は動画を上げることに使命感のようなものを持っていた。
ピアノと共に歌を作ることが彼の幸せだった。
だから、動画がほとんど再生されず、聞いてくれるのが彼の恋人だけでも彼は構わなかった。
そして彼の恋人もまた、そんな彼のピアノが、曲が、大好きだった。彼女は彼の曲を聴くといつも決まって
「素敵な曲を聴かせてくれてありがとう」
笑顔でこう言った。
穏やかな陽気に満ちて、次第に空気が暖かみを増していく春の日、彼はまた、曲を作った。
それは彼女への愛を歌う曲だった。それは桜の下で笑う彼女が綺麗とか、花粉症でくしゃみをする彼女が愛おしいとか、そんな歌だった。
その曲を聴いた彼女はやっぱり、桜のような笑みを浮かべて
「素敵な曲を聴かせてくれてありがとう」
と言った。
その曲がインターネットにアップロードされると、多くの人に再生された。彼の曲は初めてヒットした。
彼の彼女を想う気持ちは多くの人に共感され、瞬く間に彼は注目のアーティストとなった。彼は自分の曲が評価されたことがとても嬉しかった。
彼を取り巻く世界は変わり、人々は彼の次の曲に注目した。彼もまた、人々に注目されていることを意識した。
彼はすぐに次の曲に取り掛かった。人々がどんな曲を求めているのかを考えた。どんな曲が流行るかを考えた。一生懸命に曲を作った。結果を言えば、次の曲も売れた。辛くて苦しい社会を生きる世間の声を代弁した歌だった。
彼女はその歌を聞くと少し寂しそうな顔をして
「素敵な曲を聞かせてくれてありがとう」
とだけ言った。
夕暮れがやってくるのも、足早になってきた夏の日、彼がいつもの待ち合わせ場所へ向かうと、彼の恋人は耳にイヤホンをして音楽を聴いていた。
彼が何を聴いているのかを聞くと、彼女は彼が昔作った曲の名前を口にした。
彼はその曲があまり好きではなかった。というより彼は自分の昔の曲が好きではなかった。だから、あんまりにも幸せそうに自分の昔の曲を聴く彼女を見て思わず
「もっといい曲があるじゃないか、昔の曲なんて聞かないでさ」
そう言った。
それを聞いた彼女はとても悲しく、寂しい顔をした。そして瞳に大粒の涙を浮かべ、その場から走り去っていった。初めて見る、彼女の泣き顔だった。
彼の頭には蝉の鳴き声だけが響いた。
結局彼女とは別れた。もう、それっきりだった。
別れた、だから彼は失恋の曲を書いた。彼自身の体験をもとにした、多くの人に共感されるような曲だった。
そしてその曲はまた、彼のヒット作となり、多くの人に聴かれることになった。
彼は曲をずっと作り続けた。
いつの間にか彼は、ピアノを曲に用いることが少なくなっていった。流行りの音を分析し、どうしたら曲が売れるのかを考えた。そうして彼はいくつもの曲を作った。
彼の心からは次第に音楽の楽しさは消えていった。彼は作曲は仕事だと割り切っていた。
そんな彼の思いに反して曲の再生回数は次第に減っていった。それと同時に自分が何をしたいのかが分からなくなっていった。
心無い言葉で批判も受けた。渾身の作品を否定され、発狂しそうになった。
それでも彼は曲を作った。
作って、作って、作って、
最後には何も作れなくなった。
彼はもう、ピアノも音楽も嫌いになっていた。
「夢を見ていたのだ」
彼はそう思うことにした。そう思わずにはいられなかった。
それから五年の月日が経った春の日、 彼はもう、音楽はやめていた。
穏やかな春である。仕事からの帰り道、彼はふと寄り道がしたくなった。向かったのは昔よく行った公園である。実に五年ぶりである。状況は変わっている、でも
「変わらないな」
公園に入ると彼はそう思った。
彼は桜の木の幹が春の風で揺れるのを見た。
聴色の花びらが散るのを見た。
自分が変わってく中、変わらずあり続ける景色を見た。
彼はそれがどうしようもなく美しいと感じた。
きっかけはたったそれだけだった。
それだけだった。
気づけばトムソン椅子に座り、ピアノと共に曲を作っている自分がいた。
変わらない景色のことを歌った。変わってしまった自分のことを歌った。美しい桜のことを歌った。
三日三晩続けて、最高傑作が出来た。
彼はその曲をインターネットにアップロードした。けれども、もう彼の曲が人々に再生されることはほとんどなかった。五年という月日は、人々が彼を忘れ去るには十分だった。
それでも彼は構わなかった。ピアノと共に曲を作ることが彼の幸せだった。止まっていた彼の時間は再び、確かに時を刻み始めた。
彼はまた、ピアノが好きになっていた。
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アップロードされた彼の曲に一つだけコメントがついていた。
「素敵な曲を聴かせてくれてありがとう」
ある作曲家の話 睡蓮 @h2zgu3_
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