第6話
「ぅ……ぅぷ……」
ハーティアは、宴会場を出て冷たい夜風に当たると同時に、苦しい呻きを漏らす。
さすがに食べ過ぎたらしい。胃もたれが尋常ではない。
宴の席に座っていると、あちこちから<狼>たちがやって来て、肉の塊を勧めてくるのだ。
ちょうどグレイが群れの代理統治者に呼ばれて束の間席を立つのに合わせて、手洗いだと称してハーティアも席を立った。少し休憩しないと、とても戻れない。
「ふぅ……風が気持ちいいな……」
酒が振舞われたわけではないから、身体が火照っているわけではないが、肉で胃が埋め尽くされた今、凍える北風はむしろ心地よく感じられた。
今日の夜空は雲もなく空気が澄み切っていて、息を吸い込めば肺の形が感じられるほどに冷たい。
「それにしても――本当に、綺麗……」
後ろの宴会場では、主役不在ながらに何やらドンチャンと盛り上がっているらしいが、目の前に広がる月明りと灯籠が織りなす幻想的な風景は、積雪時特有のしん……と静まり返った様相で、現実とは思えぬほどに美しい。
しばらく夢のように美しい光景に魅入っていると、ザク、ザク、という足音が近づいてくるのが分かった。
「あ……!すみません、もうちょっとしたら戻りますから――」
帰りの遅いハーティアを心配して、誰かが迎えに来たのかもしれない。
慌てて振り返ったハーティアの目に映ったのは、予想外の人物だった。
「び――ビアンカ、さん……」
「こんなところで何をしているの」
しん……と静まった街並みに、雪より冷たい女の声が響く。
(あ……まだ、敵意はあるんだ……)
昼間、出逢う<狼>全てに歓迎されたから、てっきりビアンカも認識を改めているのではと期待したのだが、どうやら違うらしい。彼女の藍色の瞳に宿るのは、初めて邂逅したときと同じ、冷たい光だ。
「少し、夜風に当たりたくて」
だが、彼女がハーティアをどう思おうが、ハーティアの方まで敵意を持って接する謂れはない。
友好的な感情が伝わるように、微笑みを浮かべて出来る限り明るく応える。
しかし、そんなハーティアの涙ぐましい努力もむなしく、藍色の絶対零度の瞳は凍えるように鋭い視線で敵を睨み据えていた。
「……聞いたわ。貴女、まだ番になって間もないんですってね」
「は、はい」
「グレイと番っておきながら――あんなにも強力な個体の力を分け与えられていながら、戒の一つも満足に使えないんだとか」
「ぅ……そ、そうですね……」
ハーティアも又、グレイにこの群れで”繁殖候補”となることの重要性を聞いた。
きっとビアンカは、その栄誉を手にするために幼いころから必死に努力を続けてきたのだろう。
並み居る強力なライバルを打ち倒し、やっとの想いで掴み取ることが出来た悲願に咽び泣いて、期待と緊張を胸に、憧れの<狼>の元へ赴いたとき――
――裸でベッドに見知らぬ女が我が物顔で横たわり、挙句、それがやっとの想いで打ち倒したライバルたちにすら劣る脆弱な元人間だと知った時の、彼女の落胆と絶望はいかほどだっただろうか。
「さらに詳しく番になった状況を聞けば――貴女、無理矢理<夜>の番にさせられたのを、助ける形でグレイに番にされたとか」
「……ん……まぁ……そう、かもしれませんね」
事実だけを列挙するなら、<夜>の番になり、その後<夜>を倒して、グレイが番にした。それが全てだ。
一度<夜>の番にされてしまえば、ハーティアは永遠の命を得ることに加えて、生涯<夜>の匂いが染み付いたままとなる。
(永遠にも等しい生涯を、他の雄の匂いが染み付いたことで、孤独のままに生きることを強いられてしまった哀れな人間を、心優しいグレイが慈悲で番にした――とか、思ってそうだな……)
グレイの繁殖相手として選ばれることだけを夢見て生きてきたのにその目標を奪われ、とことん落胆し、気持ちが追いついていないであろうビアンカの感情を思えば、それくらいの察しはつく。
「勘違いしないで……!グレイは、決して貴女を愛して番にしたわけじゃない!ただ、彼はとても優しいから――!本当に、デキた<狼>だから、<狼>種族のいざこざに巻き込まれてしまった貴女を哀れんだだけで――!」
(あぁ、やっぱり……)
そう思わないと、気持ちの置きようがないのだろう。
ハーティアは困った顔でビアンカを見返す。
――そんな、外野の妄言で揺らぐような、安い絆ではない。
(グレイがデキた<狼>っていうのは、同意だけど――ビアンカさんが考えるよりも、もっと、もっと、凄い<狼>なんだから……)
グレイが心を痛めたのは事実だったろう。だが、そのグレイが実際に取ろうとした行動は、ビアンカの予想よりもはるかに”デキた”解決策だった。
たった一つだけ残った、銀水晶の残りの願いを使い、ハーティアを元の『普通の人間』に戻そうとしたのだ。
そのせいで、彼が千年大切に大切に守り続けた、唯一の希望を失うとわかっていても――それでも、ハーティアの幸せを願い、断腸の想いで、それを願おうとしていたのだ。
それも――ハーティアには、何一つ知らせず、心を煩わせないようにと最大限に労わって。
(そもそも、番にして、って言ったのは私からだし――挙句の果てに、グレイが本当は私を愛していないとか……鼻で笑っちゃうレベルの妄言だもんね。もしも本当にそうなら、普段のグレイは、完全に頭がおかしいとしか思えないし)
砂を吐きそうなほど甘ったるい口説き文句を息をするように吐いては、人目も気にせずいちゃつき、見境なく他の男に嫉妬しては殺意を抱き、過保護に甘やかしては所かまわず盛り、一度行為が始まれば気絶するまで食事も睡眠も許してもらえないこの狂愛を注がれる日常の中で、どうしてグレイに「本当は愛されていない」などという妄言を真に受けようか。
(もうグレイの愛情は疑ってないから、なんなら、身体の関係だけなら他で何とかしてくれてもいい。少し、休みたい。体力が持たない)
ビアンカに聞かれたら間違いなくぶっ飛ばされそうなことを思いながら、半眼になる。
だが、盲目的にグレイを信じていたらしいビアンカは、いつかのように涙目になって、感情を昂らせたらしい。キッと藍色の瞳に薄い涙の膜を張って、怒りに声を震わせる。
「貴女なんか――貴女なんか、一体、何の取り柄があるっていうのよ……!」
「はぁ……」
「戒も使えない、獣型になることすら出来ない、その上たかだか十四年しか生きていないなんて幼児にもほどがあるわ!」
「幼児――いや、まぁ、<狼>さんの常識で考えたら確かにそうかもしれませんが……」
何やら興奮しているらしいビアンカを刺激しないように言葉を選びつつ、チラリと視線だけで後ろの宴会場を気にする。
まだ、グレイは戻ってきていないだろうか。
(出来れば――まだ、戻ってこないで――!)
こんな言い争いを聞かれてしまったら――
――――きっと、ビアンカの命が危ない。
「何よ――!グレイに助けを乞うつもり!?どこまで情けない女なの!」
「いやあの、違――」
むしろ、ビアンカを心配してのことだったのだが、グレイを気にして後ろをチラチラと振り返っていたのが災いしたらしい。
カッとひと際ビアンカの怒りのボルテージが上がったのが分かった。
苛烈な怒りを宿した瞳をそのままに、ガッと力任せにハーティアの襟首をつかむ。
「貴女なんか――貴女なんか、グレイにはちっとも相応しくないんだから!」
ひゅぅ――
どこかで聞いたような、風の音がする。
「――!」
それが、ビアンカの戒の発動音だと思い至るのと同時――
ふぉんっ……
その場から、二人の姿は跡形もなく消え去っていた。
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