第8話・お着替えのお手伝い
蘭瑛の言った三十分後を気にしながら、ひよりが調理場の後片付けを終え、居間の掃除をしていると、廊下をドタドタ歩く音と共に黎紫の声が聞こえてきた。
「お~い、ラン!どこだぁ。……あ、ひよりちゃん。あのさ、蘭の奴知らない?」
ひよりは振り向き絶句した。
───な⁉ なにその格好っ。
灰色の袴を手に、藍染めの着物を羽織ったままでいる黎紫の姿にひよりは慌てた。
帯も締めず、胸元ははだけたまま、なんともだらしのない格好で立っていたのだ。
「蘭瑛は?」
「瀬戸さんはもう二司宮へ行きましたよ。どうしたんです? そんな格好で」
「あはは。なんかね、久しぶりにこんなの出してもらったら、着方忘れてて。で、蘭の奴に着せてもらおうと思ったんだけど。ま、ひよりちゃんのがいいか」
「は?」
「着せて。頼むよ~。これどうすんだっけ?」
ぱたぱたと、黎紫はひよりの前で羽織っただけの着物を……。
───ああっ、もう!パタパタしないでっ!
「た、隊長! とにかくッ、先に前閉じてください! 前っ」
襦袢も肌着も付けてない胸元や、ぱたぱたする着物からは上半身だけでなく、下半身も。一応下着は付けているものの、丸見えなので。
───め、目のやり場がっ。
「も~っ、隊長! 下着や襦袢くらい着てくださいっ」
「え、パンツは履いてるぞ」
「う、上もです!」
「窮屈だからイヤ」
「じゃあもう、いい加減パタパタやめてください!」
顔を赤く染め、くるりと向きを変えたひよりの後ろで、黎紫は苦笑した。
「悪りぃ悪りぃ。……はいよ。とりあえず前は閉じたから、帯とか袴を頼むよ、ひよりちゃん」
「……もう。服も一人で着れないんですか、隊長は」
子供みたい。いや、それ以下 ⁉
溜め息をつきながら黎紫に向き直り、ひよりは差し出された帯を受け取った。
まずは黎紫の腰に巻かれた紐を調節する。
「裾を上げますよ」
着物の後裾を腰紐に挟んで膝丈まで上げてから帯を巻き、しっかり締めて結ぶ。
「このまま袴を履いてください」
「慣れてるね、ひよりちゃん。袴、よく着るの?」
「いいえ、私じゃなくて、お師匠さまが……。あ、お師匠さまは私の親代わりのような人で。そのお師匠さまもよく羽織袴を着るので手伝うことがあって。慣れてるのはそのせいです」
「そいつも俺みたいに服が一人で着れない奴なの?」
「いえ、お師匠さまは片腕が少し不自由なんです。昔、怪我をしたせいで。だからときどき私が手伝ってあげてたんです。お師匠さまは隊長みたくだらしのない人じゃありません」
「ふーん。なんかちょっとショックだなぁ、そういう言い方」
「あ~、もう。動かないでくださいね、隊長。あともう少しですから」
ひよりは手際良く着付けを進め、後ろの袴板を帯の上に載せ袴の後丈を決めてから前後を紐で巧みに固定させて結んだ。
「───はい。これで羽織りを着てください」
パサリ、ふわりと。
藍染めの羽織を黎紫が纏う。
うわぁ……。
少し前までだらしのなかった姿が嘘のように。
それはとても良く似合っていた。
なんだか、ちょっとカッコイイかもと思ってしまうくらいに。
ひよりはおもわず見惚れていた。
「完成かな?」
「あぁ、まだです。羽織紐を付けて出来上がりです」
「紐?」
「そうです。羽織りの胸元が開かないように留めるもので何処かに……」
「ああ。ほら、そこに転がってるやつか?」
黎紫の視線の先に赤紫色をした紐が落ちていた。
「うわぁ、綺麗ですね!」
拾い上げ、ひよりはその羽織紐に魅入った。
それは左右の留め具部分に紅玉が付けられ、細い組み紐には穴のあいた翡翠の玉が二個通してあり、中央には〈九〉と彫られた乳白色の小さな晶石が付けられているものだった。
こんなに高価な羽織紐は見たことがない。蘭瑛も玲亜も諒も莉玖にも〈九〉の晶石はあったが、紅玉や翡翠など付いてなかった。
「これってきっと隊長専用の羽織紐なんですね」
「みたいだな、あんま気にしたことないけど」
「とっても綺麗……。組み紐だけでも綺麗ですけど、こんなふうに玉の付いた装飾系が隊長専用だなんてお洒落ですね」
ひよりは言いながら黎紫の胸元に羽織紐を留めた。
「はい、完成ですよ」
「ありがとう、ひよりちゃん」
「よくお似合いです」
「惚れ直しそう?」
「───ま、馬子にも衣装かと……」
「だ~ッ。もうなんか足袋とか履き慣れねぇからムズ痒っ!」
「すぐに慣れますよ。ほら、もうそろそろ行かないと」
「ふふ。その前に玲亜にこの姿を見せてこよう。俺だって決めるときは決めるのだ。たまには兄の威厳を」
「玲亜さんならもう出かけましたよ。今日はご実家へ行くと言って」
「なんだ。じゃあちびっ子の二人にでも」
「諒くんと莉玖くんは学校です」
「えーっ。……あれ? ───ということは、今この屋敷には俺とひよりちゃんの二人っきり?」
「ま、まあ……そうなりますね」
嫌な予感にひよりの足は後退りかけたのだが。
「なんだ。失敗した!」
「ふぇ⁉」
気付けばいつの間にか黎紫の両腕が輪を作り、その中にひよりは立っていた。
黎紫の両手がちょうどひよりの尻の上で繋がれたような状態だ。
「ちょっ……⁉ た、隊長っ! 離れてください!」
「なんでさ。あ~もぉ、お仕事行かないで二人でまったりしてたいなぁ」
「何言ってんですか⁉ダメです!困りますッ」
───ち、近いってば、顔!
お腹の辺りはもうしっかりと密着していて、これ以上の接近はなんとしても避けたいひよりだった。
「お、お願いですからっ、会議行ってください!」
じんわりと、ひよりの大きな緑の瞳が潤む。
そんな様子をじっと見つめながら、黎紫は目を細めた。
「しょぅがねぇな、離れがたいけど。ひよりちゃんのお願いなら、ちょっくら行ってくるか」
黎紫は笑いながら手を離し、くるりと向きを変えると部屋を出た。
そのまま居間から見送ってもよかったのだが、尋ねることがあったと思い出し、ひよりは黎紫の後を追い玄関までついて行った。
「あの隊長、今日のお昼ご飯何か食べたいものありますか?」
玄関で草履に履き替えた黎紫にひよりは尋ねた。
「え、昼飯? 俺がリクエストしていいの?」
「はい」
ふたりだけなので。
などと口にし、また密着されたらたまらないので、ひよりは心の中だけで呟いた。
「えー、嬉しいなぁ。じゃあね、じゃあね。……煮込みうどん!味噌でね。具は鳥肉としめじとカマボコと葱ね!」
「味噌煮込みうどんですね。了解です」
「あぁ~っ。やっぱり会議、行かなきゃダメ?」
「ええっ⁉ 当たり前でしょ、ダメです! 行かないとご飯作りませんから。……そ、その手はなんです⁉ その手はッ」
両手を広げるような謎の動作に、ひよりは顔をしかめた。
「はは。やっぱりひよりちゃんはイイな。じゃ、行ってくるよ」
「……い、行ってらっしゃいませ」
いったい私の何が……どこがいいと言うのだろう。
嗚呼……お師匠さま。
嵯牙隊長ってなんだか、難解なヒトです……。
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