ヒトクラゲ
ももも
ヒトクラゲ
数年ぶりに会った兄は、スライムになっていた。
水族館の目玉展示を思わせる高さ何メートルもの巨大水槽の中をふよふよ浮かんでいる。
「なんで?」
と僕が言うと、なんでだろうなぁ、という音が水槽右上のスピーカーから聞こえ、目の前の兄と思わしき半透明のヒト形流体生物が困ったような顔をした。記憶にある兄と同じ表情だった。古傷がうずいた気がした。
兄は北海道でトドの生態の研究をしていて何年も家にかえってこず、ラインだってろくに返さない。そんな兄が今度の夏休みに三泊四日で職場に遊びに来ないかと誘ってくれたから、ウキウキ気分で新千歳空港に降り立つと、兄の同僚を名乗る男、
「秘密研究所だからね。場所を秘匿したいのさ」
僕を拉致した張本人であり、この研究所の所長でもある吉瀬は後ろでくくった長い黒髪をパサっとしながら悪びれることなく言った。なんでもこの研究所、吉瀬財閥が海洋生物好きの三男坊のために無人島に建てたという。4階建ての水族館と同規模の施設で研究者を多く抱えており、道楽の域を完全に超えている。資金も自信もありついでに顔もいい。それが吉瀬の印象だ。僕を見ても普通の対応してくれる珍しい大人だなと思って、嬉しくなってしまったのが運の尽きだった。
「それで兄はどうしてスライムになっているんですか?」
「スライムじゃない。ヒトクラゲだよ」
吉瀬が言うと水槽の兄もガラス越しにうんうんと頷いた。
「ここは主に深海生物の研究していてね。彼らの独立した生態系を調査していたところ、三年前に新種のクラゲを二体発見したんだ」
水槽前に置かれた丸いテーブルに座って吉瀬がタブレットを操作すると、画面にクリオネに似た天使のような生物が映し出された。
「それだけでも大発見なのに彼女たちは未知の力をもっていてね。この動画を見て欲しい」
タブレットの映像が切り替わると、ネズミの形をした流体生物が小さな水槽の中にいる。それが触手をするする伸ばすと、近くにいたネズミの欠けた右耳に触れた。一体何をしているのだろうと見ていたら、あっと思わず声がでた。クラゲの触手が離れると、欠けていたはずの耳が元通りになっていた。
「彼女たちが生物と
どこかの部屋が映し出される。
兄だ。まだ地上で人の形をしており、動かなくなった例の新種のクラゲの入った水槽の前で片膝をついている。次の瞬間、クラゲが水槽から飛び出て大きく広がると兄をぱくりと丸呑みした。え?っと思ったと同時にブチっと映像が途切れた。
「数分後に駆けつけた時には、君の兄は今の姿になっていたんだ。彼はね、融合してヒトクラゲになったんだよ」
「どこからどう見ても捕食ですが」
「いや融合だ。細胞レベルで混じりあっているんだ。ちゃんと元の人格も有している」
「食べた生物の記憶を取り出しているだけでは?」
「でも君は彼を一目見て兄だとすぐ認定しただろう?」
うっと言葉につまった。確かに形状はまったく違うあれを兄だと思った。あの困った顔をしたからだ。
「家族が彼を見てどういう反応をするのか見たくてね。だから君を呼んだのさ」
遺族に向かって言う言葉ではない。でも、こいつに何を言ってもすべて金で解決しそうで無駄だと思った。
「どうして呼んだのが僕だったのさ」
水槽へと顔を向ければ兄は申し訳なさそうな表情をした。
『母さんだったら泣き続けてちゃんと話ができないと思ったから』
それに、と言って兄はまたあの困った顔をした。
『親父にとって俺はどうでもいい存在だから』
県下一の進学校に落ちた日から、父の兄への期待は失望に変わった。兄の受験勉強が始まってからというものの、両親の喧嘩は日常茶飯事であったが、その日を境に「あいつは俺の子か?」「断乳に失敗した」「お前が育て方を間違えたせいだ」なんて言葉がよく飛び交って、さらに激化した。
父が怒鳴る。母がすすり泣く。僕は子供部屋で「俺がバカなせいでごめんな」って困った顔をした兄を見ていることしか出来なかった。でもどうにかしなくてはとずっと思っていた。けれどその決意が決定的に家族仲を引き裂いてしまった。
クラゲがゆらゆら動くのを見ているだけで癒やされると言うが、目の前の兄クラゲにはホラーしか感じない。そもそもこれは兄なのか。
「兄は人に戻れるのですか?」
隣にいる吉瀬に問うと、彼は首を振った。
「現代の技術では無理だ。卵の黄身と白身が混じってしまったようなものなんだよ。そもそも戻る必要があるかい? ヒトクラゲは再生医療の分野で貢献してくれる素晴らしい存在になるだろう。君の心配は最もだと思う。だが約束する。決して彼にはひどいことはしない。彼を愛しているんだ」
それは貴重な実験動物だからでは、とは口に出して言えなかった。
「ただ現在、大きな問題にぶち当たっていてね。ヒトクラゲに適した飼育環境がまだ分かっていないんだ」
「今のままではダメなのですか? 元気に見えるけれど」
「見かけはそうかもしれないけれど、実は日に日に小さくなっているんだ。彼があの姿になってから、もう半分減ってしまった。みんな頑張って調べているんだけれど、水質のせいなのか、何か栄養が不足しているのか全然分からない」
改めて兄クラゲを見てゾッとした。確かに兄はもっと身長が高くガタイも良かったが今は僕と同じくらいの大きさだ。
「もし、このまま解明されなかったらどうなるんですか?」
吉瀬は僕の目をまっすぐ見て言った。
「クラゲの最後と一緒だ。水に溶けて消えてしまうだろう」
滞在中、好きに使って欲しいと案内された部屋は鍵付きのビジネスホテルのようなベッド付きの個室だった。喉が渇いたら食堂のドリンクバーへ行けばなんでも飲めるそうだが今は行く気にならない。持ってきたペットボトル入りの綾鷹を一口飲んで、そのままベッドに倒れ込んだ。あまりの情報量に頭がパンクしそうだ。兄が未知の生物に食われてクラゲになって、しかも溶けて消えそうになっている。訳が分からなかった。
思考停止していると、目の前の姿見に映った自分の顔が見えた。頭の傷にそっと手をやると凸凹に盛り上がった皮膚がある。
炭治郎。それが中学校での僕のあだ名だ。一目で分かる額の大きな傷跡が由来で、主人公っぽいっとか、過酷な修行をしたの?とかみんなによく言われる。それでいじめられるなんてことはなかったし、そもそも僕には見えないから今の技術では完全に治せないと言われても特に気にしていない。でも大人は痛ましいものを見るような目をするか、見なかったことにするのどちらかで、毎日見ているはずの両親もたまに同じような反応をする。
あの日、母の作った食事が不味すぎると怒鳴る父に兄が初めて反抗して、揉み合いの喧嘩になった。とっさに二人を止めようとした僕は、どちらかがどんと押した手にバランスを崩してしまい、テーブルにあった熱々の鍋をひっくり返して頭から浴びてしまった。運が悪かった。誰のせいでもない。でも責任を感じた兄は家を出ていってしまった。
何やら騒がしい音が部屋の外から伝わり、目を覚ますと朝だった。廊下に出ると研究所の人たちが慌ただしく駆け回っている。何やら嫌な予感がして兄クラゲの水槽へと急ぐと人だかりができていた。兄は巨大水槽にいなかった。そのかわり、近くのテーブルに置かれたアクリル水槽に見たことのない小さなクラゲがおさまっていた。そばにいた吉瀬に視線をやると、小さく頷いた。
「未明から急激に体重が減り始めたんだ。もうヒトの形をとる気力もないようだ」
「このまま消えてしまうのですか?」
「そうならないよう努力する」
水槽の中のクラゲを見る。顔を近づけても兄の形跡はどこにも見当たらず、ふよふよと浮かんでいる。もう兄の人格はないのだろうか。最後がこれでいいのか。こぼれそうになる涙をこらえて、じっと見ているとクラゲの体の中央にググッと小さな口が形成された。そして僕にだけ見えるように小さく動いた。
どんどん、とけたたましく背後の扉が鳴り響く。「弟くん、ここを開けるんだ!」と吉瀬の声が聞こえるが無視だ。鍵を壊されて部屋に突入される前にやるべきことがあった。
『二人だけになりたい』
あの時、クラゲは口だけを生やしてそう言った。それから隙を見て、抱えられるサイズになったこいつを連れ出して部屋に引きこもるのは簡単なことだった。多分、こいつは研究所で一番小さくて食べやすい獲物である僕を食う気なんだ。初めてヒトクラゲを見た時は兄だと思ったけれど、やっぱり違う。死ぬ直前になってとうとう本性を表したんだ。
だが、僕にとってもこいつと二人きりになれるチャンスだった。
吉瀬にとっては大事な実験動物かもしれないが、俺にとっては兄を食った化け物だ。
こいつを殺すには今この瞬間しかない。わざわざそんな危険を犯さなくても放っておけば消えるかもしれないが、この手で仇を打ちたかった。
武器は尻ポケットにある綾鷹だけだ。たとえ返り討ちにあおうが最後まで戦ってやる。
目の前のクラゲはあまり動きがない。油断させるつもりかと見ていると触手がするすると生え、僕の方へと伸ばしペトリと額をなでた。
攻撃をするそぶりを見せればすぐにでも反撃するつもりだったのに、なで続けている。困惑していると額にじんわりと熱が広がった。
もしやと思って近くの姿見を見ると、触れていた部分の額の傷が消えていた。跡形もなくさっぱりと。
――融合元の生物に対して脅威的な治癒能力を持つようになるんだ
吉瀬の言葉が頭に蘇る。同時にあの捕食動画を見た時に感じた違和感を思い出した。一瞬だけだったが確かに見たのだ。
あのクラゲに食べられる直前――兄がかすかに笑ったのを。
「もしかして、わざと食べられたの?」
嘘だろ?と思いながら吐いた僕の言葉に兄の体がビクリと大きく震えた。目がないのに目が泳いでいるのが分かる。それが答えだった。
つまり兄は――自らヒトクラゲになったのだ。
本当に融合するかどうか一か八かのバクチで、人格がなくなっていたかもしれない。今だって死にかけている。それもこれも全部、僕の額の傷を消すために。
「バ……バカじゃないの!?」
怒りにまかせて怒鳴った声が上擦っていた。相手は死にかけていると思っても止められなかった。
「いつそんなことして欲しいって言った!? 勝手に憐れんで勝手に解決しようとしないでよ! そのせいでこんな訳の分からない生物になって挙句の果てに溶けかかっているとか信じられない!! やり方を間違えているにもほどがあるだろう!! この、バカ兄!!」
叩きつけるような怒号に兄はぷるぷる震えたかと思うとシュンとして『ゴ』という形になった。ゴメンって言いたいつもりなのだろう。兄の不器用さが凝縮された姿に呆気にとられて、怒りがスゥッと遠のいていく。あの困った兄の顔が目に浮かぶ。クラゲになっても兄は兄だった。そう思いながら、ゴの形のままうつむいている兄をそっとなでた。
「兄さんはこの傷に負目を感じていたかもしれないけれど、僕は気にしていないし、むしろちょっとかっこいいかもとも思っているし。それにさ、兄さんの力になりたくて何もできなかった僕が一歩踏み出せた証でもあるんだよ。あの日、こうなるって分かっていても僕は絶対同じことをする。その想いまで消して欲しくないんだ」
兄に触れている手に温かい液体がじんわり伝ってきた。兄が泣いている。それを見て、涙が出そうになったけれど、すぐに引っ込んだ。よく見るとだんだん兄の体が縮み表面がパサついている。見間違いじゃない。涙を流したことにより、兄は干からびかかっていた。今すぐにでも水分補給しなくては乾燥キクラゲになる。
「兄さ――ん!!」
パニックになってとっさにペットボトルの中身を兄にぶちまけるのと、背後の扉が開いたのはほぼ同時のことだった。
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