第40話

 氷岬の父親が帰った後、俺と氷岬はリビングで向かい合っていた。


「すごくかっこよかったわよ、拓海くん」

「うるせえな。しかたないだろ。ああ言わないとお前の父親は納得しなかったし」

「どうかしら。私に乗り換える気になった?」


 氷岬がおどけて言う。

 そうだ。やってしまった。これは明らかに渚への裏切り行為だ。無論、隠すつもりはない。きちんと話してお叱りを受けるつもりだ。

 氷岬を助ける為とはいえ、少々強引な手を使ったと自覚している。最初はあれほど、恋人の振りなんて嫌だったのに。いつの間にか利用する側に回っている自分に驚いた。


「俺は渚の彼氏だ。乗り換えるなんてことはしない」

「そう。これで本当に私の彼氏だったら、かっこよかったのにね」

「無茶を言うな。連れていかれなかっただけでも感謝してもらいたいものだ」

「そうね。感謝しているわ。ありがとう、拓海くん。まさかお父さんが来るなんて思わなかった」


 自分を捨てた親がまさか迎えに来るとは、露ほども思っていなかったのだろう。氷岬はほんのわずかだが、機嫌がいい。一応親が氷岬のことを気にかけていたことがわかって、嬉しいのかもしれない。

 その証拠に、その日の夕飯は豪華だった。氷岬の飯は美味いが、いつもより腕によりをかけて作ったのだということが見ればわかった。

 夕飯を終えた俺は自室に戻ると、スマホを手に取った。アドレス帳から渚の番号を探し出し、電話を掛ける。3コールほどで渚が電話に出た。


「もしもし、拓海くん。どうしたの?」

「あーもしもし渚か。ちょっと話したいことがあってな。時間ある?」

「あるよ。私、今お風呂だけど、もうすぐ上がるから待っててくれる」


 渚のお風呂を想像し、俺の脳内はピンクに染まる。今はそんな妄想を繰り広げている場合ではない。


「わかった。待ってるよ。慌てる必要ないからな」

「うん、ありがと」


 そう言って通話が切れる。そういえば、氷岬は裸に近い格好も見たことがあるが、渚のそういった姿はまだ目にしたことがない。いずれは、そんな時が来るのだろうか。ぼんやりとそんなことを考えていたら、渚から折り返しの電話が鳴った。


「もしもし」

「もしもしお待たせ。お風呂あがったよ。エッチな妄想した?」


 図星を突かれ言葉に詰まる。


「したんだ。そっか……えへへ、なんだか照れるね」


 電話の向こうでにやけている渚を想像しながら、俺は苦笑する。これからこの渚を嫌な顔にするのだと思うと胸が痛んだ。


「それで、話ってなにかな?」

「あー実は、渚に謝らなきゃいけないことがあって」


 俺はそう言って、今日起きた一部始終を語って聞かせた。渚は相槌を打ったり、息を呑んだりしながら俺の話を聞いていた。俺が全て話終えて謝ると「そっか」と呟いた。


「この浮気者」

「うっ……」


 渚から詰られるのは当然だ。甘んじて受け入れるしかない。


「でも、確かにそんな親に連れていかれたら、氷岬さんが可哀想ってのもわかるよ。だから咄嗟に拓海くんが助けに入った気持ちもわかるんだ。けど、隠すと後々嫌な態度取っちゃいそうだから言うね。……私は、凄く嫌な気持ちになった。私重いかな?」

「いいや、渚がそう思うのは当然だ。悪いのは俺で、こんな二股みたいなことしてる俺が悪いんだ。本当なら氷岬を見捨ててでも渚を取るべきなのに。はっきりしなくてごめん」

「ううん、それはいいの。初めからわかってたから。優しい拓海くんは氷岬さんを見捨てたりできないんだろうなって」


 それは違う。俺の中には確かに氷岬への感情が募っている。それは渚に抱いている感情と近しいものだ。氷岬を見捨てられなかったのも、俺が優しいからじゃない。俺が未練たらたらだったからだ。

 そんなことを口にするわけにもいかず、俺は黙って渚の話を聞く。


「でも、不安だよ。偽物が本物になっちゃうかもしれないって」


 そう呟いた渚の言葉が俺の胸を抉る。少なくとも感情のうえでは本物になってしまっている。氷岬との関係は同居人止まりだが、俺の方は感情を制御できているとは言い難い。

 押し黙った俺を訝しんだのか、渚が問い掛けてくる。


「まさか本気になったりしていないよね」

「……ああ。俺と氷岬はあくまでただの同居人だ」


 そう答えるしかない。罪悪感が胸を蝕みながら、俺は自分の優柔不断さに辟易する。まさか俺がここまで糞野郎だなんて思いもしなかった。俺は五年も渚を想ってきた。その五年に匹敵する感情をたったの一ヵ月一緒に暮らしただけで抱いてしまうなんて。自分の一筋さが幻影であったことを知った。


「なら良かった。でも、浮気っぽいことしたからにはなんらかの罰が必要だよね」


 そう言って渚が電話の向こうで考える素振りをする。


「デートして。拓海くんがプランを考えて。私を氷岬さんより甘やかして」


 ちょっと氷岬に対抗意識を持っている渚を可愛いと思いながら俺は頷く。そんなことならお安い御用だ。俺も渚とデートして二人の時間を作りたいから。


「じゃあ決まり。楽しみにしてるね」

「おう、俺も楽しみにしてる」


 そう言って電話を切る。渚とのデートのことを考えると、さっきまでの嫌な気持ちが吹っ飛んだ。渚は俺に癒しをくれる。俺は彼女に何を返せるだろうか。そんなことを考えているうちに、夜は更けていった。

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