第38話
「今日は楽しかったわね」
家に帰った後、氷岬が手を洗いながら言った。
「ずいぶんと楽しそうだったじゃないか」
「あら。実際楽しかったもの。こんな経験は初めてで」
氷岬とゲーム対決をした時のことを思い出す。あの時も氷岬は初めての経験に目を輝かせていたっけか。だから相手が駿だったからあんなに楽しそうにしていたわけではない。俺は勝手にそう結論付ける。
「誰かさんの妬く姿も見られたしね」
出し抜けに氷岬が俺を見つめて笑いかける。
「なんのことだ」
「さあ、なんのことかしら。自分の胸に手を当てて聞いてみたらどう?」
気付いていたのか。なんともばつが悪い。
どうやら俺は相当にわかりやすいらしい。そんなに顔に出ているだろうか。
俺が氷岬の追及に言葉を詰まらせていると、不意にインターフォンが鳴った。モニターを覗き込むと、見知らぬ男性が写っていた。新聞の勘優かなにかだろうか。
ちょうどいい。氷岬の追及から逃れる為、俺はこの来客を利用することにした。
「客人だ。ちょっと出てくる」
俺は玄関に向かう。ドアを開けると、モニターで見た中年の男性が立っていた。髭が伸び放題で清潔感を感じることはできない。新聞の勧誘にしては失礼だが見た目が悪い。
「どちらさまですか」
「あの……こちらに氷岬雪姫という女子高生はいますでしょうか」
腰の低い男性だ。高校生の俺にも弱腰で話すその様は、見た目とは裏腹に臆病な印象を受ける。
それにしてもこの男性、どうしてうちに氷岬がいるとわかったのだろう。氷岬のストーカーかなにかだろうか。氷岬は美少女だしあり得る。
だったら俺が守らねば。俺は警戒を強めながら、物を言う。
「あの、どういう意味ですか。そんな人はうちにはいませんが」
「嘘です! この家に入っていくのを見たんだ!」
やはり後を付けられていたか。ストーカーに違いない。俺はそう決めつけ、男性を追い返そうと手を振る。
「そんなことを言われても、うちにはそんな人いませんよ」
「だったら家の中を見せてください」
「やめてください警察呼びますよ」
中に押し入ろうとする男性を、俺が腕で制す。幸い、男性はそれほど力強さを感じない。俺でも充分抑えられる。
その時だった。
「なにを騒いでいるの……」
奥から氷岬が出てきて、固まった。粘られた結果、氷岬がいるのがバレてしまった。俺は溜め息を吐きながら、男性を押し返そうとする。
だが俺の腕は、氷岬が発した言葉によって動きを止める。
「お父さん」
「……は?」
俺は氷岬と男性を交互に見る。親子だと? この二人が? 似ていないな。信じられない。どうやってこの親から氷岬のような美少女が生まれたのか。それぐらい二人の顔は似通っていなかった。
今はまず確認することがある。
「氷岬、この人、お前のお父さんなのか」
「う、うん」
「マジか……」
急に氷岬の父親が訪ねてきたよ。どうなる氷岬⁉ そんな感じでふざけないとやってられない。
「雪姫、話をさせてくれないか」
「……わかった。お父さんと話すわ。でも、拓海くんに迷惑はかけられないから、外で話しましょう」
氷岬が靴を履こうとするが、俺はそれを手で制した。
「少なくとも重い話になるだろ。そんな話外でできるかよ。うちにあがってもらって中で話せよ。俺のことは気にしなくていいからさ」
「……わかったわ。ありがとう、拓海くん」
氷岬は俺に礼を述べ、父親を家の中へ迎え入れた。
父親をリビングに通し、俺は茶を入れる。
俺は茶を父親に出しながら、真っ先に問い掛ける。
「それで、氷岬を見捨てた父親がどうして今頃になって娘のもとへ現れたんだ」
「もちろん、悪いとは思っています。娘に合わせる顔がないことも」
氷岬の父親はお茶を一口啜ると、俯き気味に答える。氷岬を見て、申し訳なさそうに頭を下げた。
「それで、どうしてここがわかったの」
「今日お前の学校で出てくるのを待っていた。それでお前が友達と遊びに行くのを見ていた。どこで何をしているのか気になったからね。それでこの家に入っていくのを見たというわけだ」
「ストーカーじゃない」
やっぱりストーカーだったか。俺の読みはあながち間違ってやいなかったな。
「お母さんはどうしているの」
「新しい土地で新しい部屋を借りて住んでいる。ギャンブルからも足を洗うつもりだそうだ」
「嘘よ。あの母親がギャンブルから足を洗うなんて信じられないわ。身を削ってまでお金を使って破滅したのよ。そんな人がそう簡単にその道から抜け出せるとは思えない」
「……雪姫の言う通りだ。二人ともアルバイト先は決まったが、正直そう簡単にギャンブル好きが更生されるとは私も思っていない」
「でしょうね」
氷岬が心底忌々しそうに吐き捨てるように言った。
「私たちがいなくなった後、お前はどうしていたんだ」
「ここにいる拓海くんに拾ってもらったわ」
「拾ってもらったって。その代償に変なことされたりしてないだろうな」
「失礼ね。拓海くんはそんな人じゃないし、私によくしてくれる拓海くんの悪口を言うなら話はもう聞かない。そもそもあなたたちが私を見捨てなければこんなことになっていないじゃない。どの口が言うの」
「……すまない。私はどうかしていた」
父親が再び俯いた。氷岬からすれば今更どの面をさげて会いにきたと思っていることだろう。俺は知っている。表面上強がってはいたが、氷岬がショックを受けていたことを。寂しくて一人で眠れない夜があったことを。俺は知っている。
「どうだ。藤本さんのお宅にも悪いし、私と一緒に戻らないか」
父親の話。それは氷岬を連れ戻しにきたという非常に勝手な話だった。
「それは……確かに拓海くんの家には迷惑をかけてるけど」
氷岬が申し訳なさそうに俺を見る。
「生活は苦しいが今度こそお前を見捨てるようなことはしない。だから、もう一度チャンスをくれないか」
深々と父親が頭を下げる。
氷岬の保護者が現れた。氷岬を引き取ってくれると言う。良かったじゃないか。無事に親が迎えにきて。氷岬もずっと恋しい思いをしていたはずだろうし。なにより、俺が同居という秘密の関係から解放される。だから歓迎しよう。
俺はそう思って口を開こうとする。
氷岬を見ると、もの悲しそうな表情を浮かべ、俺を見つめていた。そうだよな。幸せなわけがないよな。お前のそんな顔、もう見たくねえ。
俺は氷岬の手を取ると、父親に向かう。
「悪いけど、あんたらに氷岬は任せられねえよ」
俺の言葉に目を丸くした氷岬の父親は、口をぱくぱくとさせながら固まる。
「拓海くん」
氷岬は胸に手を当て、唇を引き結んだ。
「だけど、君のお宅に迷惑だろう」
「最初は迷惑だと思ったさ。でも迷惑を掛けられたのはあんたらだ。断じて氷岬じゃねえ。だから氷岬、お前はここにいていいぞ。好きに選べ」
「……うん」
氷岬の目に涙が浮かぶ。
「君はどうしてそんなに雪姫のことをそこまで気にするんだ。ただのクラスメイトだろ」
そう聞かれたらなんて答えるかなんて決まっている。俺は氷岬の恋人役だ。ここまできたらとことん付き合ってやるさ。
「俺は氷岬のことが好きですから」
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