全力社畜とプロ社畜

宮瀬優希

プロローグ【俺が黒光に入社することになったわけ】

 株式会社黒光で働くプロ社畜、黒崎未影くろざきみかげ。彼は数多の伝説を作り上げた社畜界のトップである。

 彼の残した名言(迷言)は数しれず、多くのブラック企業社員に希望を与え続けたという。


 例えば、


「出社? 退社? 会社が家だ」


住む家の無いものに手を差し伸べる名言や、


「家賃・光熱費・水道代タダ! レッツ残業! 残業バンザイ!」


残業をすることにより得られるメリットを教える名言や、


「安心しろ。『これが終わったら結婚する』なんてベタなフラグを立てても死にやしないぞ」


万人に安心感を与え残業をさせる最凶の名言……。


 プロ社畜、黒崎未影は、数々の名言の後にこの言葉で会話を締めくくる。


「俺がブラック企業に入社したのは、本当に手違いだったと思うんだ」



〆〆〆〆〆


「せんぱい、先輩?」


 サンサンと春の光が降り注ぐテラス席。目の前に座る茶髪の青年に声をかけられ、俺の意識は現実世界に帰還した。

 懐かしき入社面接を思い返していた俺は、そいつに視線を投げかける。


「ん? ……ああ山田。どうした、何かあったのか」

「えっとですね……」


 山田良太。今年ここに入社してきた俺の相棒に声をかけると、山田はパソコンを操作し始めた。


 あ、そういえばカップラーメン食ってなかったな。食べるか。


 ズゾーッ。


 うん、マズイ。


 どうやらのびてしまったようだ。これを買うために貯金したというのに!


 俺の、俺の200円を返せ!!


 失礼、ちょっと八つ当たりが。


 ここは黒光の数少ない天国、社員食堂(とは名ばかりの空き部屋)だ。本当の社員食堂は1階にあるんだが、値段が高すぎて誰も寄り付かない。いわゆる魔境だ。


 そこで俺たちは昼食を取りつつ、与えられた仕事に取り組んでいたのだ。


 え? 回想していないで仕事をしろって? もちろんしてたさ。見ろ、これを。


 俺が今手に持っているのは、丁寧な文字が書かれた一枚の紙。


 これが何だかわかるか? わからないだろう。


 ふ、ブラック企業退社計画だ! ハーッハッハッハ! これで今度こそ退社できるぞ! 33回目の正直だ! 32回失敗したのは言うまでもないな!!(涙)


 ……さて、こいつの紹介といこうじゃないか。

山田は今年黒光に入社してきた新入社員で、少し跳ねた茶色の髪が特徴的な好青年だ。ハーフなのか、童顔で可愛い、この一言に尽きる。

 こいつは黒光というブラック企業に不似合いなほど純粋ピュアな新入社員だ。しかも俺と同じ情報部に配属された新入社員だ。


 情報部の業務を考えると、本当に可哀想すぎて涙が出てくる。何しろ、情報部仕事は雑用がほとんど……ゲフンゲフン。

 ああ、それよりもこいつには可哀想で、しかも、もったいない点が1つあるから聞いて欲しい。


 こいつは素晴らしく天然で可愛くて純粋ピュアだ。それゆえ、自分の価値にも気づかなかったのだろう。……いや、可哀想を通り越して天才かもしれない。


 実を言うと彼は……。


「あの、ここの数値が合わない気がするんですけど、電卓ってあったりしますか? 確認したいので!」

「ん、お、おう。お前、暗算でやったのか?」

「はい! ちょうど部屋に置いてきてしまったんですが、4桁の計算でしたし、たぶん合ってると思います!」

「……そうか……。うん、持ってるよ……」


 4桁の数字の延々とした羅列を暗算でやるとか、もうにっこりと微笑みを浮かべざるを得ない。


 この会話でおわかり頂けただろうか。


 そう、山田良太は本当にとにかく、めちゃくちゃ頭が良いのである。べた褒め必須である。


 日本一と言われる某有名大学を卒業したエリート中のエリート。しかも、それを鼻にかけない真っ直ぐな性格。山田はどこの企業も欲する頭脳と人柄を持ち合わせている逸材なんだ!


 ……何だろう。俺がホコリ以下に思えてくる……眩しいっ……ぐはっ。


「先輩!? スライムみたいになってますけど大丈夫ですか!?」

「だい……じょうぶ……だっ……」

「せんぱーい!?」

「そんな顔をするな。お前はまだ黒光ここ残業やることが……っ……」


 バタッ


「せんぱあああああああい!!!」

「俺の残業は……任せ……た」

「嫌ですよ!?」

「いや、ごめんて」


 俺、前世はヴァンパイアか何かかもしれない。本当に、こいつと一緒にいると溶けてしまう。


 いや、溶けても残業があるからそんな暇は無いな。ハーッハッハッハ!


 ……はは。目から汗が。


 まあ、つまるところ、「黒光に居てはいけない人間」それが山田良太なのである。(ちなみに黒光が山田の優秀さを買って採用にしたのは言うまでもないだろう)


 まぁ、山田はここがブラック企業なのも知らずにのこのこ上京してきたことにより、ちょっと、いや、かなりヤバいやつの称号も同時獲得しているがな。


「……はぁ」


 可哀想な山田……。


 俺はこれからブラック企業で働いていく山田の身を案じながら、小さなため息を1つこぼした。


 え? 幸せが逃げるって? ふふ、そんなもの、黒光に入社した時点で俺の周りから既に居なくなっているよ(にっこり)。


 さて、山田はいつになったらここがブラック企業だってことに気がつくのだろう。ふふふ、可哀想に……って俺もか。俺もだな。HAHAHAHAHA。

 あ、そういえば、ライバル企業の白光はどうなったのかなぁ……。あれ、俺、なんで黒光に居るんだっけ……。


 俺はかつての地獄の入社面接を思い出し、ずるずるとのびたカップラーメンを啜った。もちろん片手でパソコンの画面を連打してるけど。


 ガタガタガタガタガタ……。


〆〆〆〆〆


 数年前。ブラック企業「黒光」面接会場。

 パイプ椅子の横に立ち、今まさに面接を受けようとしている男がいた。


黒崎未影くろざきみかげです。よろしくお願い致します」


 黒崎未影。そう、後にプロ社畜と呼ばれることになる男……俺だぁっ!


 俺は今、


 俺がゆっくりと腰を下ろすと、パイプ椅子が情けない音を立てた。


 ギィ、ミシ……ミシッ、ミシィッ……。


 なんだか心配になる音だな。


 俺は、この日のために切りそろえた黒髪の下からそう思った。俺のまだ着慣れないスーツが新入社員の雰囲気を、ふちなし眼鏡が真面目な雰囲気を醸し出している。


 ミシッ……ミ……ギィ……。


 うーん、俺のコンディションは完璧、そう、完璧なはずなんだが……。


 ……なんかめちゃくちゃ不安だ!!


 バキッ!!


「うおっ!」


 唐突に響く音。それはまるで、俺の心情を投影したかのようにナイスタイミングで鳴った。


「な……な……」


 椅子が折れたぞ!? ほ、本当に大丈夫なのか!?


 面接が始まろうという時にも関わらず、俺は緊張ではなく謎の不安感に駆られていた。


 いや、どういう状況なんだ、椅子が折れるって。使い古しにも程があるだろ。


 俺がチラリと面接官に視線を向けると、


「はい。よろしくお願い致します」


彼は何事も無かったかのように穏やかに笑った。


「…………」


 いや、この状況って当たり前なのか!? めちゃくちゃスルーしてくるぞ!? おかしいだろ! ……ていうかこの椅子どうすんだ!? 弁償!? 弁償か!?


 俺が更に混乱していると、そんな俺の心情を察してか、


「ああ、椅子ね。だいじょうぶ大丈夫。見ててね、壊れた椅子ははこうやって……」


 面接官の男性がこちらに歩いてくる。


 ん? 何をするつもりだ……?


 俺が大人しく見ていると、面接官は真っ二つになった椅子の脚と脚を持って……


「フンッ!!」


 バキバキ!


「うおおおおおおお!?」


 椅子を圧力でくっつけた。


「……はい、これで座れるね」

「ソ、ソウデスネ」


 そしてまたも何事も無かったかのように席に戻って行く。


「……」


「えー、失礼しました、大丈夫でしたか?」

「はい……」


 なんか、おかしいぞぉ……。


 突っ込みたいところがあり過ぎる。人間の握力じゃない力で椅子くっつけるし、めちゃくちゃ日常的って感じで対処してくるし、というか椅子が壊れるのもおかしいし……。


 いや、いやいや。切り替えていこう。ここは圧迫面接じゃない。つまりここはホワイト企業。よーし、未来は安泰だ。ふふふ。


 俺はとりあえず、この面接が圧迫面接では無いことに安心することにした。


 黒崎未影、めちゃくちゃ切り替え上手である。


 が、しかし。俺は重要なことを見落としていたんだ。そう、圧迫面接じゃないというだけで、ホワイト企業「白光」の入社面接に来たんだと思い込んでいたんだ。


 だって、ブラック企業=圧迫面接ってイメージがあるじゃないか。


 た・ん・じゅ・ん☆ あはっ!


 ああ、いかんいかん。今度こそ面接が始まるんだ。しっかりしなければ。

 俺はゴクリと唾を飲み込んだ。

 彼が。否、正確には彼と俺のやり取りが、俺の未来を決めていくんだ――!


「では、『黒光』入社面接を始めましょう。まず……」

「…………ん?」


 入社面接。


 俺は、入社面接を受けるはずだったんだ。しかし……。


 え、今……


「当社を……『黒光』を希望した理由はなんですか?」

「……」


 黒光って言った? え? 聞き間違い? 違うよな?


 その言葉で俺は全てを察する。マズイ、完全にやらかした!

 そう、俺は面接会場を間違えてしまったのだ! 黒崎、痛恨のミス!


「あ……あ、あ……」


 俺は改めて面接官の顔を見た。


 目の前で咲く暗黒微笑ダークネススマイル、ブラック企業に入社してくれるのかと言わんばかりの期待の眼差し! 痛い! この視線は痛すぎる! 面接官の薄ら笑い! 歓迎のムードたっぷりのシチュエーション!


 黒崎のライフはもうゼロだ!


 入ってしまったからには後には引けない。わなわなと震える両手を抑えつつ、少し前の自分を思い出す。


 蟻地獄に爽やかにダイブしていった少し前の俺……。いやいや、「レッツ、入社面接!」じゃないんだわ。……ああ、爽やかスマイルが眩しい……致命傷だ……。ぐはっ……。


 そう、全てはここから始まったんだ。


 俺の地獄の社畜ライフは!!


〆〆〆〆〆


 俺が白光ではなく黒光に入社することになったのは、その入社面接の落とし穴にあったんだと思う。……いや、あったんだ!!


 断言しよう、あれは広告が悪い!!


 だって、俺が見た募集要項は


『あなたも、白光・黒光で働きませんか? 入社面接会のお知らせ』


 そんな文言から始まり、仕事内容や給料、サービスなどの説明や、募集要項。そして日時と場所。全てがしっかりと大きく記されていた。


 何の変哲もない、ただの広告だ!


 いや、待ってくれ、そういうことじゃないんだ。この広告にはある落とし穴があったんだ。大きな、しかも絶対に落ちちゃいけないやつが。


(……ふっ、まさか白光と黒光が同時に面接を開いているだなんて誰も思わないだろ?)


 この時点で予想できるやつがいれば、そいつはきっと天才だ。


 もう、諦観の笑みを浮かべる他無い。


 俺は白光の入社面接に向かったはずが、どこをどう間違えたのか、黒光の入社面接に行っていたのだ。しかも、会場は右と左で分岐した先にあったにも関わらずだ。訳が分からない。


考えられるのは、「よーし、ここを右に曲がるのか!」といって左に曲がったパターンである。うん、たまにあるよね、そういうの。


…………でもなんで今なんだよ!!?


 俺は不運にも右折左折を間違え面接会場に入ったのである。白光入社面接という大前提を携えて。


 さぁ、挨拶をし、1つ目の質問!


「当社を……黒光を志望した理由は何ですか?」


 用意してきた回答を並べようとする。が、


「…………」


 俺はそこで気づく。やばい、面接する会社を間違えた、と。


 が、気づいた時にはもう遅かった。間違いに気づくという奇跡を信じて面接官を見つめ返すが、

「時間はたっぷりあるからね」

と、面接に来る人の少なさを表すかのようなフォローを入れてきた。にっこり、っていう効果音まで聞こえてきそうだ。


 違う、そうじゃない! 資料に無いやつが面接に来たことに気づいてくれ!


「えーっ……と……!?」


 むむむ!? なんか、俺の資料あるんですけど!? ナンデ!?


 まずい。これは非常にまずい。

 俺は、どうすればいいか分からないほど混乱していた。


「あーっ……えっとぉー」


 期待の眼差しがグサグサと刺さる。


 やめてくれ。俺はブラック企業に行きたいわけじゃないんだ。そのキラキラの瞳でこちらを見ないでくれ。眩しいから。溶けるって。


 って、そういえば、本当に何かあった時(無いだろうなぁ)のために黒光にも応募してたんじゃん。うわぁ……。というか、待ち時間がやけに短いと思ったのはそれが理由か。

 黒光の方が開催時刻が微妙に早かったんだな。で、一応資料は持っていたと。


 納得。


 何だそれ。最悪すぎる。


 どうしよう、引き返すか? いや、それは出来ないな……。なんかよくわからんが門番的な人いるし。どうしよう。いや、でも逃げ出したところで何もしてこないよな。暴行になるもんな。いや、でも門番さん(仮)の視線も輝きすぎてて出るのも気まずい……。うーむ……。


 く、これはもう、落ちるように仕向けるしかないか!? いや、その期待の眼差しには答えられないけど、良いのか未影みかげ! いや、それでいいんだ。


 お二方すみません!


 俺は心の中でそう叫び、絶対に不合格となるような回答をすることにした。


 すっ、と息を吸い込む。

 第一声。


「理由は、御社がなんか――……良さそうだったからですっ!! ……あはっ!!」


 こうなったら、やけくそだ。


 満面の笑みで、アホっぽい声で、中身の無い回答! おまけに「っ!!」と「あはっ」のダブルコンボ! 恥ずかしいぃぃぃぃっ!


 そして当たり前だが、面接官はキョトンとした顔でこちらを見つめていた。


 よーしよしよし!!! 大成功! よくやったぞ俺! ピースも添えるべきだったか!? キュピーン、つってな!? いや、いいな、これくらいふざけてれば不合格の未来は確実だ! よし、この調子で回答していくぞ……!


 心の中でガッツポーズをし、2つ目の質問第2ラウンドに挑む。


「な、なるほどねぇ……」


 さぁ来い!


「では、あなたの座右の銘は何ですか?」

「座右の……銘……」


 座右の銘!?


 強敵が現れたな。落ちるような回答が思い浮かばん。しかし、ここで前向きな回答をすれば受かるのは確実。


 ならば後ろ向きな回答でポイント落とし!


「『後ろも前も闇ばかり』、です……」


 先程の回答とは一転、シュンとした感じでネガティブ回答! そんな言葉は無いが、まぁどうだっていい。どうせ落ちるんだ。


「おぉ……!」


 ん? 面接官がちょっと嬉しそうなのは気のせいか? 気のせいだな。


 面接官の反応に若干の違和感を覚えたが、この際それは気にしないでおこう。

 次から次へと質問が飛んでくるが、俺はその後も絶対に落ちると予測される回答を続けた。


 下はその一部始終だ。


「特技は?」

「寝ることです!」

「趣味は?」

「自分探し……」

「黒光の社訓は?」

「知りません☆」

「白光をどう思う?」

「大好きです!!!!!!!」

「入りたい部署は?」

「受付嬢!」

「最後に一言」

「受付嬢で!」


 うーん、我ながら意味不明だ。が、こうして無事(?)黒光の面接は終了した。


 面接官の顔が徐々に輝いていったのは、きっと気のせいだろう。「歓喜」という文字が言葉の最後に付いていたような気がするが……うん、気のせいだ。気のせいだろう。

 

 そう信じたい。



 後日、俺の元に面接の結果を伝える手紙が届いた。一瞬凍りつくが、目を閉じ、面接風景を思い出した。


「理由は、御社がなんか、良さそうだったからですっ!! ……あはっ!!」「『後ろも前も闇ばかり』、です……」「寝ることです!」「自分探し……」「知りません☆」「大好きです!!!!!!!」「受付嬢!」「受付嬢で!」


 ……恥ずか死しそうだ。黒歴史確定だな。特に、最後の怒涛の受付嬢ラッシュはキツかった。うん。だが、今となってはそれすらもどうでもいいな。なぜなら俺は絶対に不合格だからだ。


 ふっふっふ、計画通り!


 ニヤリと笑いながら届いた紙と向かい合う。と、同時に一抹の不安。


 ……大丈夫だよな?


「すぅーっ……はぁー……」


 深呼吸をし、俺はほんの少しの不安を振り捨てた。ピッ、と勢いよく封を切る。中には紙と冊子が1枚ずつ。冊子の方には「事前研修のお知らせ」と書かれている。


 ということは、もう1枚の方が結果通達の紙だな。ふむふむ、どれどれ……? いやちょっと待て。事前研修のお知らせだと?


 さぁぁぁっ、と血の気が引くような、そんな嫌な予感がした。いつもは気にならないはずの時計の音が、今日はやけに大きく感じた。


 カッチン、カッチン、カッチン、カッチン……。


 同封されている1枚の紙。俺の運命がここに書かれている。結果は不合格。そうに違いない。だが、もしかして、いやそんな……。


 いや、もしかすると本当にっ!?


 はぁ、はぁ、と呼吸が乱れ、現実逃避計画が脳内で作成されていく。


 嘘だ、嘘だ、嘘だろう!? ええい、腹をくくれ黒崎未影! 現実を見るんだ! レッツゴー!


『黒崎未影様――


「ほわぁっ!」


 大丈夫だ!


 バンッ!


――合格』


「だあああああああああ!!!」


 嘘だああああああ!!


 俺はぺいっと紙を投げ捨てて、ドサッと床に項垂れた。


 嘘だ、嘘だ、嘘だろう……? 何が間違って合格なんだ? 逆になぜ俺を合格にしたんだ? 自分の面接風景を思い出し……いや、やめておこう。


「ううっ……うう……!」


 どうせ俺は合格なんだ!!! うわあああああああああ!!!


 あ、そうだ。これで鶴を折ろう。幸せが来ますようにってな。


 パタン、パタン、パタン。


「よし、できた……」


 俺は出来上がった鶴をベランダに洗濯バサミで吊るした。フッフッフ。HAHAHAHAHA。


「ケテ……タスケテ……」


 うーむ、幻聴が聞こえる気がするが、きっと疲れているんだろう。

 無視してベッドにダイブした。……ぽすん。


 あー、やわらかーい。


 そして何とも言えない虚脱感。襲ってくる、逃れられない現実。


「……俺の人生、終わった」


 俺は現実逃避を止めてそう思い、黒光への入社を決めたのだった。


 ふふふ。病みそう。


〆〆〆〆〆


「先輩、お昼休憩も終わりそうですし、そろそろお部屋に戻りましょう!」

「……あ、あぁ……」


 俺はまたも現実世界に帰還し、ブラック企業に入社したという事実に気づいていない純粋ピュア男を見て生気の無い返事をした。


 こいつは何で地獄ここに入ろうと思ったんだろう。


 全く不思議で仕方がないが、俺はこれからも黒光で働いていくしかないというのは揺るがない事実だ。考えたところでどうにもならない。もういい、部屋に戻ろう。


 山田がいつ、この会社の闇に気づくのか。そしていつまで情報部に留まってくれるのか。その観察を目下の目標とし、今日も生き延び……じゃなくて頑張ろう。


 退職届にさっさとハンコ押してくれないかなぁ、あの悪魔め。


「はぁ…………」


 パタン、と開いていたパソコンを閉じ、俺は今日で何度目かのため息をついた。ため息をつかなかった日は、ここ数年1回も無い気がするな。


 俺は相当参ってるようだ。


「山田、この資料終わったら、各部に挨拶にでも行こうか……」


 本当に、俺が黒光に入社することになったのは、ほんの手違いだと思うんだ。


 俺はため息をもう一度つき、そして、恐ろしい現実を知ることになる。


「あ」


「山田、マジでごめん」

「何ですか?」


 俺は落ち着き払った表情で眼鏡を押し上げ、そして……


「データ保存、忘れちった☆」


 この日最高の笑顔を見せた。

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