凪ぐ綿津見のデモナ

阿部狐

本文

 蒼穹の春陽、錆びた軽快車の悲鳴がむしろ麗しい。雪融けを迎えた郷村で、ただ孤高に響く。日差しが額の結露をなぞり、その雫が瞳で痺れ出した。癇に障る一方で、サイダーに似た刺激が懐かしい。瞬きを頻りと重ねながら、漁網片手に談笑する大人達を通り抜ける。今度は鼻が痺れ出した。僕は磯臭さが大嫌いだ。舌打ちで不快感を露呈しながら、菌を避けるように強くペダルを漕いだ。

 慣れ親しんだ砂利道に、春の訪れを告げる雑草が彩られている。それに紛れて微笑む蒲公英が優美だ。ゆらゆらと手を振るように靡く黄色に、愛のない接吻をしたい。青い自由帳に描いて魂を宿したいほどだ。視界の先には緑に包まれた山が姿を表す。その山頂に雲が乗った日には雨が降るのだと、村の年寄りが話していたのもこの時期である。耳に胼胝ができる前に話を遮ったものだ。

 僕の軽快車は、車軸のずれと石礫に囃されて不安定な跳躍を繰り返す。跳ぶ度に擦れる錆が、深夜に響く狐の叫喚に似て耳障りだ。だが今は、その奔放な不協和音が愛おしい。初恋が終焉を迎えた時のように、空虚で名残惜しい感情。柔和な雲の微笑みを見つめながら、僕は自嘲した。慚愧に堪えない。これから未練を断ち切るはずの僕が、未練の首輪を装着されている。あの磯臭さから逃げるためなら、お手もおかわりも大歓迎だ。だから海色の首輪を外してほしい。

「ああ、夏のような太陽だ。私が土竜なら死んでしまうよ」

 僕の真後ろで嘆声が聞こえる。荷台に横向きで腰掛ける幼馴染のものだ。振り向いた視界の先にある、麦わら帽子と白いワンピースが眩しい。彼女の黒髪がその首筋を撫でるかのように靡く。僕は太陽を睨むように目を細めながら、三日月に似た微笑を浮かべた。

 彼女は友達である。田舎で暮らすが故の事柄だろうが、僕達はいつも一緒だった。天真爛漫、楽観主義、彼女を表す四字熟語は滝のように溢れる。その中で僕を一際溺れさせたのは、奇想天外だ。昆虫採集で漁網を持参したり、大量の風船を背負って空の彼方に雲散しかけた彼女の幼少期を今のように懐古できる。比喩ではない。紛れもなく彼女の幼少期だ。

 どこか普通とは乖離している人。怠惰で倦怠な田舎を彩った、ただ一色の群青色が彼女だ。彼女のない僕の絵画は、きっと彼女のワンピースのように純白で、少しの磯臭さが残留するだけ。

「ねぇ、ソーダを買おうよ。あの駄菓子屋のソーダ」

 ふと彼女が提案する。彼女が想像する駄菓子屋は、抽象的な指示語でも表せるほど僕達が慣れ親しんだものだ。お婆さんが一人で営業しており、この郷村では漁業と並ぶ知名度だった。全ての品が二桁で取引されるほどの価格設定は幼少期の僕にとって魅力的であり、孤独だから客を呼びたいだとか、値段に釣られて訪れた子供を食べる鬼だからだとか根も葉もない噂が流れていたが、ともかく僕はその駄菓子屋を好いていた。

 ただ、僕は首を横に振る。ソーダの味を受け付けないのだ。無味の空虚を刺激と共に飲み込む行為の無価値さを理解した時から、僕はソーダを嫌悪している。おまけにその駄菓子屋のソーダは僅かに磯臭く、鼻をつまみながら渋々飲んでいたものだ。

「でもな、もう最後なんだよ。ソーダを飲むチャンスは」

 まるで僕の逡巡を看破するように、彼女は言ってみせる。初めてではない。僕が不条理によって厭世的な悲観主義者に成り果てた時には、常に真っ向から希望的観測を為す彼女がいた。逆接から紡がれる甘言、いわば光芒の一筋がどうにも心地良くて、その都度悲観主義者を解雇されたものだ。未だ時給すら受け取れていない。

 滑稽な話であるが、僕は十九年余りも彼女に欺かれている。努力が滑り落ちた一年前の銷魂ですら、彼女の逆接で酸のように溶解した。彼女は巧言令色な傀儡師で、僕は海色の操り人形。例外なく翻弄される日々だった。

「ほら。見えてきたよ、駄菓子屋」

 砂利道の途中に、バス停と共に佇む駄菓子屋が姿を現した。木造建築で、外れかけた看板と廃れたポストが特徴的な、僕の思い出だ。

 屈辱的ではあったが、僕は見えない糸に動かされる人形である。僕が握っていたハンドルは、彼女の意思によって砂利道を逸れていった。まんまと踊らされた僕は、やがて運動を停止した軽快車を駄菓子屋の外壁に立て掛けて、自らの足で建物の中へと踏み出した。

 

 駄菓子屋の扉は開放しており、入店しても空気の味が変わらない。僕以外に客が見えない空間にも関わらず、齢を重ねた今では窮屈だった。僕の背丈にも満たない商品棚と、よく計算が狂う勘定台も現役で、奥には昭和が抜け落ちない生活空間が垣間見える。畳と障子で形作られた、時の流れを知らぬ塒。その中から、腰が曲がったお婆さんが現れた。

「いらっしゃい。今日は一人なの?」

 お婆さんの嗄れた声は、紛れもなく加齢を裏付けていた。僕の幼少期の一部分だった「元気なお婆ちゃん」が音を立てて瓦解する。しかし、受けた震盪とは対照的に、僕の返答は「そうですね」とあまりに侘びしかった。

 お婆さんは壁に手を添えながら近寄り、勘定台越しで僕と向き合った。

「アンタ、漁師にならないんでしょ?」

「まあ、はい」

「どうして?」

「どうしてって、言われても」

 漁師の話題は苦手で、正常な言葉すら浮かばない。「えっと」で間を繋ぐ僕は、まるで滑稽な就活生だ。段々と言葉を失い、遂に押し黙ってしまった。お婆さんには僕がどの職に就くかよりも、漁師に無関心なことが疑問なのだろう。実際これは妥当な懐疑であり、僕が変わっていたのだ。

 この郷村には海に生まれて海に死ぬ風習があった。僕の先祖は幼少期に漁業を刷り込まれ、壮年期に海へと駆り出し、老年期に子孫へ技術を託して、亡骸は海に還る。女性は多種多様で、お婆さんのように店を営む者もいたが、最期は海に消えた。亡骸を海に還すことで、綿津見と呼ばれる海の神様が豊漁を約束してくれると村の年寄りが語っていた。僕はそれが許せなかった。

「何を買いに来たの? お菓子なら棚だよ」

 お婆さんが気を遣い、話題を逸らす。僕は棚に陳列されている菓子へと視線を移した。菓子はスナック類が多く、値段は変わらず二桁だ。ただ、かつては宝石と同等の輝きを誇った菓子の棚が、今では陳腐に見えた。寂寥を覚えながら、僕はまたお婆さんと目を合わせる。幼馴染の彼女と交わした約束を果たすために、僕は口を開いた。

「ソーダを一本ください」

 お婆さんは少し沈黙した後、「ソーダ」と復唱しながら勘定台の下へ消えた。言葉がどうにも儘ならない。軽快車を漕ぎ始める時の妙な重圧感に似ている。

 僕は振り返って店の外を見た。僕に破顔する幼馴染の彼女が立っている。清白なワンピースが突風で舞い上がり、綿毛と同化して絢爛だ。彼女は風に靡かれながら、確かに「よくできました」と言い表す。僕は微笑で返答し、視線をお婆さんの方へと戻した。

 勘定台の上には、既にソーダが佇んでいた。その容器は厚くて硬く、結露した水のドレスに身を包む。ロケットに似た底の形が視界に入って、図らずも蒼天の向こうを連想した。少なくともこのソーダを口に含めば、背丈が足りなかった幼少期よりも更に遠くへ手を伸ばせる気がして、炭酸のように滾る高揚感を隠せなかった。

 僕は錆びた銅硬貨を三枚差し出し、右手でソーダを手に取った。冷たい。太陽で炙られた掌に、撫でるような水滴が浸透する。それが妙に心地良くて、余った左手もソーダに添えた。

 お婆さんに軽くお辞儀をして、僕は足早に外へ駆け出そうとする。手には勇気の証。彼女に知らせて誇称してやるのだ。

「あれ、そういえば」

 ふとお婆さんが呟いた。地面に接着剤を塗抹したかのように、僕の足が停まる。

「あの白いワンピースの女性、誰だっけ?」

 彼女のことだろう。物忘れが激しいお婆さんだ。彼女とは共に駄菓子屋を訪れていたし、ソーダの購入を提案したのも彼女だ。僕は彼女と共に在り、彼女無き僕は空虚な骸に過ぎないほどだ。ただ、僕は骸に還る必要があった。

「そんな子は知りません」

 言い聞かせるように呟く。お婆さんの顔色を伺うことなく、僕は寂れた閉塞空間を抜けた。

 陽光、覚える羞明、高揚感。僕はロケット形状の容器を把持し、立て掛けた軽快車の元へ戻る。寸陰の野放しだったが、軽快車は清潔感のない雑草のスカートを纏っている。そして「それもまた一興」と彼女が言った。

「軽快車だってお洒落はするさ。デートで彼氏が遅刻したら、女の子は化粧直しもしたくなるんだよ」

 彼女は壁に寄り掛かり、麦わらの日陰越しに微笑む。僕は諧謔に苦笑しながら、待ち侘びたソーダを開けた。腑抜けた空気の音が響く。騒めき出した液体が沸騰のそれと似ている。容器の圧迫感が些か減り、膨張していた高揚が緊張に変換される。漂う磯臭さが幼少期の厭悪を呼び覚ます。僕は深呼吸をした。磯臭さが含有された空気。精一杯吸い込み、今度は緩々と吐き出す。その全てを放出した後、僕はぎゅっと目を瞑り、勢いよくソーダを口に当てた。無味の空虚が流れ込む。不味い。段々と喉が焼けてくる。吐き気を催したが、彼女が凝視するものだから、限界のもう少し先まで意地を見せた。

 半分ほど消えた後、僕は飲むことを中断して腹を唸らせる噫気と共に酷く噎せ返した。儘ならない。誰に返答を求めることなく「畜生」と呟く。

「でもな、これで割り切れたと思うな」

 咳き込みしゃがんだ僕に、彼女が顔を近付ける。彼女の言葉は負の感情を前向きに変える魔法だ。結局僕はすぐに顔を上げ、立ち上がった。相変わらず微笑む彼女を余所目に、僕は軽快車のカゴにソーダを投げ入れる。成長期の雑草を払い、軽快車を壁から離し、颯爽とサドルに跨った。

「さあ行こう。陽が沈む前に」

 彼女が荷台に腰掛けると同時に、僕は強くペダルを踏んだ。首筋に纏わりつく泥のような未練を断ち切るために。

 

 煌びやかな蒼穹の春陽、僕は砂利道を往く。軽快車が砂利に弄ばれて、僕と彼女を巻き込んで震える。その都度耳障りな錆の音が響き、僕は眉を顰めた。

「君は運転が下手だなあ。ほら、ソーダも怒りで震えている。蓋を開けたら大噴火さ」

 彼女の諧謔は決まって独創的だ。顰めた眉は戻り、代わりに口角が上がる。不快だった錆の音は、諧謔の耳栓で封じられた。

 ふと空を仰いだ。晴れ渡る青の中に、脆弱な雲が浮かぶ。ぽつりと佇むそれは、孤独な狼のように繊細で、絶対的な青に溶けていく。多数派の青に押し潰され、産声すら儘ならない。慰めるように、僕は追悼した。

「でもな、まだ追悼は早いと思うな」

 後ろの彼女が呟く。再度僕が目を凝らすと、色こそは褪せるものの、自らの白を掴んで離さない雲が確認できた。なんとも執拗な存在証明だ。その零細な白で、青を穿つことができようか。僕がそう胸中で問うも、首肯を返されることはない。僕は焦燥感を覚えた。無意識のうちに、自分を雲に投影していたのだ。

 

 僕の父は郷村でも有名な漁師だった。父の乗る船は嵐を知らず、父が海に出た上で不漁が続いた期間は、僕が生まれてから一度しかないという。その父の元に生まれたからか、村の年寄り達は僕を特別視する。「綿津見様の啓示を受けた少年だ」と崇められたせいで、僕は周囲と孤立して育った。父も村の期待に応えたかったのか、僕を跡継ぎにするべく子供には荷が重い漁業作業を強いる。彼女がいなければ、僕は青に瓦解する白に過ぎなかっただろう。

 僕は一度、漁業作業を放棄して駄菓子屋へ赴いたことがある。しかし間の悪いことに、休憩中の漁師達と鉢合わせしてしまった。僕の行動は父に報告され、僕は駆けつけた父に殴り倒された。駄菓子屋の外で仰向けになる僕に、馬乗りになった父が告げる。

「お前は綿津見様の天啓を受けたんだ。もう一度ぶたれる前に仕事に戻れ」

 冷酷な言葉が轟いた。周りの漁師達が嘲笑する。当時中学生だった僕は既に磯臭さが大嫌いだった。否、磯臭さを招く漁業、父の強引さ、年寄り達の期待、漁師達の嘲笑、まるごと全部憎々しかった。そして、惨めで野暮な僕の唯一の抵抗は、荷が重すぎた宿命を放棄することだった。

「僕は漁師になんかならない」

 それを聞いた途端、父はすくっと立ち上がり、無言で去った。漁師達も嗤いながら続く。僕は空を仰ぎ、脆弱な雲に手を伸ばした。掴めないものが掴めた気がして、僕は幸福だった。

 この日から、僕が漁業作業に出ることはなかった。父は変わらず漁師で、還暦が目前の現在も海に生きている。しかし僕は勘当されたも同然の扱いで、元々消極的な会話すら失せた。宿命を放棄した僕を受け入れたのは、もはや彼女だけだった。

 

 突如軽快車がうねり、僕は激震に襲われる。車輪が石礫に引っ掛かったようだ。揺れに揺れた車体は、砂利道を大きく外れて雑草畑へと飛び出してしまう。

 「縁起が悪いね。行く場所が行く場所だからかな」

 彼女が苦笑する。僕は漕ぐ足を踏ん張らせ、また砂利道へ回帰した。雑草からの脱出で体力を消耗したためか、僕は肩で息をする。犬のように空気を循環させる自分自身を、思いがけず首輪を装着された犬に投影した。否、僕は犬ではない。無論、綿津見でもない。人間だ、海色の未練を纏う人間だ。喘鳴しながら連想した。

「ほら、見えてきた」

 僕が目を凝らすと、視界の隅に墓地が映った。その墓地は軽快車が振動する度に近付き、いつしか目前まで到達していた。僕は軽快車を降り、車体を近くの木に立て掛ける。カゴのソーダを手に取り、墓地へ踏み出した。

 

 墓地とは名ばかりで、墓碑もなければ遺骨が納められることもない。階段二段分ほど隆起した土地に、木製の墓標が佇むだけだ。実は去年、この場所の議論が交わされたらしい。一方が語るには、漁業中に殉職した漁師を弔うための場所だという。他方で、綿津見様に祈祷するための場所だと主張する者もいた。だが双方とも違う。これは僕が立てた墓標だ。既に漁業から身を引いていた僕に発言権はなく、事の真実は僕と彼女だけが知る。

「母さん、会いに来たよ」

 僕は墓標に寄って声を掛ける。今日は母の命日だった。十数年も前の墓標とはいえ、未だ朽ち果てていない。それを見る度に、母は僕を見守っていると自分勝手に解釈することができた。勿論墓標の下に母はいない。村の風習に倣って海に溶けた。それでも僕は母に縋りたかった。

 僕は手元のソーダに目を遣る。母はソーダが好きだった。父が漁業で帰らない夜、母は決まってソーダを取り出して「あの人の匂いがする」と、僕が嫌いな磯臭さすら愛情に変換していた。

「母さん、やっぱり僕はソーダを好きになれないみたいだ」

 母の死後から、僕は小遣いでソーダを買い始めた。買ってはコップに注ぎ、鼻をつまみながら飲んだ。ただでさえ不味い飲み物だったから、ロケット状の容器を空にするのに一週間は必要だった。しかし僕が磯臭さを克服すれば、父を愛せるかもしれないと思ってしまった。一心不乱だ。母が愛した父を知りたくて、その度に噎せ返した。先程も同じだった。今の今まで、父を愛したかっただけだ。僕はもう誰にも縛られない。

 僕はソーダの蓋を開け、中身を母の墓標に振り撒いた。これは未練だ。母に固執した僕への戒めだ。ソーダに固執した僕への戒めだ。嘲笑が聞こえる。幻聴だろうが、今はむしろ心地良い。母への未練を、死後十数年経って晴らすのだから。僕が摂取するのはソーダではなく離乳食だったのだ。母よ、もしも見守ってくれたのならば、ソーダで描かれた虹を渡り、白い楽園で静かに眠ってくれ。

 何度か振るうと墓標が濡れて、雨が降ったようになる。僕も母も満足しただろうと、ソーダの蓋を閉めた。半分ほどあった液体は一口分になった。

「踏ん切りついた?」

 僕の横の彼女が微笑む。その整った鼻と、柔和な表情が母に似ている。凛々しくも懇篤そうな顔を母に投影してしまう。嗚呼、まだ未練が残っているらしい。僕と彼女は互いの方へ向き直り、視線を合わせた。

「君は」

 僕が口を開こうと、彼女は顔色を変えずに眼差しを注ぐ。僕の魂胆を看破するつもりだ。彼女に差した影が夕暮れの前兆を予感させる。僕が踏み出さないと、陽が沈んでしまう。蒼天が赤と橙の諧調に染まり、やがて残照が差し込めば、僕は二度と彼女に会えない。だから僕は彼女に手を伸ばした。

「君は、君は僕の」

「まだ言わないで」

 その時、彼女は視線を逸らす。僕の伸ばした手も静かに引っ込んで、今度は垂れ下がった。彼女は墓標に目を遣り、僕は力なく項垂れる。ばつが悪い空気が場を支配した。濡れた墓標に影が纏い、それが僕の足にも浸食する。暫くして、彼女から口を開いた。

「この日が来るのは分かっていたよ。でもな、もう少しだけ隣にいたいんだ」

 貪欲かな、と彼女は苦笑する。彼女が欲望を喋ったのは初めてだった。楽観的で冗談が好きな彼女には、まるで相応しくない感情。彼女が翳り、蒼天が青の放棄を始める。視界の隅にあった山の頂上には、黒い雲が乗っていた。ああ、雨が降りそうだ。

 僕は墓標が立つ土地を駆け下り、立て掛けた軽快車に寄った。ソーダを投げ入れ、ハンドルを握り、墓標を背に佇む彼女の前まで押した。彼女は追悼するように目を瞑り、そして僕へ歩み出す。

「夕焼け小焼けの黄昏時も近い。でも君は、もはや童謡に帰宅を急かされるような子供ではないね?」

 諧謔を弄する彼女だが、その抑揚は虚勢を裏付けるものだ。彼女は麦わら帽子に表情を隠し、ゆっくりと荷台に腰掛ける。ソーダよりも遥かに軽い彼女の体重が加わり、最後の二人旅の準備が整った。

「海へ行こう」

 彼女の呟きと共に、軽快車は砂利道へ飛び出した。

 

 褪せた蒼穹の春陽、僕は海へ往く。背後を振り返ると、終末のような陰影が押し寄せて、彼女のワンピース諸共無慈悲な蜜柑色で染め上げる。かつての僕は、海で彼女と展望する夕景を愛していた。堤防に腰掛ける僕と、テトラポッドで舞踏する彼女。彼女は純白のドレスを纏う踊り子で、僕はただ一人の観客。二人して橙色に染まったその瞬間だけは、磯臭さすら浸食できない僕達の世界だった。だが今の夕景はまるで借金取り。僕を覆い、徹頭徹尾追い回す侵略者だ。闇夜の前哨戦にしては、些か戦力を投入しすぎやしないだろうか。否、嘆いても変わらない。僕は前を向き、ペダルに全ての重圧を託した。

 軽快車が急加速する。人の走行速度ほどだった車体は、徐々に風を裂き、空気に割り込んで、遂には陰影を引き剥がし始めた。僕が立ち乗りを開始したのだ。加えて軽快車は下り坂に突入する。荒れた砂利道すら難なく乗り越えて、軽快車は脇目も振らずに海を目指す。

 刹那、僕は別の闇に包まれた。トンネルだ。軽快車が身を委ねるのは、砂利道ではなく舗装されたアスファルト。道を邪魔する石礫もなく、車軸がずれた軽快車でも大船に乗った心持ちになれる。錆びた軽快車も、今は磯臭くない豪華客船だ。甲板で夕景を仰げば、きっと十数年の未練すら断ち切れる。淑女と成り果てた彼女の、無邪気で子供じみた、最後の春陽が始まる。

 常闇。永久か刹那か分からぬ寂寥。その薄寂しさは、僕の瞬きと共に消失した。軽快車がトンネルを抜け出したのだ。舗装された道は砂利道へと回帰し、僕の短い船旅は終焉を迎える。地から逃避するように天を仰ぐが、もはや空に青はなく、しかし橙もない。黒雲だけが埋め尽くしていた。

 軽快車は下る。僕は立ち乗りを継続しながら、視界に漁師達が映るのを確認した。漁網を抱え込み郷村へ走る大人達。僕の鼻が痺れ出す。しかし鼻をつまむ指すら惜しい。僕が立ち乗りを続けないと、彼女が闇に飲まれてしまうのだから。

 漕いで漕いで、脇腹を突く痛みに歯を食いしばりながら、僕は砂利道を往く。彼女を見ることすら儘ならない。やがて僕の額に水が滴り落ちる。それは一瞬にして数を増し、磯臭く僕を抉る小雨となった。砂利は渇望するように水を吸い、軽快車の車輪に掴み掛る。雨と錆が共鳴し、また耳障りな摩擦音が生まれる。ペダルを踏む足が滑り、僕は何度も転倒しかけた。だが滑ることは僕の特権だ。滑って滑って、その滑った手で掴み取った栄光さえある。並の雨で僕は転ばない、と胸中で奮い立ってみせた。

 僕が死に物狂いで漕いでいると、待望の海が見えた。むやみに広い砂浜と、海を貫きそうな堤防。撒菱に似たテトラポッドが散乱し、砂浜と離れた泊地には海藻が纏わりついた漁船が数台停まっている。僕は砂浜の方へ車体を向けて、軽快車ごと飛び込んだ。

 

 暗雲の春陽、雲が暗澹と唸り、心なしか海が牙を向いていた。雨がぱらぱらと降り注ぐ砂浜には、車輪のはまった軽快車が一台、そして海と向き合う僕と彼女だけ。

「神様が泣いている。でもな、本当に泣きたいのは私だよ」

 傘も外套もない彼女は、いずれ鉄のように錆びて朽ち果てる。僕が断ち切った瞬間、彼女は世界から消失する。現実から逃避するように、僕は彼女から視線を逸らした。その視線の先には堤防が現れる。かつて僕が彼女と共に夕景を仰いだ堤防。それは僕の母と死別した場所だった。

 

 蒼天の三月、十数年前の昔話だ。郷村は前例のない不漁に襲われた。獲れない魚を獲るべく奮闘する漁師達の焦燥と、原因は温暖化に伴う海水温上昇だとか、綿津見様に生贄を捧げないからだとか様々な憶測を叫ぶ年寄り達の葛藤に挟まれて、郷村の空気は常に張りつめていた。魚以外の特産物は存在しないため、郷村は目に見えて困窮していく。それは僕の家も例外ではなく、父も狼狽を隠せていなかった。父が海に出ても不漁だった期間だ。苛立ちからか怒鳴る日もあった。

 母は病弱だが優しく、白いワンピースを愛用しており、僕の前では笑顔を絶やさない人だった。しかし寝静まった塒で嗚咽し、その度に噎せ返す姿を僕は何度も見た。咳止めの薬は、日を追うごとに増えた。

 僕は絵が好きで、将来の夢は漫画家だった。青い自由帳に空想を並べては、夢を実現させた僕の姿を憧憬した。しかしこの郷村で漁師以外を志すことはできず、それを実感する度に輝いた夢を押し入れに隠しては、母にのみ共有したものだ。母は僕の絵を見る度に褒めて、決まって駄菓子屋へ連れて行ってくれた。僕は母が大好きだった。

 ある曇天の日、僕と母は海へ赴く。堤防に腰掛けて、泊地の船を見送るのが日課だった。そして、曇天で雨模様で難航が予測されようと、郷村のために敢闘する父を尊敬していた。

 やがてエンジンの轟音が鳴り響き、船が出航する。その音が聞こえると、決まって僕は立ち上がり、堤防の奥まで走って父に手を振っていた。届くか分からぬ応援でも、父のためなら惜しくない。だから僕は、この日も父に向けて走り出した。前だけに視線を向けた僕は、思ったより堤防が短いことに気付かず、そのまま重力に囚われて落下した。

 落下地点は、入り組んだ迷宮のようなテトラポッドの隙間。波に打たれる下半身の痛みに耐えながら、滑りに滑るテトラポッドを掴もうと必死だった。しかし無我夢中で藻掻こうと、僕の手はぬるりと滑り、その都度下半身が波に打たれた。青く暗い閉塞空間、好きだった磯臭さに嫌悪しながら、僕は初めて死を悟る。だがその時、頭上から手が伸ばされる。母の手だった。母は堤防から身を乗り出し、僕の名を呼ぶ。しかし年端もいかぬ子供だった僕の手は短く、母の手まで伸びやしない。すると母は更に身を乗り出したのか、その手を僕まで届ける。やっと僕はぬめる手でそれを掴むことに成功し、少し上昇した僕は海面より高いテトラポットに足を置いた。その瞬間、母が転落する。母の病弱な体に、水を吸った僕の体重は負担が大きすぎた。頭から落下し、額をコンクリートに強打して、二度と顔を上げることなく海の底へ沈んだ。

 その日は数十日ぶりの大漁だったという。

 母の死を知った村人達は、綿津見様の生贄となった母に感謝をした。年寄り達は意味の分からない単語を羅列して、綿津見様を崇める儀式を執り行う。年寄り達の中には駄菓子屋のお婆さんや父の姿もあった。誰も僕を責めず、むしろ礼賛した。僕は不愉快で、憤ろしくて、囃し立てる村人達を押しのけて走り出した。僕は海が嫌いだ。磯臭さが嫌いだ。それを好きな父も村人も、全部全部大嫌いだ。咆哮し、慟哭し、曇天から雨天となり、転倒して泥塗れになりながら、僕は郷村で一番高い丘を目指した。高度の低い海だから有難く思われるのだ。高い場所ならば悲痛に感じてくれる。海に沈んで忘却されるならば、丘に佇めば嫌でも心に刻むはずだ。他愛も無い論理ながら、幼い僕は母を忘れまいと必死だった。そして僕は丘の頂上に辿り着き、道中で拾った太い木の枝を地に立てる。その後の僕は力尽きて倒れ、泥の中で泣き崩れた。

 母の死後は大漁が続き、やがて僕も海に駆り出されることになる。だが、僕の中で母が消失したことはない。一年後に墓標を建て替えたものの、母は永遠の記憶だ。学校帰りや漁帰りは毎日母に手を合わせる。青い海に沈んだ母が、白い雲に近い場所で眠れるようにと願いを込めて。そのような生活を送っていたある日、僕が墓標を訪れると、白いワンピースに身を包む彼女が佇んでいた。

 

 黒雲は晴れない。だが小雨は止み、砂浜に黄色が戻り始めた。海は細波を立て、それっきりだった。僕と彼女は乾いた砂に腰掛け、海に視線を向けたままだ。灰色の諧調に染まった彼女のワンピースは、二度と純白には戻らないだろう。

「私は」

 彼女が呟く。視線は変わらない。細波が彼女の背中を押すように、静かに寄せている。墓地で僕が口に出しかけた言葉を、今度は彼女が発しようとしていた。僕は黒い空を仰ぎ、ただ粛然に彼女の言葉を待つ。

「私は君の母親ではない。白いワンピースを纏って、どれだけ隣で笑おうと、私は君の母に成り代わることはできなかった」

 彼女は僕に顔を向け、空笑いを浮かべた。彼女の整った鼻と、柔和な表情はやはり母に似ている。しかし似ているだけだ。僕はすくっと立ち上がり、車輪が埋まった軽快車のカゴからソーダと青い自由帳を手に取る。僕はカゴに手を伸ばしながら、ふと彼女の方を見遣る。今となっては、微笑みを崩さない彼女の方が空虚な骸だ。僕は彼女の隣に戻って胡坐をかき、雨で濡れた自由帳の一頁目を開いた。

「結局、私は君の妄想に過ぎなかったな」

 麦わら帽子と白いワンピースに、首筋を撫でるかのように靡く黒髪。そのページには、紛れもなく彼女そのものが描かれていた。

 

 母を失って数日後、まだ僕は村人達に感謝されていた。全員が口を揃えて「崇高な生贄」と呟いて母を崇めるものだから、僕が母の墓標に赴いては、たった一人で号泣して憔悴したものだ。皆が悦ばしい分、僕が追悼しなければならない。母を生贄として崇めてはならないと、僕は復唱した。

 それでも物寂しさは紛れず、僕は母の理解者を探り回る。学校や漁師達、父にも掛け合った。だが全員が母を畏敬し、嘆ずるものはいなかった。父すら母の死を尊くて美しいものと言い表すものだから、堤防で父を見送った母を反芻してしまい、僕は父に殴りかかってしまう。当然歯が立つわけもなく、僕は傷だらけになり、寝室に逃げ込んで、枕に口を当てながら発狂した。

 孤立した僕は、空想の中で自分に都合のいい人を創造した。僕は悲観的で優柔不断だから、その逡巡を希望的観測で打ち砕く人がいい。僕は引っ込み思案だから、手を引いてくれる陽気な人がいい。馬鹿なことをして笑わせてほしい。冗談を言い合いたい。ずっと一緒にいたい。全部の願望を詰め込んだ人は、あまりにも母と酷似していた。

 僕はそれを青い自由帳に投影する。麦わら帽子、白いワンピース、首筋を撫でるように靡く黒髪。母に似ていて、でも母とは限りなく遠い。侘しくて紙に涙が零れた。ふと村人達の言動を振り返る。綿津見様が母を生贄とし、大漁を祈願してくださった、と海に叫んでいた。人を生贄にする神様など、僕は信じない。神様は命を重んずるはずだ。そうして僕は母の姿を投影した、母ではない誰かを創り出した。

「君は僕の綿津見様だ」

 天真爛漫で、絶望を逆接で打破する、僕だけの神様。僕は彼女を「綿津見のデモナ」と名付けた。

 

 黒雲が唸り、また雨が降り注ぐ。長雨か夕立かは皆目見当もつかない。僕は青い自由帳で頭を覆い、傘代わりとした。構わない、もう要らないのだから。

 最初彼女は目を伏せていたが、やがて僕へ向き直り、瞳を絢爛と輝かせた。

「君も手伝って。最後の奇想天外を始めるよ」

 彼女は麦わら帽子を取り、そっと地面に置く。僕が一度瞬きをすると、麦わら帽子は小さな発射台へと姿を変えた。

「こんな荒れ模様だって、私なら打ち砕ける。さあ、ロケットを取り付けて」

 僕の手元を見ると、ソーダがロケットに変化していた。ちっぽけで頼りなく、しかし天を穿つことができると確信した。僕は左手で頭上を庇いながら、右手でロケットを取り付ける。僅かなソーダの音が聞こえたが、僕の妄想で押し殺した。

 降水は勢いを増して豪雨となる。もはや自由帳では庇いきれない。それでも空想に身を委ねたのは、十数年で培った彼女への信頼があるからだ。母を崇める現実よりも、母を追悼する空想に僕は幼少期を託したのだ。

「掛け声、一緒に言うよ!」

 彼女が叫ぶ。これが彼女と行う最後の遊びだと微塵も考えたくはない。寂寥を雨に隠しながら、僕は声を出した。

「スリー、ツー、ワン、発射!」

 激しい噴射音と共に、僕と彼女の願望を背負ったロケットが飛び立った。僕達は空を仰ぐ。風を纏い、水の銃弾をすり抜けて、ロケットは更に遠くを目指す。燃料切れには怯えなくていい。僕が妄想するほど、ロケットは一心に空を昇るのだ。

 彼女が口に手を当て「頑張れ」と応援を始めた。心なしかロケットが応答しているように見える。僕も彼女に倣い、ロケットに声援を送った。頑張れの加速度を積んだロケットは、遂に黒雲の目前まで到達する。天を穿て、未練を未練たらしめる黒雲など、もはや足枷のそれ以外ではない。ロケットは僕の願望通り、黒雲の中心で大爆発を引き起こす。轟音と衝撃に包まれて、思わず僕は顔を庇った。強い風が吹き、砂が舞い上がる。瞼と唇を閉じながら衝撃の収束を待った。

 

 風が静まったのを確認し、僕は静かに目を開いた。橙と少しの赤が広がる。海が空を吸って茜色に染まる。僕と彼女が愛した夕景だ。彼女の方を向くと、黒髪がずぶ濡れて妖怪のようになっている。そこで一度瞬きをすると、彼女の髪は乾き、また麦わら帽子を被っていた。

 彼女は海を背に立ち、手を後ろに組んでいる。黒髪が細波のように揺れて、時折その表情を隠す。僕は青い自由帳を手に、彼女へと向き合った。

「僕、漫画家になろうと思う」

 彼女は何も言わない。その代わり、目を細めて口元を緩める。その仕草が母と同じだ。懐かしくて、僕も微笑んでしまう。

「今日は母さんの命日だったから、明日の始発列車でこの村を去る。上京するんだ。やっと美大に合格したんだよ。夢が叶うって考えれば、一浪なんて安いものさ」

 一浪という単語を自嘲しながら呟く。僕に自尊心などない。そんな非力で頼りない僕を受け入れた彼女には、虚勢などむしろ失礼極まりないと考えた。

「お金のことは後で考えるよ。それでさ、もう村には帰らないつもりなんだ。裏切り者って言われそうだし、それに、ソーダも美味しくないからさ」

 茜色が彼女を包み、細波に紛れて飲み込もうとしている。そして彼女は、それを承諾するように立ち尽くす。この雰囲気がどうにも居心地悪くて、僕は諧謔を弄した。彼女は破顔しない。ただ口元を緩めて、僕の言葉を待つだけだった。

「だから」

 僕は大きく息を吐き、体中の余分なものを放出する。頬が赤く染まるのは、きっと夕景のせいじゃないだろう。そうして空気を発散した僕の中には、彼女に告げる言葉だけが残った。その言葉は告白に似た重量で、離別に似た侘しさを纏う。だが僕はそれ以上に、彼女に似た前向きさを感じ取った。

「だから、君が最後の未練なんだ。君を忘れないと、僕は夢に踏み出せない」

 彼女の横を通り、僕は海へ歩み寄る。陸と海の境界線まで寄った後、僕は水平線に沈む太陽と向かい合い、左腕を海の方へ突き出した。手には青い自由帳。この自由帳を手放すこと、それこそが僕の未練だ。

 砂の摩擦音と共に彼女が歩き出し、僕の前に立つ。手を後ろに組み、足首まで海に浸かりながら、彼女は顔を綻ばせた。

「大丈夫。君が望めば、もう君の口で『でもな』が呟けるはずだよ」

 空虚な骸の彼女。昆虫採集で漁網を持参したり、大量の風船を背負って空の彼方に雲散しかけた彼女。僕の空想が音を立てて崩れ落ちる。でもな、今なら耐えられると思うんだ。

「じゃあね、楽しかったよ」

 沈む太陽と重なるように、彼女が手を振る。息が届く距離なのに、一度も触れられやしなかった。それでも、僕と彼女は友達だ。

 僕は一思いに自由帳から手を離した。その途端、波が自由帳を攫い、そのまま自由帳は母の元へ沈んでいく。

「さようなら、僕の綿津見様」

 最後の海は、細波すら凪いだ茜色の光景が広がっていた。

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凪ぐ綿津見のデモナ 阿部狐 @Siro-i

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