第40話 扉を開くとき

 しばらくの間、部屋中に憧人くんの啜り泣く声が響いた。彼の瞳から流れる涙は頬を伝い、床や俺の手にぽたぽたと落ちてきた。


 ティッシュを渡した方がいいかと思ったが、手元にはないし、なんとなく彼の手を離す気にはなれなかったので動くことができなかった。


 彼はしばらく泣いた後、自分の袖で目頭を拭い、上目遣いで俺を見てきた。あどけなさの残る少年の顔は、やはり姉弟なのか羽衣に似ていた。


「あ、あの……ボク、憧人って、言います」

「あぁ。改めて、お姉さんの友達の神田遥だ。気軽に遥って呼んでくれていいよ」

「は、はい……遥、さん。お姉ちゃんのお友達ってことは、お姉ちゃんが遥さんを?」

「うん。俺の意志でもあるけどね」

「遥さんの……?」

「……まあ、あれだ。憧人くんの仲間だよ」


 そう言うと、憧人くんは俺の言葉の意味を察したのか、悲しい顔をする。


「遥さんもボクみたいな目に遭ったんですね……」

「でも、だからって憧人くんの気持ちを全て分かるとは言わない。だから、色々話を聞かせてもらってもいいかな」

「……はい。遥さんになら……いや、遥さんとお話したい、です」


 よかった。反応からして、憧人くんの俺に対する好感度は高そうだ。


 部屋に乗り込んで一緒に遊ぶなんて強引な方法だと思ったが、なんとか上手くいって良かった。


「ありがとう。……憧人くんは、やっぱり女性が怖い?」

「……はい。遠くから見る分には大丈夫なのですが、触れられると、怖くて体が動かなくなります」

「そっか……。お姉さんも怖い?」

「そ、そんなことはありません! お姉ちゃんとお母さんは怖くありません!」

「じゃあ、なんでお姉さんたちも避けてるの?」

「……ボクがこんなことになったことで、お姉ちゃんたちをたくさん悩ませてしまったと思うんです。お姉ちゃんなんて、昔から好きだったファッションを変えて……ボクのためだと分かったので嬉しくはあったのですが、ボクのせいでと思うと、申し訳なくて……」

「だから避けるようになったの?」


 そう聞くと、憧人くんはこくりと頷いた。


 なるほど。憧人くんは羽衣たちを恐怖から避けていたのではなく、こんな事になって申し訳ないという思いから、彼女らにどう振る舞えばいいか分からなくなって避けていたのだろう。


 こういった事件の被害者はその当人だけではない。その人の周りの人も被害を受けるし、それを見てまた被害者は傷つく。


 だから第三者が介入することが一番の薬だったのかもしれないと考えると、俺が羽衣に憧人くんのことを頼まれたのは正解だったのだろう。


「家族に心配させて悪いなって思う気持ちは分かるけど、あまり気にしてなくていいと思うよ。お姉さん……羽衣には特にさ」

「で、でも……お姉ちゃんは、ボクのために自分の好きなものを捨てようとしてくれたんですよ? また負担をかけるんじゃないかって……」

「それだけ羽衣が憧人くんのことを大事に想っているからだよ。だから、憧人くんは羽衣にもっと甘えていいんだよ。その方が羽衣も喜びそうだし」


 そう言うと、憧人くんは無言になって考え込み始めた。


 この子にとって、やはり家族を頼るのは難しいのだろうか……そう考えていると、憧人くんはバッと顔を上げて、おずおずとした様子で口を開く。


「……遥さんの言う通り、もっとお姉ちゃんとお母さんを甘えようと思います」

「おぉ。それはよかっ——」

「で、でも! やっぱり、一度引きこもっておいて、今更お姉ちゃんたちに甘えるのはちょっと恥ずかしいから……は、遥さんに甘えてもいいですか?」

「もちろん構わないよ。ほとんど強引に憧人くんの本心を聞き出したところもあるし、責任取るよ」

「責任……」


 憧人くんは含みを持った言い方で俺の言葉を復唱する。


 最初はそこまで面倒見る気はなかったが、乗りかかった船だ。それに、本人からお願いされたら断れるわけがない。


「ところで、遥さんはお姉ちゃんとお友達って言ってましたけど、ということは遥さん、大学へ通えてるんですか?」

「うん、そうだね」

「あ、あの……遥さんは、どうやって立ち直ったんですか? ボク、やっぱり外に出るのはまだ怖くて……」

「えっと、それは……ちょっと席を立っていいかな? すぐ戻ってくるから」

「え、はい」


 困惑した様子の憧人くんを置いて、部屋を出た俺は、羽衣の部屋のドアをノックした。すると間も無くしてドアが開かれた。


「遥! もう終わったの?」

「ううん、まだ途中。でも順調だから安心して」

「そ、そっか……順調なんだね。遥にお願いしてよかったぁ。それで、途中報告に来てくれたの?」

「いや、ちょっと洗面所を借りたくてな」


 そう言って、右手に持つ紙袋を軽く持ち上げる。


「洗面所? 別にいいけど……何するつもりなの?」

「この先どうなるか予想つかないから、今のところは伏せとく。悪いようにはしないさ、多分」

「多分ってあんた……まあ、遥なら本当にそんなことはしないでしょうね。今日は最初から任せっきりなわけだし、最後まで信じて結果を待つよ」

「ありがとう。じゃあ、終わったらライン送るよ」


 許可も貰えたので、俺は洗面所へ向かい、紙袋から俺用の女装グッズを取り出す。


「見てもらった方が分かりやすいだろうしな。持ってきてて良かった」


 自分の部屋とほとんど環境は変わらないので、女装する工程に手間はかからなかった。おかげで時間もあまりかからずに済んだ。


 外出する時のいつもの格好になった俺は、洗面所を出て憧人くんの部屋へ戻る。自分でドアを開けて中に入ると、でバッとドアの方を振り向いた憧人くんのキラキラとした顔が、一瞬で青ざめていった。


「お、女の人……っ!」


 部屋の隅へ移動し、壁を背中にして一生懸命に俺から逃げようとしている。俺は少し焦りながらも、優しい声色を作って話しかける。


「憧人くん、俺だよ。遥だよ」

「……は、遥、さん? え、でも、遥さんは男の人で……今目の前にいるのは女の人……」

「女装だよ。ほら」


 ウィッグを少しずらして、地毛がまとめられたネットを見せる。すると、目の前の人間が俺であると信じてくれたのか、憧人くんの顔の血色が良くなっていき、おずおずと俺の方へ近づいてくる。


「じょ、女装ですか……?」

「うん。幸か不幸か、俺の容姿は中性的だったからね。女性になりすますことができるから、この格好で外出してるんだ。今のところ、俺の正体に気付いたのは羽衣だけだよ」

「な、なるほど……男だとバレない限り、ああいった被害を受ける心配もないってことですね」

「可能性はゼロとは言い切れないけどね」


 この世界の女性は、相手が女性でもイケる人が多いみたいだしな。それでも、男性の格好をしている時よりかはマシだ。


「それで、憧人くん。今の俺の格好は怖くない?」

「えっ……そう、ですね。最初はビックリしましたが、遥さんだと分かったら、大丈夫になりました……むしろ、良かったといいますか……えへへ」


 良かった? 安心したという意味だろうか。


「ちなみに、俺の身体は触れる?」

「さ、触ってもいいんですか!? え、えい!」


 憧人くんは決意が揺らいでしまうのを避けるためか、勢いよく俺の腕を掴んできた。しかし、憧人くんの身体は固まった様子もなく、俺の腕をペタペタと触っている。


「うん、大丈夫そうだね」

「あ、あの……これだけじゃまだ分からないと思うので、少し抱きしめてもらってもいいですか?」

「え、それは流石にまずいんじゃ。そこまでテストしなくても」

「いえ、あの、お姉ちゃんが! よく抱きついてきていたので! 今後、もしまたお姉ちゃんに抱きしめられた時、体が拒絶したらと思うと嫌なので!」

「なるほど、事前に知っていたらそれ自体を避けることも可能だな。わかった。でも軽くね」

「は、はい! どうぞ!」


 憧人くんの小さな体を抱き寄せ、そのまま軽く抱きしめた。すると、一瞬、憧人くんの身体がビクッとなった気がしたが、「えへへ」と緩んだ声が聞こえた。


「憧人くん、大丈夫?」

「は、はい! 大丈夫です! むしろ最高、です!」


『最高』の意味はよく分からなかったが、大丈夫なら良かった。たしかに憧人くんも腕を回してきてくれてるし、こうしてちゃんと会話もできている。


 相手が男だと分かれば、女装していても大丈夫だということだろうか。これは俺の今後にも役立つ情報だな。


 ひとしきり確認は済んだので、俺は憧人くんから離れる。すると「あっ」という悲し気な声が憧人くんの口から漏れた。久しぶりに他人から抱きしめられて安心していたのだろうか。


 でも、ここからが本題なのだ。俺は紙袋から衣装などを取り出す。それはさっきまで俺が着ていた物ではないし、そもそも俺は着たことがない。


「さて、それじゃあ、憧人くん。女装してみよっか」

「えっ……えぇ!?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る