第32話 久々の外出
今朝の二神はご機嫌だった。
「ぷふふ、ぷふふ」
隣を歩く二神は、俺の顔をチラチラと見ながら、その度に独特の笑い声を漏らす。
そんな彼女の様子に、もちろん奈遊は反応した。最初は首を傾げていた程度だったが、二神の視線が度々俺に向けられているのに気づき、
「ミナ、どうしたの? 今日はずっと機嫌が良さそうだけど」
ついに聞いてしまった。
質問を受けた二神はというと、さらに口角を上げて、待ってましたとばかりに答え始める。
「ぷふふ、実は昨日、大学からの帰り道に不埒な輩に絡まれてね。いくら拒絶してもしつこく絡んできて困っていたところを、神田くんが助けてくれたんだよ。いやあ、あの時の神田くんの必死な姿ときたら。私を大事な存在だと証明するような言動に、私も少し思うところがあったね」
たしかに、あの時は大事な友人に何してくれてるんだっていう怒りに身を任せて動いてしまったが、そんな感想をぶつけられると恥ずかしくなってくる。
つい二神から顔を背けてしまう。すると反対側にいる奈遊に視線がいくわけで。彼女は拳を閉じて、ぷるぷると肩を震わせていた。
「うぅ……ずるい! 私もハルにかっこよく助けられたい!」
「二人には、あんまりああいうのに巻き込まれて欲しくないけどな」
「うっ……そんな優しいこと言われたら、ナンパされにくいじゃん!」
「されに行くなよ」
自分からピンチになりに行かれてたまるか。俺がいつでも助けられるわけでもないんだし、昨日のも相手が良かっただけで、俺が男を出してもなんとかならない場合もある。
奈遊はいじけたように唇を尖らせ、
「分かってるよ。ハルに迷惑はかけたくないもん」
「変に迷惑をかけられたくないけど……もし奈遊が困ってることがあったら、遠慮せずに相談してくれよ。奈遊にはお世話になってるし」
「あっ……うん! えへへ。待っててね、迷惑持ってくるから!」
「その宣言が既に迷惑なんだけどな」
そう言うと、奈遊はぷくっと頬を膨らませた後、その溜めた空気を噴き出し、笑い始めた。俺も釣られて笑ってしまう。
「それにしても、ナンパかぁ。この世界にもいるんだ……」
「奈遊」
「あっ。こほんこほん! それで、二神さん、大丈夫だった?」
「ん? この通り、大丈夫だよ。なんせ神田くんが助けてくれたからね」
「何回言うんだよそれ、恥ずかしいからやめてくれ」
「ぷふふ、いいじゃないか。嬉しいことは何度でも言いたいのさ」
勘弁してくれ。そんなこと言うから、また奈遊の頬が膨らみ始めてるじゃないか。
「むぅ。……でも、京西大生は狙われやすいらしいよ? なんか、どうせ勉強しかしてこなかった奴らだから、少しいい気にさせれば簡単に〜って思われるみたい。バイト先の先輩が言ってた」
「くっ……そんな風に思われていたなんて、屈辱だよ。彼奴ら、今度会ったら義兄さん送りにしてやる」
「こっわ、去勢しようとしてるぞこいつ」
「ふん。いくら男性が希少だからって、全員が尊ばれる存在だとは限らないんだ。そこは前の時代と同じでいいのさ」
「まぁ無条件に持ち上げるのは良くないと思うけどな」
この世界は歪んでいる。男女比だけじゃない。それによる、価値観や考え方、それらが常軌を逸している。
昨日の奴らも、俺が元いた世界だったらあんなことしないはずだ。この世界が、彼らを歪ませたのだろう。
ところで、
「バイトの話が出たけど、奈遊のバイト先はまだ教えてくれないの?」
「うっ……もうちょっと待って! その時が来たら、絶対に教えるから!」
奈遊は森崎に誘われて、入学当初からバイトを始めている。しかし、そのバイト先を俺たちに教えてくれないのだ。なんでも、一人前になってからじゃないと教えられないとか。
「言い難い職種ならやめた方がいいんじゃないのかい? バイトは他にも色々あるよ」
「べ、別にいかがわしいものじゃないよ! ただ、その、馬鹿にされそうで……」
「別に馬鹿にしないけどなぁ。働いてるだけで偉いと思うし。見ろ、親から貰った金で優雅に暮らしている俺の姿を」
「ハルは仕方ないよ。迂闊に外に出れないんだからさ」
自虐によってフォローしたつもりが、逆にフォローされてしまった。
「まあ、その時が来たら教えてくれよ」
「うん!」
どうしてそんなに隠したがるのか分からないが、笑顔で返事をする奈遊を見ながら、気長に待つことを決めた。
* * * * *
あれから一週間が経った。
入学前はやる気に満ちていた含めた新入生たちも、段々この環境に慣れてきて、次第に授業に対して面倒という気持ちを抱き始めていた。今はただ、あともう少しで訪れるゴールデンウィークに胸を膨らませるばかりだ。
俺も例に漏れず、ゴールデンウィークに何をしようか思いを馳せていた。せっかく関西に来たのだから、みんなと一緒に観光をしてみてもいいかもしれない。でも母さんが寂しがってるかもしれないから、帰省するべきだろうか。
そんなことを考えながら、奈遊と一緒に次の授業の講義室へと移動していると、今日から不思議と静かだった奈遊が、意を決した表情で口を開いた。
「あ、あのさ! 今日の放課後、付き合って欲しいんだ」
外出のお誘いなどで今更そこまで緊張するかと思ったが、とりあえず詳しい話を聞くことにする。
「いいよ。どこに行くの?」
「えっと、ね。私のバイト先」
「え、奈遊の? ってことは、ついに教えてくれるってこと?」
遂に奈遊のバイト先を教えてくれるらしい。意外と早かったなというのが素直な感想だ。
「う、うん。でね、一旦家に帰って着替えて欲しいんだ」
「着替える? え、なんかドレスコードがあるタイプの店なの? 持ち合わせてるかな……」
「そ、そうじゃなくてね。……男の格好で来て欲しいの」
「えっ!?」
奈遊が耳元にそっと口を寄せてきたと思ったら、予想外のことを言われ、俺は大きな声を出してしまった。周りの視線が突き刺さり、俺は思わず下を向く。
「ごめんハル……でも、困ってるんだ、私」
しょんぼりとしたトーンで話す奈遊に、俺は「気にするな」としか返す言葉が思いつかなった。
* * * * *
いつぶりだろうか。
うざったい髪の毛もなく、化粧をする必要もない。一応、普段は着ない服装に着替えた。
俺は今、男の姿で町の中を歩いている。とても不思議な感じだ。向こうが標準になりつつある自分の感覚に驚く。
「ごめんね、ハル」
あれから奈遊はずっと謝罪の言葉を口にしていた。その度に「大丈夫だって」と言ってやる。
「たまにはこの格好で出かけたかったしな。いい気分転換になるよ」
「うぅ、ありがとう」
バス停に着いたところで、ちょうど目的のバスが到着した。俺たちはそれに乗り込み、一番奥の席に座る。
「バスで通勤してるんだな」
「うん。塾は駅近くに多いからね」
「へぇ……ん? 塾? もしかして、奈遊のバイトって」
俺がそこまで言うと、奈遊はこくりと頷いた。
「うん、塾講師。変だよね。私が京西大生として、勉強を教えてるのって。分かってはいるの。私には京西大に受かるような頭はないって。だから、これも一種の経歴詐欺なのかなっていつも心の中で自虐してる。……最初は、いいきっかけになるかもって思ったの。ハルたちみたいに胸張って京西大生だって言えるように、大学受験の勉強を頑張ろうって。ほら、教えるために勉強しないとだからさ」
奈遊がこの大学に通っているのは、もう一人の彼女が頑張ったからだ。今俺の前にいる奈遊は、中堅の大学に合格し、入学していたはずだ。
入学前から彼女は、自分は京西大に相応しくないと言っていた。それを強引に説得し、入学させたのは俺だ。なのに、彼女がそこまで気にしていたことに気づけなかった。自分が情けなく思えてくる。
「バイト先の塾はね、チィが高校まで通ってた小さな個別指導塾なんだ。私が受け持ってる生徒の学年はバラバラで、中学生までならなんとか分かるし、良好な関係も築けてると思うんだあ」
そこで奈遊は一拍置いて、「でも」と言葉を続ける。
「一人、高校生の子を受け持っててさ。その子、今年で大学受験なんだけど、すごく頭がいいんだぁ。一年の頃からずっと
「京東大を? それは凄いな」
京西大は西で一番の大学だが、京東大は東で一番であり、国内で一番の大学だ。
「うん。……私ね、その子にいつも馬鹿にされてるんだ。確かに私の方が馬鹿だからさ、それは別にいいんだけどね。こっちはお金をいただいてるわけだから、申し訳なさから担当を私から変えてもいいんだよって前に言ったんだ。でも、この塾に通ってるのは、親がどこかに通えって言うから仕方なくで、授業を受ける気は更々ないから誰でもいいって。だから、ずっとその子の担当なんだぁ」
塾にしっかりとした授業を期待していないその子にとって、下手に出ている奈遊は丁度いい相手なのかもしれない。
……少し腹が立ってきた。
「『こんなことも分からないの?』とか、『先生失格だね』とか。そう言うのは耐えれたんだけどさ……『あんたって男性経験もなさそうだよねー』って言われた時に、カチンときちゃってさ」
「ん?」
「私にはかっこいいかっこいい彼氏がいるんだから!! って言っちゃった。てへっ」
さっきまでの重苦しい空気は何処へやら。急におちゃらけた感じを出す奈遊に、俺は口を開いたまま呆然とする。
「……つまり、あれか。俺は今から奈遊の彼氏として、その生意気な生徒に会いに行くのか?」
「そ、そういうこと! ごめんねハル! なんかさ、別に気にしてないと思ってたんだけど、けっこう鬱憤溜まってたみたいでさ! ついカッとなって言っちゃったの! 本当にごめん!」
両手を合わせて平謝りする奈遊に、俺は「気にするな」と今日何度目かの言葉を口にする。
「俺もちょっとイラついてきたから、そいつに文句が言いたいところなんだ。会ってやろうじゃないか」
「ハル!」
こうして、バイト代を出してくれている一人の高校三年生に対して、二人の大学生がカチコミを入れに行くことになった。
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