綺麗な瞳をください。

紫田 夏来

第1話

「ただいま~」

私は家に帰ってきて、誰もいないリビングに向かって一人で挨拶をする。あほくさいけど、なぜかどうしてもこの習慣は消えない。手を洗うために洗面所へ移動する。そして鏡を見つめる。私の視線は、自然と、鏡に映った私の瞳を指した。

 まつ毛がない。

 悪いことをしているんだ、と私は思う。毛を抜くっていうと、痛そうかもしれないけれど、プチッと毛根が私の身体から離れる感覚が気持ちよくて、どうしてもやめられない。この悪癖に名前があることは、中学生になってすぐの春に知った。あれから1年が経つが、まだ誰にもこの癖のことは言えていない。誰にも言えない、私だけの秘密。

 初めてまつ毛を抜いた日のことは、今でもはっきり覚えている。小学5年生の秋、母にすすめられたのだった。



 わたしは宿題をとく。たんじゅんな計算問題がわたしはとくいだから、あっという間に終わらせられそうだ。今日は宿題だけじゃなくて、じしゅ勉強ノートもやろう。きぶん的に、今日はもっとたくさん算数がやりたいから、まだならっていないところにちょうせんしてみよう。わたしは周りの子たちとはちょっとちがって、算数が好きだ。

 このあいだ、好きな科目について英語を使って話すという授業があった。わたしはまよわずarithmeticと答えた。そしたら、笑われた。「涼香は算数なんかが好きなんだって」と。すごくつらかった。でも、だれにもそのことは言っていない。わたしがまちがえただけだから。こういうときは音楽とか体育って答えないと笑われるって、ちゃんとわかってなかったのがわるいから。家でも、学校でも、習い事の先生にも、学校は楽しいとうそをついていた。本当はぜんぜん楽しくない。なにかにつけて笑われる。気づいたらうわばきがなくなっている。それとか、朝、わたしが教室に入ろうとしたら、上から黒板消しが落ちてきたりする。りふじんなことだらけだ、学校は。

 ん? なんか、目がかゆいな。ちょっとだけこすっちゃおう。いつもならお母さんにおこられるけど、気付かれないように気を付ければきっとだいじょうぶ。

 ゴシゴシ……

 手の指を見ると、太くて長いまつ毛がついていた。そうか、コイツが目に入ったからかゆかったんだ。

 わたしは抜けたまつ毛をかんさつした。

「涼香、なに見てるの?」

 お母さんがわたしに話しかけた。

「いや、なんでもないよ。」

「ああ、それはまつ毛ね。抜けたんだわ。」

 お母さんは私の手元をのぞきこんで言った。

 わたしは抜けた一本のまつ毛をシキンキョリで見つめる。お母さんはわたしのそんな姿をふしぎそうに見つめていた。

 根本は白くて太い。小さな玉のようなものが先端についている。反対側は、色は黒でだんだん細くなっている。

「まつ毛が抜けると目に入って痒いのよねえ。そういう時は抜いちゃえばいいのよ、涼香。」お母さんは言った。

 わたしは言われたとおり、目に手をのばした。親指と人差し指でまつ毛をつまみ、グッとひっぱる。すると、注射をさされたときのようにチクッと痛み、そして手を見ると見事なまつ毛が三本も抜けていた。わたしは最初に抜けた一本と次に抜いた三本を足して四本のまつ毛を真っ白なノートの上に並べた。

 なにこれ、痛いけど気持ちいい。プツッと抜ける時の感覚は気持ちよくて、クセになりそう。わたしはもう一度目に手をのばす。プツッ、プツッ。気が付いたら、何度も何度も、わたしはまつ毛を抜いている。

「そろそろご飯の時間よ」

お母さんが声をかけるまで、むがむちゅうになっていた。

 ごはんを食べ終わり、わたしはおふろに入る。

 そなえつけられている鏡を見て、わたしは仰天した。

 左目がハゲになっている!

 なにもかも、お母さんのせいだ。私にへんなことを教えるから。

 思えば、お母さんからわたしへの助言は、的外れだった。初めてうわばきをかくされたときは、「堂々としていなさい」と言われて、そのとおりにしていたら、どんどんイタズラはエスカレートしていって、毎朝うわばきがなくなるようになった。いつしかうわばきだけでなく筆箱、体操着、さらにはランドセルまでなくなるようになった。それでも、わたしはそういうことなんだってみとめるのがいやで、お母さんに言われたとおり堂々としていた。

 その頃になると、さすがのわたしも、みとめざるをえなくなった。

 わたしはいじめられている。

 でも、そんなことをお母さんに打ち明けて、心配をかけたくない。

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