鏡を磨けば
「いつまで鏡を磨いてるんだ」
「ひっ! 急に人間化しないでよ!!」
突然男の声で背後から話しかけられて、わたしはぞうきんを落としてしまった。
声の主は、イト。
ほぼうちの飼い猫と化している野良猫、といえばありきたりの話なのだが、こいつはちょっと特殊だ。
なんといっても、化け猫なのだ。
いともたやすく、人の姿に化けることができる。
しかも、人間化した彼は鏡には映らないので、気配にまったく気づけなかった。
「誰が化け猫だ、失礼な」
「勝手に心を読まないでって言ってるでしょ」
「俺は”招き猫”なんだよ」
「はいはい」
イトは昔からこの商店街をふらついていた野良猫で、特に誰が飼うというわけではなく、いつも誰かが餌付けしている、自由の権化のような存在だった。だけど商店街の規模が縮小するにつれ、うち以外に餌をやる店がなくなり、いつのまにやら「結衣ちゃんの猫」と言われるようになったのだ。
まさか子供の頃は、よく近所に現れる「ちょっと不思議なお兄さん=イト」だなんて思いもしなかったのだけれど。
人間化したイトは見たところ二十代半ばくらいといった印象で、何年経ってもその風貌は老いない。それが化け猫と呼ぶ所以だ。
あまり今まで意識はしてこなかったが、いつかはわたしはイトの年齢を超えることになるのだろうか。わたしがおばあちゃんになっても、イトはまだ二十代半ばのまま……そんなところ、想像できないけど。
「開店前に店を清めることについては感心だが、そろそろ次の仕事に取りかかったらどうだ」
「清める、だなんて大げさだね」
ただわたしは掃除をしていただけなのに、というつもりで目を丸くした。
イトは端正な顔を横に振る。肩までかかるまっすぐな白髪がさらさらと揺れる。そこだけ見ていれば俳優みたいだ。
「開店前の掃除が持つ意味は、”清め”だ。閉店後に掃除するのとは全く意味が違う。店の”気”を新たにし、悪しきものを打ち払う――そんなことも分からずに店番してるのか?」
少々むくれてわたしは反論する。
「店番じゃないよ。今は代打ではあれ『店主』なんだからねっ」
頼りない店主だ、とイトはぼそっと呟く。
商店街を昔から見てきたからだろうか、イトは商売のいろはを心得ている。その上、ちょっと不思議なアドバイスをくれることもある。
しかしイトが言うように彼が”招き猫”ならば、商店街が衰退することはなかっただろう。彼はただの”化け猫”なのだ。
わたしは帳簿を確認し、今日の来客予定を確認する。
注文した商品が届くと、顧客帳簿(もちろん紙媒体だ)の電話番号に電話を掛け、何時頃に来られるのかを確認するのが母のやり方だった。それを今日も踏襲する。
予定通りいくと、今日注文商品の受け取りに来るのは3人のお客さんだった。
昔ながらの個人商店を支えるのはお得意様――わたしは心の中でイツメンと呼ばせてもらっているけど――だ。こんな田舎のブティックには、めったに一見様は訪れず、リピーターが売り上げのほとんどを占めている。
「さあ、それはどうだか」
「いや、初めましてのお客さんがよりによってこの期間に来るとか、ありえる?」
「……ないとはいえない。店主が代わると、引き寄せる神も代わる」
「そうなの?」
わたしは首をかしげた。
わたしが、違う神を引き寄せるとでも言うのだろうか。
――一体、どんなお客さんに出会えるのだろう。
不安よりも期待が勝った。
いつも見慣れたお得意様以外の、ここに服を求めてやってくるお客様。
その一人一人に、商売ド素人のわたしが、ここでしか味わえない特別な体験を与えるのだ。
世界に名だたる巨大資本にはない、世界にたった一つだけの価値を。
もちろん、わたしの心強いビジネス・パートナーのイトと一緒に。
「……って、人が頼りにした途端、猫に戻るの!?」
「そりゃ、見知らぬ客に俺のヒト化した姿は眩しすぎるからな」
「このナルシスト! 裏切り者! 働けー!」
「……えっ?」
イトにばかり気を取られていて、気がつかなかった。
すでに入り口には、本日最初のお客様が来ていたことに。
しかも、イトが予言したとおり、「ご新規様」――!?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます