藍揺れるピアス

アイビー ―Ivy―

藍揺れるピアス



 ピアスを開けた。

 かねてから買っていたインディゴブルーのファーストピアスを耳につけると、冷たい感触に耳がちりちりする。血は出なかったけどやはり痛みはあって、気づかないうちに泣いていたらしい。碧がげらげら笑い倒して、涙をぬぐってくれた。


「は、やべー」


 真正面から見ると、碧はとても綺麗だった。銀色に染めた髪はさらさらだし、垂れた瞳も、至るところにあるピアスも、全部がほのかな光を放っているようで、たまに、碧は神様なんじゃないかと思うことがある。光に愛された神様。


「これで、夕真、おれのもんじゃん」


 滑らかな手つきでピアスを触り、流れるようにキスをした。そのまま、何度も角度を変えて。たまに碧の光が夕真のピアスをちらと光らせた。

 同じ色。インディゴブルーの小さなピアス。


***


 ピアスホールが定着、つまり完全に出来上がるまでには数ヶ月かかるらしい。それまで夕真はピアスを外すことができない。ずっと、自分と同じピアスをつけたまま。メンヘラの思想だとわかっていても、何となく嬉しかった。

 がしゃがしゃとレジ袋を振り回しながら夜の街をスキップする。かつて夜勤バイトとして入っていたコンビニを片目に、ちょっと後ろめたい気持ちになりながら、そのまま駐輪場の自転車に跨った。夕真と同棲し始めてからやめた夜勤バイト。たぶん、夕真が知ったら「気にしなくていいのに」と眉尻を下げる。夕真は絶対怒らない。悲しむのだ。そういうところが、碧は好きだった。

 生ぬるい風を受けて自転車をキコキコ漕ぐ。揺れるピアスが誇らしかった。アパートにつくと慣れきった動作で鍵を掛け、カゴに入れたレジ袋を引っ掴んでインターホンを鳴らした。少しあって、鍵が開く音がする。優しい音だ。夕真の手に掛かれば何もかも優しいものになる。お料理も、90年代のけたたましい音楽も、息苦しいネクタイも。


「ただいま、夕真」

「おかえり、碧」


 夕真は碧よりずっと背が高くて、デニムのエプロンがよく似合った。ひらひらしたパジャマのズボンから、細くて真っ白な足が覗く。碧は手も洗わず夕真の耳にキスを落とし、恥ずかしげに笑う夕真に笑い返した。


「夕飯はなあに」

「夕飯はねえ、焼きそばだよ」

「エビ入ってる?」

「もちろん。碧、好きでしょう?」

「ん! ゆーま、あいしてる」


 背中から抱きつき、うなじにキスをして、満足してから手を洗った。夕真から自分と同じ匂いがするだけで幸せだった。

 夕真お手製の焼きそばを食べている間、夕真は眼鏡をかけてパソコンに向かい合っていた。夕真は大学生なのだ。しかも、とびきり頭が良い。成績で奨学金貰える程度なのだ。

 夕真は悩むとき、指を顎に添えるクセがある。節くれ立った長い指。碧はそれを見るのが好きだ。綺麗に整った爪は碧が切ったものだし、その手で撫でられるとたまらない気持ちになる。夕真は冷え性だから、冷たくて気持ちいい手をしているのだ。

 焼きそばを食べ終わって食器を洗うと、レジ袋からアイスクリームを取り出した。碧はバニラ、夕真は抹茶。


「食べる?」


 夕真は話しかけると必ず顔を上げる。抹茶のアイスクリームをじっと見つめ、ふわっと笑った。夕真は笑い方まで優しい。


「じゃあ、貰おうかな」


 ふたりでスプーンですくって食べる。夕真が買った風鈴がちりちり鳴っていた。夕真はこういった、涼やかなものが好きだ。ビー玉とか、おはじきとか、ゼリー、簾、扇子、浴衣。夕真はおそろしく浴衣の似合う人だった。

 まだエアコンはいらない初夏。生ぬるい夜風が心地いい。

 たくさん話した。本当にたくさん話した。上司が最近うるさいんだ。おれが高卒だからって下に見てさ。それは大変だったね。大学もくだらないのに。くだらないの? ちょっと夕真は考えて、ふわっと笑う。僕にとっては面白いところだけど、大学生はみんなくだらないよ。そして碧は夕真に頬を擦り付けるのだ。夕真はこんなにいい人なのになあ。ふふ、本当? うん、もちろん。夕真の指を弄る。まず夕真はねえ、優しい! 光栄だね。次にお料理上手い! 焼きそば美味しかった? もちろん! でねえ、寝顔が可愛い。えぇ、嘘。本当だってば。夕真はちょっと口を開けて寝るんだ。恥ずかしいなあ。あとは? あとはねえ、文字が綺麗。プレゼントのセンスがいい。絵が下手っぴなのも可愛いよ。拗ねるとブサイクになるとこも。もはや夕真の相槌も聞かなくなって、思いつくままに列挙して、誰からともなくキスをした。


***


 朝起きると、大抵碧はまだ寝ている。網戸から朝陽が零れて、床に点々と落ちている。碧は自分の寝顔を可愛いと言うけれど、碧の寝顔も充分可愛かった。顔が半分、布団に隠れてしまうところとか、必ず夕真の方を向いて寝るところとか。

 家事は分担していた。夕真は炊事、碧は洗濯。掃除はじゃんけん。昨日は夕真が風呂掃除をした。大体の勝率はそれぞれ50%ほど。ちょうどいいねと碧は笑う。

 碧はあまり朝食べられないタチなので、豆腐と葱のみそ汁だけよそった。夕真は炊きたてのご飯ときゅうりの浅漬けも一緒だ。碧は今日も、たぶん、渋いなあと笑うのだと思う。夕真は碧の笑った顔が好きだった。ふにゃりと蕩けた笑顔なのだ。


「ほら、碧、起きて。朝だよ」


 碧は朝に弱い。寝起きは機嫌が悪いから、おはようのキスはいつも夕真からだ。それで満足したようにフスーッと鼻を鳴らしたら、ご機嫌な碧の出来上がりである。


「……あと、ごふん」

「みそ汁冷めちゃうよ」

「じゃあ、じゅうごふん」

「何で増えちゃうかなあ」


 ほら、起きて、と軽く肩を叩いた。

 うー、とぼさぼさの髪を揺らしながら、まだ半ば目覚めていない顔で体を起こした。目つきが悪い。口端から八重歯が覗いている。こういう油断しているときの碧は男らしいのだ。


「おはよう。よくできました」


 額に唇を落とすと、碧はフスーッと鼻を鳴らした。目つきが若干柔らかくなっている。合格らしい。

 顔を洗って食卓につくと、碧はゆっくり食べ始めた。しゃくしゃくと葱を食べ、モゴモゴと豆腐を食べる。みそ汁一椀に何十分もかけるのだ。大体、夕真が先に食べ終わってしまう。

 食器洗いを始める頃には、碧はもう覚醒していた。髪をきっちり整え、洗濯機を回し、着替えと歯磨きを済ませ、手際よく全てをこなしていく。


「ねー夕真、ネクタイ結んでー」

「はいはい、ちょっと待ってね」


 碧は一足先に社会人になった。学生向けアクセサリーショップの店員だ。薄給、上司うるさい以外に特に不満はないらしく、ネクタイを結んでいるときも上機嫌だ。

 碧の職場はスーツではないはずなのに、碧は毎朝こうしてネクタイを持ってくる。別にこの社会人じみた恰好が好きなわけではなく、夕真に結んでもらうのが好きなだけらしい。事実、更衣室で着替えるんだと。お陰で、学生時代はずっと学ランだった夕真は、とっくに自分でネクタイを結べるようになっていた。


「いってきます」

「いってらっしゃい」


 銀髪を翻して碧は行ってしまう。今日の授業は二限目からだったので、完成したレポートを見直して、あとは読書をしてゆっくり過ごした。

 本を読んでいると、たまに寂しくなるときがある。碧がそばにいれば、本ばっかり構うなよ、とちょっかい出してくるのに、と。がらんどうのアパート。風鈴が鳴る。廃れたベランダで服たちがぱたぱたと揺れる。その狭いベランダに出て、夕真はこっそり煙草を吸った。


***


 碧の職場は夕真の大学の近くにある。駅構内にある学生向けアクセサリーショップ。この髪とピアスを許される職場だからとここを選んだ。正社員だ。

 たまに夕真の友達も来る。全員頭が良さそうな顔で、びっくりするほどお人好しだった。アクセサリーを何かひとつ買っては「お昼、フードコートで待ってる」と囁いてくれる。駅の近くにデパートがあるのだ。碧はいつもそこでお昼ご飯を食べる。碧はオムライスを注文して、今日は三人いる夕真の友達のもとへ行った。夕真はいなかった。そもそも、夕真はあまりここに来ない。お昼は適当に済ませて図書館に引き籠もるが夕真だからだ。

 おまたせと言って席につくと、わいわいみんなで話し始めた。今流行りの服とかアクセサリーとか、大学での噂、夕真のことも話してくれる。みんなは夕真と碧のことは知らない。ただの、ルームシェアしてる友達、と思っている。


『別に、言ってもいいんだけどなあ』


 悲しそうに眉尻を下げた夕真に笑いかける。


『カミングアウトって勇気いるよ』


 カミングアウトも告白も碧からだったから、結構説得力があったらしく、しぶしぶながらも隠すと約束してくれた。


「そういやあ」


 ラーメンを頼んだ友達が、思い出したかのようにチャーシューを食む。


「夕真って交換留学の話も出てるんだろ?」


 あー、とどよめきが起こった。たこ焼きを頼んだ友達がはふはふと頬張りながら頭を掻いた。


「夕真、フランス語得意だからなあ」

「そー。マジでネイティブなんだよな」

「博士課程まで進むらしいし、行っといた方がいいだろ、今のうちに」

「でもまあ、寂しくなるよなあ」

「それはある」


 まるでもう決まってるみたいに話されて、スプーンを落としそうになった。心臓がばくばく鳴る。

 そしたら、夕真は、あのアパートからいなくなるんだろうか。古びた板床。出番のないデニムのエプロン。カーテンレールにぶら下げた風鈴だけが鳴る。


「そしたら碧はどーすんの?」


 むっつの瞳が、一斉にこっちを向く。ひとくちオムライスを頬張って、ゆっくり噛んで考えてから嚥下し、にっこり笑った。どう答えたかは、自分でも覚えていない。


***


 夕飯はいらないと連絡が来たときから察していたけれど、帰ってきた碧はべろんべろんに酔っ払っていた。


「ああもう、飲みすぎだよ。碧、お酒弱いのに」


 出迎えた夕真にぐったりと凭れ掛かった碧からは、お酒の匂いと、かすかに甘い香りがした。フルーティーな香り。カクテルでも飲んだのだろうか。碧にしては珍しい。

 碧は余程飲んだのか、ぐでんぐでんで足なんかふにゃふにゃでとても立てるような感じではなかった。仕方なく引きずってソファに座らせて、コップに水を汲む。うぅ、と碧が身じろぎをした。


「ゆーまあ」

「はいはい、夕真だよ。どうしたの。お水飲める?」

「んあ」


 かぱりと開けた口にゆっくり水を流し込む。喉が鼓動する。中古の扇風機が回る音がやけに耳についた。


「ゆーま」

「なあに、碧」

「いちねんまって」

「一年?」

「ん」

「どうして?」

「きんぱつびじょになる」


 夕真は声を上げて笑ってしまった。どうやら相当酔っ払っているらしい。碧はますます機嫌を悪くしたのか、むきになったようにソファを叩いた。


「きんぱつびじょになるの!」

「碧は銀髪のときが一番格好いいよ」

「かっこいいじゃやだ!」

「可愛いよ、碧。最高に可愛い」

「おっぱいおおきくするの!」

「僕おっぱいより碧の方が好きだよ」

「あおこになる」

「碧が好きだよ」

「えみりーになる」

「碧がいいんだってば」


 ぶすくれたようにそっぽを向く碧を抱きしめて、膝に乗せた。


「嫌なことあった?」


 碧は夕真を見上げる。猫のように揺れるピアスをちりちり鳴らし、愛おしそうに眺めた。ファーストピアスではない、碧とお揃いのピアス。最近ピアスホールが安定してきたからつけたのだ。本当はもう少し安定してからの方がいいのだけれど、夕真は聞かなかった。そういう、たまに頑固なところが、碧は大好きだった。

 満足そうに笑って、上気した頬を緩める。


「ゆーまがいるならいいや」


 垂れた瞳をきゅうと細めて、碧は笑った。

 碧はカシスオレンジと舌ピアスの味がした。


***


 バイトがひとり入った。いかにも男好きといった風のほっそい女で、初日に無理やり連絡先を交換させられた。媚びたような甘い声と他の男に見向きもしないところが気に入らなかったので、己のセクシャルマイノリティなんて明かしてやらなかった。碧は顔だけ見てくる女が大嫌いだったのだ。いつか女子会で碧のことを話し、魅力を語り、女友達が碧たちを茶化してくるようになり、告白してきたところでカミングアウトしてやろうと思った。どんな顔をするだろう。想像しただけで笑いが止まらなかった。碧が見向きするのは夕真だけだった。

 それよりも、来月は夕真の誕生日だ。何を贈るかで、碧の頭の中はいっぱいだった。夕真は何がほしいだろう。碧は夕真の誕生日はいつも凝っていた。プレゼントは複数用意するし、百均のパーティーグッズで部屋を飾り立て、拙い手で夕真の好きな天ぷらを揚げ、甘さ控えめのケーキを取り寄せた。もちろん、Happy Birthday 夕真、と碧の字で、チョコペンで書いて。

 仕事終わりに雑貨屋へ寄って、ピアスを買おうかちょっと迷って、やめた。まだお揃いのままがいい。碧は結局ティースプーンと紅茶の茶葉を買った。夕真はアイスティーが好きなのだ。本屋に寄ろうとしたら閉まっていたので大人しく帰路に着くことにした。


「ただいまあ、夕真」

「おかえり、碧」


 夕飯は鶏肉のソテーだった。食べ終わると夕真の膝に寝っ転がって、本を読む夕真を下から見上げた。顔で人を判断するのは嫌いだけど、夕真はとても整った顔立ちをしていた。優しくて端正で賢そうな顔。


「何読んでるのー」

「夜間飛行」


 難しそう、と呟くと、夕真はふわっと笑った。


「サン・テグジュペリだよ」

「星の王子さま!」

「うん、あたり」


 きゅうと喉を鳴らして擦り寄る。一瞬後に碧のスマホから着信音がした。ぎゃんぎゃんうるさい90年代の音楽。相手を見て、碧は唾を吐き捨てた。あのバイト女からだった。電源を落として寝返りを打つ。


「出なくていいの?」

「ん」


 最高に気分が悪かったので、唇を奪ってやった。

 いつしか夜間飛行は床に墜落して、ページの端が折れていた。


***


 碧のピアスが変わった。

 アプリコットピンクの可愛いピアスだった。

 声を上げることもできなかった。インディゴブルーのピアスがちりちり鳴った。風鈴が涼やかな音を立てていた。

 夕真の誕生日二週間前から、碧の機嫌はずっと良かった。押し入れを開けると、えげつない量のパーティーグッズとキュートな包装紙にくるまれたプレゼントが溢れんばかりに山積みにされている。もはや隠せていない。それを微笑ましく見守るのが好きだったのに。押し入れを開けたのがバレた途端、ふにゃりと笑う碧が好きだったのに。

 碧の笑い方は変わらない。蕩けたようにふにゃりと笑って、きゅふ、と擦り寄って、でも本気で興奮したときは刃物のような眼光で、くひ、と笑う。


「んねー、どうしたの」


 碧は夕真を、曇りない眼で見る。

 夕真ができることといえば、曖昧に笑い返すことだけだった。


「何でもないよ」


 何でもないわけなかった。


(何あのピアス。女がしそうなピアスなんて、どこで)


 しかもアプリコットピンク? 目が腐っているとしか思えない。碧が似合うのは寒色系だ。だから銀髪だって、生まれてからずっとそうだったとしか思えないほどしっくり馴染んでいるし、指輪もネックレスもシルバー、たまにするネイルもグリーンやブルー。ピアスなんか、夕真が開けたときからずっとインディゴブルーだ。お揃いのピアス。それを外してまで、あのピアスを。


(冗談じゃない)


 咄嗟に浮かぶのはあの女だ。最近、妙に碧に電話をかけてくる女。メッセージアプリの名前をオサレな韓国語にしているような馬鹿っぽい女。夕真は少しだけ韓国語がわかったので、ソイツが女だとわかってしまった。夕真の前では絶対に出ないけど、それ以外では結構な頻度で電話に出ていることも。


(馬鹿でセンスも悪い女に、碧が、取られる)


 気が狂いそうだった。ふざけんじゃねえと叫びたかった。

 本だってもうマトモに読めない。碧がちらついてしまう。三分の一も読み終わらないうちから本を閉じて、呼吸を整えていた。

 取られる気は毛頭なかった。悪いところがあれば直せばいい。相手にあって自分にないものなら、手に入れてしまえばいい。性別なんて理由で、異性と結ばれた方が幸せだなんてナンセンスな理由で、碧を手放してやる謂れなんかない。


(でも……)


 ぐし、と目元を乱暴に拭った。

 碧はゲイじゃない。バイセクシャル、同性も異性も愛せる人だ。初恋は女らしい。夕真はゲイ。女は愛せない。

 碧は、"人"を好きになれる人だ。


(性別に縛られず、その人自身を、愛せる、人)


 もしかしたら、ちょっと頭とセンスが悪いだけで、優しい人なのかもしれない。メッセージアプリの名前だけでその女を馬鹿と判断する夕真とは違って。ただの友達かもしれないのに、その女を殺したくなるほど嫉妬する夕真とは違って。夕真よりもずっと、ずっと、魅力的な人かも、しれない。

 もう一度言う。悪いところがあれば直せばいい。相手にあって自分にないものなら、手に入れてしまえばいい。性別なんて理由で、異性と結ばれた方が幸せだなんてナンセンスな理由で、碧を手放してやる謂れなんかない。

 でも、恋情なんて、理屈とは一番程遠い感情だ。

 直したからって、碧が夕真に惚れ直すなんて保証はない。


「あお」


 ベッドに重ねた手が熱い。


「あいしてる」


 誕生日パーティーは素晴らしかった。プレゼントは何十個も貰った。文庫本、ティースプーン、茶葉、オサレなボールペン、ぬいぐるみ、バスボム、腕時計、その他エトセトラ。浴衣もくれた。夏祭り一緒に行こう、という約束つきで。


「だいすき」


 天ぷらは美味しかった。碧が火傷しそうで終始ひやひやしていたけれど、もともと碧は器用だったので、サクサクの衣と新鮮な歯ごたえを兼ね合わせた天ぷらが出来上がった。碧は天つゆで、夕真は塩で食べた。ケーキも美味しかった。夕真の好みを理解している、甘さ控えめのケーキ。Happy Birthday 夕真の文字はぐにゃぐにゃで、面白かった。


「あお、あいしてる」


 きゅふ、と碧が笑った。くすぐったそうな笑みだった。ふにゃりと笑った。幸せそうな顔だった。


***


「留学しようと思うんだ」


 時が止まった。

 えらく上機嫌なときだった。連日しつこいほど電話をかけてきたバイト女がとうとう告白してきたからだ。事前に何通りも何通りも予告練習していた通りにカミングアウトした。ゲイで、彼氏いるんだよね、と。本当はバイなのだけれど、それだとバイト女が余計に面倒臭くなるだけだったのでゲイにした。実際、夕真のことを考えればバイかゲイかなんて些細な問題だった。バイト女は絶句して、金切り声で何か叫んでビンタされかけたけどそれは避けた。辞表を出すところを見て必死に笑いを噛み殺していた。夕真が知ったら絶対悲しみ、そんなことしたらだめだよ、と窘めるのだろうけど、夕真は碧のぶんまで優しいから、別にいいと思う。バランスが取れているのだ。

 幸と不幸って本当に交互に来るんだ、と遠いところにいる自分がぼんやり考えた。


「フランス?」

「うん」

「何で」

「何で……って」


 ソファに腰掛けたまま、こっちを見ない夕真が、なぜかとても怖くて怖くて恐ろしくて、涙が浮かんだ。


「博士号まで進むつもりだから、今のうちにと思って」


 本当に? という問いは喉の手前で止まる。


「だめ」


 その代わり、自分でも強い声が出た。


「絶対、だめ。だってお前それ、何ヶ月なの」

「三ヶ月で申請してる」

「三ヶ月も夕真なしで生きろって?」


 夕真はサン・テグジュペリを読んだまま、顔を上げない。


「もちろん連絡はするよ。国際電話かける。一週間に一回とかになっちゃうけど、それでも」

「やだ。おれがやだ」


 ちりちりと風鈴が揺れる。ぬるい風が網戸から吹き込む。


「夏祭り一緒に行こうって言った!」

「帰ってきたら一緒に行こう」

「じゃあ一年待って。フランス語勉強するから。一緒に行くから」

「碧」


 夕真がやっと、こっちを向いた。

 最高に悲しそうな顔だった。


「わがまま言わないで」


 もうめちゃくちゃだった。

 リモコンが激突して、風鈴が割れる。涼やかな音を奏でる風鈴の最期の音は、最高に派手な音だった。自分でも何を叫んでいるのかわからない。獣の咆哮よりもひどい絶叫だってのはかろうじてわかる。ぬいぐるみが床を跳ねる。文庫本が遠くで潰れる。置き時計から電池がまろび出る。碧の胸中にあるのは恐怖だけだった。

 金髪美女に、夕真が取られる。

 夕真はゲイというけれど、バイじゃない保証なんかどこにもない。碧は知っている。女に恋しているときの安心感。男に恋しているときの不安。いつ崩れてもおかしくない砂上の楼閣。そこに碧たちは住んでいる。でも、もし、その安心感に夕真が溺れてしまったら。それも、碧の与り知らぬところで。手の届かないところで。どこの何州の何番地とも知らぬところで。

 二度と、帰ってこなかったら?


「碧!」


 夕真の優しい温もりが、不意に碧の手首を掴んだ。


「それはだめ!」


 ぶっちぎってやる、こんなもの、と思った。バイト女から貰ったアプリコットピンクのピアス。勘違いさせるためにつけていたピアス。ずっと、不快で不快でたまらなかった。女なんてみんな死んでしまえと思った。

 じくじくした痛みが耳たぶを走る。ひぐひぐと嗚咽が漏れていることを、今知った。足が途端に震え始めて、立てなかった。


「いかないで」


 嗄れた喉からは、弱々しい声しか出なかった。


「フランスよりおれを選んで」


 崩れ落ちた碧を、夕真は抱きしめた。優しい抱擁だった。


「絶対、帰ってくるから」


 何よりも残酷な言葉なのに、何よりも優しい声だった。


***


 留学は有意義だった。ああもちろん、有意義だったとも。質の良い教育、居心地のいいホームステイ先、美味しい料理。


(だから、何?)


 碧をあれだけ叫ばせて、怒らせて、物まで投げさせて、挙句の果てには耳たぶごとピアスをぶっちぎろうとさせてまで、フランスに行く意味なんてあったんだろうか。もちろん有意義な体験だった。大学院に進んでもこの経験は活きるだろう。

 頭なんてとうに冷えた。愛の証明なんて必要なかった。碧は夕真を愛しているし、夕真も碧を愛している。他者が介入する隙なんてない。


『は、やべー』


 ちりちりと鳴るピアス。留学中、絶対に外さなかったピアス。ホームステイ先で仲良くなった人に、お餞別とレモンイエローのピアスを貰ったけれど、空港で捨てた。夕真がつけるのは碧とお揃いのピアスだけだった。インディゴブルー。深い青。


『これで、夕真、おれのもんじゃん』


 碧の声がリフレインする。

 ずっと昔から、夕真は碧のものだった。可愛い可愛い夕真の碧。あのとき、知ってるよ、と返せたら何と楽だったことか。

 正直言って、あそこまでやらせて、まだ不安だった。三ヶ月も離れれば飽きて女のもとへ行ってしまうのではないか、と。でも碧との連絡は絶やさなかったし、いつも盛り上がった。仲直りはしなかった。本当に、不気味なほど、何もなかったかのように。

 懐かしい道を辿る。電車に乗る気力がなかったので、タクシーを拾って近くのスーパーまで行って、買い物するからと降ろしてもらった。碧が好きなバニラのアイスと抹茶の水羊羹を買って、電柱を見つめる。寂れたゴミ捨て場と通り過ぎる野良猫を丁寧に見つめる。本当に何もかも懐かしかった。三ヶ月離れていただけなのに、寂れた住宅街がこんなにも愛おしい。碧は夕真のことを優しいと言うけれど、それは碧に対してだけのことだったので、こんな何気ない風景で心優しくなれる自分に少し驚嘆した。

 アパートはいつも通りだった。外装も表札も何ひとつ変わっていない。ひとつ言えば、碧の自転車がないことか。出掛けているのだろうかと首を傾げて、合鍵で家に帰った。

 扉を開けると碧の匂いがした。電気をつけて見回すと、カーペットもソファも、ぬいぐるみも、ベッドも、箪笥も、何も変わっていない。風鈴が割れたせいで寂しくなったカーテンレール。針の動かない置き時計。ページの折れた文庫本。ゴミ箱に捨てられたアプリコットピンクのピアス。唯一変わっているのは、見覚えないフランス語のテキスト、単語集、風景写真集、ガイドブックの数々。そして山のような求人情報のパンフレット。

 冷蔵庫にお菓子をしまって、ソファに身を沈めた。

 そのまま、碧の帰りを待った。

 何日か経った。碧は帰ってこなかった。

 何ヶ月か経った。碧は帰ってこなかった。

 一年経った。碧は帰ってこなかった。


***


 気づいたらトレンチを投げつけていた。

 派手な音を立てて、お冷やが彼の頭にぶっかけられる。氷がガタガタと床に落ちた。グラスは割れた。悲鳴が聞こえた。

 着飾った待機嬢が慌てて立ち上がる。レジ付近の黒服がすっ飛んできて頭を下げていた。自分に向かって怒鳴りつける声も聞こえた。碧は頭に入ってこなかった。

 扉の向こうは、紺がかかった黒い夜。客は、キャメル色のコートを着て、昔、碧がクリスマスプレゼントにあげたマフラーを巻いていた。細い足にはデニムパンツがよく似合う。さらさらした、烏のような黒髪。形のいい眉。長い睫毛に縁取られた瞳。極めつけは、素晴らしく形の整った耳にぶら下がる、インディゴブルーのピアス。


「この、裏切り者!」


 誰かがとんでもない力で碧を羽交い締めにした。殴りかかると思ったらしい。彼は困ったように眉尻を下げて、ふわっと笑った。


「それが言いたかっただけでしょ」

「おれも、お前と、こんな、同じ思いしたんだからな!」

「はいはい。浮気した?」

「するわけ!」


 軽い冗談だとわかっていた。わかることが、この上なく嬉しかった。

 夕真が近づく。優しい顔をしていた。羽交い締めにした黒服が、こわごわといった風に碧を離した。嬢も、黒服も、息を呑んでふたりを見守っている。


「遅くなって、ごめんね」


 碧を抱きしめる力は、この上なく、優しかった。

 ぼろぼろと大粒の涙が零れた。おいおい声を上げて泣いた。鼻水が垂れて、ひどい顔だったと思う。それでも愛おしそうに、夕真は碧を抱きしめた。


「おそすぎ!」

「ごめんねえ。半年くらい拗ねてたんだ」

「あとのいちねんは!」

「ずーっと、碧のこと探してたよ。キャバクラってこんなにいっぱいあるんだねえ。僕、びっくりしちゃった」

「うわきした!?」

「したらこの目ん玉、抉り出して碧にあげる」

「いらない!」

「そっかあ、いらないかあ」

「……ゆーま」

「なあに」

「ものなげて、ごめんなさい」

「ん。僕も置いてってごめんねえ。寂しかった?」

「さみしかった!」

「なら無断でスマホ買い替えるのはやめてね。お陰でめちゃくちゃ心配したんだよ?」

「きゃばの、りょう、すんでたから、いばしょばれるのやだった」

「見つけてほしかった?」

「うん」

「じゃあ、みいつけた」

「……きゅふ」


 ふにゃりと笑った。目を真っ赤に腫らして笑った。

 ふたりの耳には、インディゴブルーのピアスが、ちりちりと揺れている。

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