第3話

「はいどうも、悪魔ですよ」


 パッと手を広げた悪魔は、先ほどの神父クラウスと同じ笑顔でにへら、と笑った。

 完全に腰を抜かしたネリネはその場に座り込む。だが我に返ると、祈りの際に使うリング状の神具を荷物の中から引っ張り出し振りかざした。


「よ、寄るな悪魔め! 今すぐここから出ていけ!」

「うーん、予想はしていたけど傷つくなぁ」


 悪魔は困ったような表情で頬を掻く。やけに人間くさい仕草だったが、ちらりと覗いた耳は鋭く尖っていてネリネは息を呑んだ。もつれそうになる舌をなんとか動かし、教会のマニュアルを思い出す。彼らが出現しそうな場所は極力避け――ここは教会のはずなのだが――とにかく、出遭ってしまった場合は!


「大人しく従わない場合、即刻本部に通達し悪魔祓いを呼ぶ!」

「あぁ、来るだろうね、そして君も尋問される」

「ひっ!?」


 通常の職員なら通報した後で手厚く保護されるだろう。だがネリネの場合は置かれた状況がまずかった。なにせ、つい先日追放されたばかりで、しかもジルを呪い殺すため“悪魔と契約した”とまで、一部では囁かれていたのだから。

 その本人から悪魔を見つけたなどと通報があったら本部が何を思うか。恐ろしくて想像もしたくなかった。


「心配しなくても、君に危害を加えるつもりはないよ」


 見る間に青ざめていくシスターに、悪魔は安心させるように微笑む。祭壇から降りてきた彼を恐れ、ネリネは尻もちをついたまま後ずさった。震える手で神具を構えながら問いかける。


「ほ、本物の神父は、クラウス様はどこに……?」

「残念だが私が本物のクラウスで、二年前に本部で学も修め皆伝を受けている。何なら聖典でもそらんじてみせようか?」


 もしそれが本当ならば、高位な司祭の誰もが気づかなかったということになる。眩暈を感じてネリネはうめき声を上げた。

 どうして神はこの不届き者に天罰を与えて下さらないのか、なぜ神聖な場にのさばっている悪魔に鉄槌を落として下さらないのか。

 そんな想いがありありと顔に出ていたのだろう。さらに距離を詰めたクラウスは怯える子羊の手から神具をひょいと取り上げた。不敬にもそれを口元に当て深紅の目を細める。


「たとえ悪魔でも信仰する者なら神は赦して下さるようだ。私が教会ここに存在していられることが何よりの証拠だと思わないかい?」


 思わないし、思えない。都の災難からようやく逃げてきたはずなのに、何かとんでもない事に巻き込まれかけている気がする。

 ネリネは瞬き一つできず固まる。その腕を掴み、ひょいと立たせた悪魔は人の姿に戻っていた。


「さぁ、これから君が生活していく村を案内しよう」


 ***


 ゆるゆるとした雰囲気の神父は通りを歩いていく。数歩後ろを付いていくネリネは触れられた腕をさすりながら祈りの文言を凄まじい勢いで呟いていた。


(どうして悪魔がこんなところに、数週間前に赴任してきたというけど、何が目的?)


 先ほど彼は、自分を幸せにするためにやってきたと言った。だが待って欲しい。この場合の幸せと言うのは果たして人間基準なのだろうか? “悪魔的な”幸せではないだろうか。たとえばそう、蹴落とされた元聖女を利用して何か企んでいるとか……。

 そんな事を考えながら後を付いていくと、パン屋の軒先からおかみが出てきた。ふくよかな身体を揺らした彼女はいきなり神父の肩をバシッと叩いた。あっ、と声を上げそうになるが、二人は和やかに会話を始める。


「おはよう神父サマ! ちょいと焦げちまったパンがあるんだけど持ってくかい?」

「いつもありがとう、頂きます」

「こっちこそ悪いね、こんな余り物を捧げちまってさ」


 おかみはここでようやくネリネの存在に気づいたのか、おやと怪訝そうな視線を向けてくる。言葉に詰まっていると、クラウスがすかさず紹介をしてくれた。


「彼女はネリネ。今日から私の補佐をしてくれることになった教会付きのシスターです」

「あ、あぁ、そうなのかい……それはまぁ、よろしく」

「あ……あの…………はい」


 蚊の鳴くような小さな声しか返せない。なぜならおかみの遠慮のない視線が全身に突き刺さるのを感じていたからだ。恐らく彼女の頭の中では、先日、聖女候補を降ろされた『コルネリア』と目の前の女の特徴を照らし合わせているはずだ。


「とても信心深く、清らかな心の持ち主です。悪い娘ではないので良くしてやって下さいね」


 神父からの言葉に顔が歪みそうになる。フォローはありがたいが、なぜに悪魔から「悪い娘ではない」と言われなければならないのか。微妙な心境が表情筋をピクピクと痙攣させているのが分かる。


 紙袋いっぱいにパンを受け取った神父は店から出る。その途端、通りに居た子供たちが近寄ってきて嬉しそうに彼を取り囲んだ。


「神父さまー」

「おや、おはようございます」


 クラウスは一人の頭にポンと手を置いた。それを後ろで見張っていたネリネはヒッと息を呑む。


「今度の日曜はどんなお話ししてくれるの?」

「お姫様が出てくるのがいいな」

「えーっ、ドラゴンか悪魔をやっつけるのがいいよ!」

「探しておきましょう」


 悪魔が……悪魔が子供の頭を撫でている。あまりにも不吉な光景に固唾を呑んで見守るしかできない。


 結局、その後も似たような交流が続いた。どうやらこの悪魔は実に上手くこの村に溶け込んでいるらしい。猫かぶりならぬ人かぶりである。


「あ、あなたは一体なにが目的なんですか!」

「目的?」


 教会に戻り、周囲に誰も居なくなったところでたまらず問いかける。クラウスは人畜無害そうな顔で振り返った。ネリネはその顔面めがけて指を突き立てる。


「とぼけた顔で人々の生活に潜り込み、悪い事をそそのかすつもりなんでしょう!」

「いいや、私は神の教えを説いているだけだよ」

「悪魔が!?」

「悪魔だけど」


 あくまでもその主張を押し通す気らしい。パクパクと口を開き次の言葉を探していると、クラウスは魔物らしからぬ気遣いをみせてくれた。


「長旅で疲れただろう、仕事は明日からで良いから今日はゆっくり休みなさい」


 ***


 この教会は礼拝堂の奥に居住区があり、ネリネは向かって右奥の一室を割り当てられた。

 決して広くはないが、清潔で住みよさそうな部屋だ。鍵もついている。正面には木扉の窓がありベッドが横向きに配置されていた。

 ふらふらとそこまで歩いて行ったネリネは、荷物を解くこともせず顔面から倒れ込んだ。頭を抱え込んでうめき声を漏らす。


(ありえない、ありえない、どうしよう……)


 どうして自分ばかりこんな目に遭わなくてはいけないのか。ただ平穏に生きたいだけなのに。

 そこでハッとした彼女は、床に放置していたトランクの中から様々なアイテムを取り出し始めた。

 霊験あらたかな聖水を部屋中に振り撒き、神聖文字の記された平紐を張り巡らし、トドメとばかりに聖書と神具を抱えこみベッドの上に陣取る。

 さぁどこからでも来いと身構えていたが、木窓の隙間から差し込む光がオレンジ色になり始めても何かが来るということは無かった。


(初日は油断させるつもりなの?)


 警戒を解かず、荷物の中から一冊のノートを取り出す。日記用にと持ってきたそれを広げると、ある計画を立てた。


(仕方ない、危害を加えて来る様子は無さそうだし、しばらくは監視しよう。奴の目的や、何か怪しいところがあれば立ちどころに書きとめておくこと)


 それならば証拠を集めたとして教会本部から信用して貰えるかもしれない。いわば密告ノートである。まずは、あの祭壇で見た特徴からメモしようとした瞬間、ノックの音が室内に響いた。続けて柔らかい声が扉の向こうから聞こえてくる。


「ネリネ? 夕飯の準備ができたよ、食堂においで」

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