第1夜

 ある暑い、夏の夜だった。

 檀家の者が亡くなったので、和尚は法事に行くことになった。


「和尚さま、行ってらっしゃい」

 声変わりもしていない高い声。芳一は出かける和尚を戸口まで送り、笑顔で言った。心が温まるかわいらしい笑顔だった。

「留守を頼むよ」

 和尚もつられて笑顔で言う。芳一にその顔は見えなかったが、和尚の声が優しかったのでほっとした。けれど、和尚にとっても親しかった者が亡くなったので覇気がない。

 和尚を心配して芳一の表情も曇る。

「優しい子だね」

 それに気づいた和尚はそう言って芳一の頭をなでた。どうして和尚がそう言ったのか芳一はわからなかったが、和尚の声と触れる手に嬉しくなった。


 遠ざかっていく和尚の足音を聞き、

(和尚さまがお留守のうちに、昨日教わった『壇ノ浦の段』を練習して、上手になった平曲を聞かせて元気になってもらおう)と芳一は思った。芳一が上手になると和尚が喜んでいたからだ。


 芳一は寺の中なら自由に動くことができた。戸締りをして自室に向かい、あまりにも暑い夜だったので庭が見える縁側で風に吹かれながら琵琶を弾くことにした。

 明かりのない暗い部屋。風に当たり、涼みながらきちんと正座をして平曲を奏でる。


 平曲は大昔の小難しい物語で、芳一は自分が何を言っているのかはわからなかった。時間のあるときに和尚が教えてくれる平曲を、芳一は繰り返し繰り返し練習し、とても長いが膨大な量の詞も覚えて語ることができるようにもなった。和尚は「上手だね」と言ってくれる。芳一の歳でそれができるのはすごいことだった。


 けれど、芳一はそれではいけないような気がした。

(今の歳ならこれでいいけど、もっと歳を取ったらダメだ)

 阿弥陀寺を訪れた人も喜んでくれた。小難しい平曲が、芳一が語ると「かわいらしくなる」と大評判だった。しかし、小さくてかわいらしい声が歳を重ねると低くなり、高齢になるとしわがれていく。『かわいらしい』で稼ぐには年齢制限がある。

(年を取っても稼いでいくには、もっともっと上手にならなければ。琵琶法師として生計を立てるには『上手』ではダメ。『もんのすんっごい上手』じゃないと……)

 芳一は常日頃からそう思って練習をしていた。


(それに、今回は上手にできたとしても和尚さまの気持ちは晴れないかもしれない。ボクが平曲を弾いたところで、何も変わらない。けど、今のボクができる最高の平曲を和尚さまに聴いてもらいたい)

 何度も何度も同じところを繰り返し弾き、以前よりもなめらかに奏でられるようになった気がした。

(和尚さまが喜んでくれるといいな)

 芳一はいつも優しい和尚が喜んでくれるようにと祈りながら弾いていた。


(でも、前に和尚さまと聴いたすごい琵琶法師の平曲って、なんかもっとすごかった)

 芳一の向学のためにと評判の琵琶法師が寺まで来て語ったことがあった。年は芳一よりもずっと上で、しわがれた声なのに迫力はすごかった。

 和尚はその平曲が終わった時、その琵琶法師に多くの金子きんすを渡していた。金額はわからなかったけれど、琵琶法師の声の感じから芳一はかなり渡していると思った。和尚もその琵琶法師の平曲を聴いて満足しているようだった。

 そのレベルになるにはどうしたらいいのか、芳一にはわからなかった。


(ボクの平曲があの平曲と全然違うことはわかる……)

 びぃいんと琵琶を鳴らす。

(なんか音、軽い気がする)

 暗い夜の空気に広がっていく音を感じるように芳一は空を見上げる。

(ボクの腕のせいか琵琶のせいなのか……)

 しかし和尚が芳一のために用意した琵琶が悪いはずがない。自分の腕のせいだと芳一は思った。


 しばらく弾いていたが、飽きてきたのか芳一は琵琶を置き、縁側に足を投げ出して座ると夜風に吹かれた。

(和尚さま、まだ帰って来ないのかな?)

 いつもならとっくに戻ってもいい頃だった。和尚が帰ってくるまで練習をしていようと思っていたら、真夜中も過ぎてしまっていた。

(きっと、檀家さんとのお話が尽きないんだろう)

 和尚はいろいろな知識を持っていて、誰もが和尚の話を聞きたがる。それに、和尚は他人の言葉を遮らないので、良く話す人とは話が終わらなくなる。

(もう真夜中かな……。今日はお帰りにならないかもしれない)

 そういうこともよくあった。

(ひとりは淋しいかも……)

 芳一は風に吹かれながら思った。


(昼間の暑さが嘘のように気持ちいい風が吹いているな)

 しかし、気持ちがいいと言うには冷たすぎる風だった。冷たい冷たい、この世の風とは思えない、冷たい風。

(やっぱり夜の風はいいなあ)

 芳一は大らかな性格をしていた。

 空気がピリピリしているというのに、芳一は気にせず、置いていた琵琶に触れる。

(繰り返し練習するしかないんだろうけど、誰か教えてくれる人はいないんだろうか。ボクがもんのすんごく上手になるために、とってもすごい師匠がいてくれたらいいのに)

 芳一はそんなことを思いながら弦を指ではじいた。


 びいんと小さな音が鳴る。

 音がいつもと違う気がした。


(あれ?)

 それまでは気づかなかったが、近くに何かの気配があった。

 幼く、無邪気な感じの小さな小さな気配だった。

「誰かいるの?」

 芳一は気配のする庭の方へと声をかけた。


「おぬし、われが見えるのかや?」

 優雅なおっとりとした話し方だった。

 暗闇から声がした。夜よりも濃い闇の中から、芳一よりも幼い声。幼いけれど凛としていた。

 ただ、その言葉は芳一がたまに聞かれることだった。


「ボクは目が見えません。だからその気配を感じるだけです」

 芳一は警戒せずにいつも通りの言葉をいつもよりも丁寧に言う。声の主からはそうするだけの品があった。

「ふむ。だから忌々しい明かりがないのだな」

 そう言って、軽い足音がして、芳一の隣に座る気配を感じた。

 戸締りはした。寺の敷地内にあるのは墓くらいである。でも、小さな子供なら穴を見つけて入り込んでしまうこともあるかもしれない。このような真夜中に子供がひとりで出歩いているのは危ないが、何か理由があるに違いない。


「明かりが嫌いなのですか?」

 芳一は丁寧に聞く。

「嫌いではないが、眩しいのは好まぬ」

 かわいらしい声なのに威張っていた。ふつうの子供の感じがしなかったので、寺の客かもしれない。阿弥陀寺は由緒正しい寺だった。芳一が知らないことはいくらでもある。

「あの、あなたは誰ですか?」

 芳一は他の人間に聞くのと同じように尋ねた。

「吾を恐れぬのかや?」

 逆に聞き返された。

「怖いのですか?」

 小さな気配から恐怖は感じなかった。

「いいや。供の者は可愛い可愛いと吾を大絶賛する」

 そう言いながらもふてくされたような声が聞こえてくる。その様子が芳一には微笑ましく思えた。

「ならばきっとお可愛いのでしょうね。そのお姿が見られなくて残念です」

 ニコニコと芳一は言った。

 芳一の答えに気を良くしたのか、隣の気配がゆらゆらと揺れる。芳一には小さな子供が縁側に座って足をブラブラさせて体を揺すっているように思えた。


「寺の中を散策していたら、平曲が聞こえてきたので来てみたのだ」

 気を許したのか、子供が少し近寄ってくる。

「それはすみませんでした」

「なぜ謝る?」

「ボクは上手に弾けないので、お耳汚ししてしまいます」


「たしかに、たどたどしい平曲であった」

 素直な感想に芳一は少なからず傷ついた。

「だが、吾は嫌いではない。皆は下手だと言うかもしれぬが、素直ないい平曲である」

 思ってもいない褒め言葉だった。


「流行り廃りというものがあるのやもしれぬが、誰もが流行りを追って誰もが同じになってしまったら飽きてしまう。その点、おぬしの平曲は個性があって悪くない」

「では、このままでも良いのですか?」

「良くはない」

 あっさり言われた。


「満足して止まってしまったらダメじゃ。努力あるのみ。鍛錬を怠るでない」

「はい」

 自分よりも幼そうな子供に言われたのに、芳一は神妙に返事をした。

「奏でてみよ」

「え?」

「吾を満足させるように奏でてみよ。聞いてやろう」

「はい!」.

 芳一は平曲を教えてもらえるかもしれないと琵琶を持つ。そして思いっきり打つ。


 びょよんん

 力を入れて弾いた音は外れてしまった。芳一が自分の失敗に固まっていると、クックックという楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

「すみません」

 芳一は恥ずかしくてしかたがなかった。

「先ほどは、どのような気持ちで弾いておったのじゃ?」

 芳一を元気づけようとするかのような、のびのびした幼子の声。

「和尚さんに元気になっていただきたいと思って弾いておりました」

「ならばそれを思い、弾いてみよ」

 しかし、隣にいるのは和尚ではない。芳一が固まっていると、

「吾を和尚と思うてみよ」

(全然違うけど……)

 和尚は穏やかな感じが漂っているが、隣にいる子供は元気いっぱいに偉そうな感じがした。芳一はそう思ったが、和尚を思い出しながら弾いてみた。いつも優しい和尚が元気になってくれるように、笑顔になってくれるようにと。

 だんだんと、いつものように弾けていた。


 ひと段落ついたところで、

「悪くない」と子供は言った。偉そうだが声は幼子だった。

「本当ですか?」

 芳一は嬉々として言う。

「ただ、なんで平曲なのだ? おぬしの雰囲気と曲が合っておらぬ」

 芳一はそんなことを言われると思っていなかった。

「ここは阿弥陀寺なので、平曲が好まれます」

 阿弥陀寺には平家の血を引く安徳天皇と平家の者たちの墓があり、ここで琵琶法師になるなら平曲を弾くのが素直な流れだった。

「そうか」

 子供は残念そうに言った。


「ところでおぬし、平家と源氏の合戦は知っておるか?」

「はい?」

 芳一は子供が何を言っているのかピンと来なかった。

「平曲を奏でるのであろう? その起源もとを知らぬのか?」

「ああ。えっと、源氏と平家ですね」

「平家と源氏であろうが」

 軽く訂正された。芳一にはどっちでもよかった。

「おぬしは壇ノ浦で平家が滅んでしまったと歌っておったのだぞ」

「はい?」

 和尚が教えてくれる言葉を耳で聴き、それを歌っていただけで、芳一は意味まで考えたことがなかった。

 無邪気な雰囲気だった子供から、怒ったような気配が伝わって来た。

 さすがに芳一も肝を冷やした。


「仕方がない。吾が知っていることを、教えてやろう」

 怒られると思っていたのに、その子供は平家の人たちがどんな様子だったかを語りだした。まさかそんなことになるとは思っていなかった芳一は神妙にそれを聞いた。


 子供の話が終わり、芳一は涙を流した。

「おぬしが泣くことはない」

 穏やかな幼子の声。年に合わない落ち着いた声だった。

「そうだとは思いますが止まりません」

 芳一の涙は後から後からあふれてくる。


「ボクはこの阿弥陀寺の近くの壇ノ浦で平家が滅んだことは知っていましたが、それがどういう意味か、わかっていませんでした」

 芳一の見えない目から、涙がとめどなくあふれてくる。芳一にもなぜ涙が出るのかわからなかった。平曲としてうっすらと聞いていたことが、その子供の言葉で心に直に響く感じだった。


「そうじゃの。その気持ちを、おぬしの平曲で表してみよ」

 居心地悪そうに、のらくらと子供は言う。

「はい?」

 鼻水をすすりながら芳一は聞き返す。

「その想いを、琵琶の音に乗せて、人々に伝えてみい」

 芳一は雷に打たれたような気持ちになった。

「はい!」

「いま一度、弾いて吾に聴かせ」

「はい!」

 芳一は琵琶で平曲を奏でた。


「各段に良くなった。おぬし、感性が良いようだ」

「ありがとうございます」

 芳一は師ができたと言わんばかりに頭を下げた。

「吾は6日ここに滞在する。明日も来るよって、上達した平曲を聴かせてたも」

「はい!」

 子供の足音が去っても、芳一は壇ノ浦の段を弾き続けた。   


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