グッドバイ、サマーデイズ
永多真澄
グッドバイ、サマーデイズ
「先輩、私を抱いてください!」
夕暮れ時、普段は施錠されているはずの屋上がなぜか開放されていて、教室から手を引かれるまま連行されてきた俺は、俺の手を引いてここまで連行した張本人、目の前でどんとこーい! と胸襟を開いている女子に対して困惑する以外になかった。
女子についてのあらましは知っている。沢崎
おまけに顔もよく、勉学も運動もそつなくこなすとなれば、羨望の的となるのは自明の理だった。それは同数程度のやっかみを生んだだろうが、持ち前のコミュニケーション能力で柔らかに鎮圧している。俺が伝え聞く限りでは、概ねそのような完璧女子であった。
そんな女子が何ゆえ、「私を抱け」などとのたまっているのか。また、それが何ゆえ自分にむけられているのか。それが皆目わからず、困惑している。
と言うよりも、狼狽えているといったほうが正確かもしれない。振り返れば生まれてこのかた十七年、悲しいかな微塵も女っ気のなかった人生だ。まさに降って湧いた好機である。
これは所謂「据え膳」というヤツで、捨てるべきものを捨てる機会は、これを逃せば訪れないかもしれない。いや、訪れない。そう身の内の本能が訴える。それは動物として正しい衝動であり、体の一部に血液が充填されるのは致し方ないことであった。
一方で、いやまて、こんな上手い話があるかと理性が叫ぶ。きっと何かしら、罠があるに違いないのだ。なにせ俺と沢崎夏遠は、これまで一切の節点が無い。俺の耳に沢崎夏遠の名が聞こえることはあっても、沢崎夏遠の耳に俺の名が聞こえることは、まずありえない。俺は優秀な生徒ではなかったし、かといって問題を起こすような不良でもなかった。顔も良いわけではない。
そうやって俺がそわそわとまごついているうちに、しびれを切らしたのは沢崎夏遠であった。
「なに遠慮してるんですか。男ならガバッと来なさいガバッと」
「明け透けだなあ君は!」
両手を広げて迫る沢崎夏遠に、ついに俺の口からも上ずった声が出た。
「あのねえ、俺と君は、もうほとんど今日が初対面だろ。それが急に抱けなんていわれたってさ、こっちにも心の準備が……」
「その点については謝罪します。こっちでやっておかなきゃいけないことが目白押しで、ひい、先輩に挨拶にすら伺えなかったのは、私の落ち度でした」
そういって沢崎夏遠は深々と頭を下げたものだから、俺はいっそうのこと狼狽した。そこまで真摯に謝罪されても困る。
沢崎夏遠は頭を上げて、ですが、と続けた。
「ですが、私がここに来たのは、ひとえに先輩に抱いていただくためですので! どうかご容赦ください。そんなわけで、さあ!」
ずい、と再び両手を開いた沢崎夏遠が迫る。ずり、と覚えず俺の足は後ずさる。
意味がわからない。
「意味がわからない」
「かもしれません。いや実際、意味わかんないですよね。でも、こればっかりは私も譲れませんので。失礼して!」
うわあ、と間抜けな悲鳴がこぼれた。無理も無い。沢崎夏遠の小柄ながら引き締まった体が、たじろぐ俺の胸に有無を言わさず飛び込んできたからだ。ふわりと香る少女特有の匂いに、俺は一瞬で思考停止に陥った。柔らかい腕が背に回されて、ぎゅっと力が込められる。その段になって我に返ったものの、思いのほか力強くホールドされているもので逃れることも出来なかった。衣服越しにも伝わる沢崎夏遠の軟らかさと体温に、そもそも逃れたいという思考が吹き飛んでしまっていたというのも、ある。
「ほら、先輩も」
俺の胸に顔をうずめた沢崎夏遠の呟きは、微かな吐息の振動でもって背骨を振るわせる。それは、もはや魔法だった。自分の両手が動いて、沢崎夏遠を抱きしめ返すという動作は、まるで自分の意思に沿わず行われたからだ。密着度が更に高まって、俺の喉もまた意図せず鳴った。
「先輩……」
沢崎夏遠が見上げる視線と、俺の視線が絡む。至近距離で観察すると、なるほどそれは美少女だった。
「先輩、「よく来たな」って、言ってもらって良いですか?」
「は?」
「いいですから」
沢崎夏遠の願いは、このシチュエーションに合致するものとは到底思えないものだった。しかし、それは心底からの願いに思えて、俺はところどころつっかえながらも請われた台詞を言った。
「頭、撫でてもらって良いですか」
続いての要求にも、俺は諾々と従った。背に回していた手を外して、それを沢崎夏遠の後頭部に添える。二度三度、壊れ物を扱うように撫で摩ると、沢崎夏遠は盛大に破顔して、「ばあちゃんのいってた通りだ」と小さく呟いた。
そのまま抱きしめ、頭を撫で続けた時間は僅か数十秒だったのだろうが、それは随分と長い時間だったようにも感じられた。不意に俺の背から、沢崎夏遠の感触が消える。抱合が解かれたのだというのは、すぐにわかった。
「ありがとうございました、先輩。私の我侭に付き合ってくれて」
沢崎夏遠はそういって、照れくさそうにはにかんだ。対する俺は、「お、おう」などと、気の効いた返事ひとつできやしない。
「それじゃ、私、もう行きますね。この2ヶ月間、私忘れません。最後に先輩に抱いてもらえて、良かった」
もう行くのか、という気持ちと、あ、抱くってそういう意味だったのね、という気持ちが絡まっている間に、沢崎夏遠は既に屋上の出入口まで歩を進めていた。
「ばあちゃんを大事にしてくださいね!」
扉の向こうに消える間際、沢崎夏遠はそういって、名残惜しげに手を振った。振り帰す間もなく、その姿は影に溶ける様に消えている。季節はそろそろ秋に差し掛かろうとしていて、夕日が長い影を作る屋上には驚くほど底冷えする寒風が吹いた。
その日以降、沢崎夏遠との再会はついぞ叶わなかった。
///
――下校時間を知らせる遠い日の歌が、いつまでも耳の奥で
///
ざあ、ざあ、ざあ。さざ波のような音が、窓の外から聞こえてきた。
白波が砂浜を削る音ではない、と思う。だってここは丘のずいぶん高いところにあるし、夏にはまだ遠い季節だから。
うまく像を結ばない目を凝らせば、窓の外を薄紅の花弁がはらはらと舞っていて、ああ、春風が揺らした枝葉の音だと気づくに至る。
そうしてしばしぼぅっとしてから、ああ、懐かしい夢を見ていたのだということに思い至った。
今まですっかり忘れていたようなことが、やがて70年は前の遠い日の記憶が、ずいぶんと鮮明に思い出されていることが可笑しかった。まるで走馬灯だ。
……いや、実際そうであったのかも。枯れ枝のように萎びて,もう満足に動かすこともままならない両の腕や、寝返りすら人の手を借りねばならないほど衰えた己が身を思えば、それはあまり的外れとも言えない。
「目が覚めましたか」
ずいぶん長い事眠りこけていたのだろう。病床の脇の方から聞こえた知らない声には、些かの安堵が含まれていた。首を動かすことも億劫で、目線だけそちらに向けると、そこには知らない顔があった。
「沢崎春樹です」
その男はこちらの機微を読み取ったようで、柔和な笑みを浮かべながら噛んで含めるように名乗った。
ちらりと――理由はわからないが――先ほどの夢が反芻する。その笑みにはどこか覚えがあるような気がしたものの、それが何なのかはわからずじまいで、じきに忘却の淵に落ちる。
それでも、その名前は知っていた。
「ああ、安芸の」
「ええ、ご無沙汰をしていました。結婚式以来になりますね」
春樹は義理の孫にあたる。孫を嫁に娶った、沢崎重工の御曹司である。はずだ。おそらく。
「すまないね。どうにも最近は、覚えが悪くてね。安芸は息災かい?」
「今日でちょうど8か月になります。母子ともに健康だと」
「そうか。……予定日には、間に合いそうもないな」
近年目覚ましい進歩を遂げた医療技術は万病を退けることこそかなわなかったが、それでも命の終わりについては、ずいぶんと正確に計れるようになった。もやがかかったように朧げな記憶力でも、自分の死期くらいは覚えている。それが示すに、どうやら夏の盛りに生まれてくる予定のひ孫とは、会えずじまいであろうこともわかっていた。
「お義祖父さん、今日はお願いがあってまいりました」
春樹もまた、気休めは言わない。それは本当に気休めでしかないからだ。だから彼はゆっくりと、間違えようもないほど確かに本題を切り出した。
「娘の名前を、お義祖父さんに決めてもらいたいんです。これは、安芸ともよく話してそう決めたことです」
「名前か……」
孫夫婦の心遣いが染み入る。せめて名前だけでもと、それが彼らにできる最大級の贐なのだということは、耄碌した脳味噌でもまだ理解ができた。
「かのん」
不意に、本当に覚えずその名が口から洩れる。そして同時に、どうにもすっきりした。その理由はわからない。
「遠い夏と書いて、夏遠というのはどうかな」
「それは、良い響きですね」
「遠い日の夢を見たんだ。縁だと思った」
「夢ですか」
「ずっと昔の夢さ。ずっと……」
薄らぼんやりとしたもやが、急に視界を覆い隠し始めた。抗いようのない眠気が、急激に意識を奪っていく。春樹の顔に一瞬焦りが見えたが、そぐに気を取り直したようだった。
「まだ死なんさ。つぎは安芸ときなさい……」
自身の喉から、か細いつぶやきが押し出された。果たして春樹に聞き取れたかは知らない。
……しかし、ひ孫の名に昔一度だけすれ違っただけの女の名をつけたとなれば、もうすぐに会うだろう妻にどやされるかもしれないな――。
そうして揺蕩う波間に溶けるように、私は眠りに落ちた。
グッドバイ、サマーデイズ 永多真澄 @NAT_OSDAN
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