第三話 黒いイヤホン
物心ついた時から音のない世界にいる少女は、イヤホンをしたら音が聞こえると思ったらしかった。勇気を出して補聴器を外して、新品のイヤホンを耳に差し込み、音楽プレーヤーの再生ボタンを押す。きっと私の知らない、素敵な音があるはず。そんな高揚感をぶった斬った現実。奏は目の前の緑色のひらがなと嗚咽する小さな彼女を、どうやって包んでやれただろうか。
奏はあまりコミュニケーションが得意な方ではない。彼女にかける優しい言葉を探そうとスマホを開くが、慣れないことは急にはできなかった。自分に呆れながら、仕方なく無難なことを書く。
『そのイヤホンは、ママにかってもらったの?』
少女は段々と落ち着いてきたのか、先ほどよりも少しだけ濃く、緑色を走らせた。
『おこずかいを、ためて、じぶんで、かいました』
奏は苦い顔を彼女に見せないように必死だった。こんなに小さな子が、音が聞こえるとまっすぐに信じてお小遣いをコツコツと貯め、期待を胸にイヤホンを買った。ママのいない時に、一人でじっくり音を楽しもうとしたのだろうか。独りで音のある世界を探そうとしたのだろうか。純粋に世界を信じて疑わなかったこの少女が傷つかなければいけない理由なんて、奏には思いつかなかった。鼻の奥がツンとした。
『そのイヤホンは、いくらだったの?』
『わすれちゃったけど、1200えんくらいです』
少女にとっては大金なのだけど、もちろん金額だけの問題ではなかった。小さな彼女が独りで背負うには、あまりに重い現実だった。奏はそれ以上何も言わずカチューシャの彼女に少しだけ近付いて、背中に手を当てた。薄い背中は丸くなり、まだ震えていた。
休憩時間が残り20分を切った頃。病棟のガラス戸が開き、ワンピースの上からでもわかる膨らんだお腹を抱えた女性が中庭に出てきた。彼女の母親だ。カチューシャの彼女を見つけると、その隣には知らない男が座っていて、小さな娘は泣いている。母親が目を見開き、早足でこちらに近付いてきた。奏は、側から見ると不審者のようだった自分に気付く。近付いてきた母親になんと言おうか考えながら、少女の背中からそっと手を離し、立ち上がった。
「あの、うちのかなえが何か……?」
少し息が上がったお母さんが、不安そうな目で奏の顔を一瞥し、かなえと呼ばれた彼女を見る。開いたままのスケッチブックと、くしゃくしゃになったイヤホンが目に入っただろう。
「驚かせてしまってすみません。僕ここのコンビニでバイトしてます、柳澤といいます。いつも金曜に来てくださるので、この子も、お母さんのことも知っています。昼休みにここに来たら、彼女が泣いていたので声をかけてしまいました」
お母さんは眉を上げ、ああ、という顔をした。どこかで見覚えのあった奏の顔を見て、コンビニの店員だということを思い出したのだろう。
「この子、耳が聞こえないんです。筆談で話しかけてくださったんですね。このイヤホンは……?」
「お小遣いを貯めて、自分で買ったそうです」
奏は俯く彼女の顔色を伺いながらスケッチブックを拾い上げ、緑色の文字を彼女の母親に見せた。小さな少女は母親が来たことには気付いていたようだったが、自分の靴を凝視して動かなかった。
「イヤホンで音が聞こえるようになると思ったのね……。馬鹿ねぇ、高かっただろうに」
母親は小さな彼女と同じように眉毛を下げ、それでも口元は不自然に笑おうとしていた。少し、鼻先が赤かった。
「この子ね、生まれてすぐの頃に原因不明の高熱が続いたの。ずっと入院してなんとか命だけは助かったんだけど、後遺症で耳が聞こえなくなったのよ。物心ついた時からこうなの」
「そうだったんですね。ヘルプマークを見せていただいて、耳が不自由なことは知っていました」
二人の大人がベンチの前に立ち、カチューシャの彼女は座っている。小さな背中をもっと小さくして、これから叱られることを恐れているかのようだった。
「このイヤホン、もし使わなければ僕が買い取ってもいいですか。記念に持っておきたいならアレですけど」
「えっ」
お母さんは予想外といった顔をして、縮こまった彼女をちらりと見る。もちろん彼女には僕の提案は届いていない。
「僕ちょうどイヤホンが壊れちゃって、買い替えるところだったんです。かなえちゃんもお小遣いをためて大金を払ったわけですし、捨てちゃうくらいなら僕が買い取ります。お菓子でもジュースでも、好きなものを買えるように」
もちろん、イヤホンが壊れたなんて嘘だった。ワイヤレスイヤホンを愛用している奏は、有線のイヤホンを別に欲しいとは思わなかった。でもこのイヤホンが少女の元に残ることは、誰にとってもつらいことのように思えた。
母親はうずくまる彼女の足元にしゃがみ込み、肩を叩いて、手話で何か話しかける。彼女は僕の靴をチラリと見て、小さく頷いた。母親は少しだけ寂しそうな顔をして彼女の顔を覗き込んでいたが、いずれすっと立ち上がった。もう母親の顔に悲しみの色はなく、優しく力強い笑顔になっていた。
「やっぱりイヤホンはもう要らないって言ってます。多分コンビニかどこかで買ったものでしょうし、この子が一回使ったものですけど、それでもよろしければ差し上げます」
「ありがとうございます。買い取ります、新品ですから」
スマホの画面に文字を打ち込み、財布から2000円を取り出して小さく折り込む。彼女の小さな手でも握れるように。
『かなえちゃん。このイヤホン、ぼくがもらってもいいかな? おかねは、すきなことにつかってね』
薄紫のカチューシャが縦に動いたことを確認したら、力なく膝の上で濡れた小さな手を取り、4つ折りにした千円札を2枚握らせる。
「あの……柳澤さん。本当にありがとうございます、うちの子が……すみません」
バツが悪そうに頭を下げるお母さんを見て、奏は慌てて立ち上がった。
「いえ、謝らないでください。こちらこそ、お節介ですみませんでした。あ……あの、僕そろそろ戻らないといけないので」
昼休みの残り時間は3分になっていた。イヤホンを拾い上げて走り出そうとしたとき、ふと思い立った。
「お母さん、『ありがとう』の手話ってどうやるんですか」
母親はほんの少し目を開いて、やがて白い歯を見せた。左手を胸の前に水平に置き、右手は垂直に左手の甲に添える。そして右手を下から上へ。2回ほど練習して、彼女の母親が満足そうに頷いたので、奏は再びベンチの前にしゃがむ。
小さな彼女の肩を優しく2回叩くと、少女は少しだけ顔を上げ、奏と目が合う。顔の横でイヤホンをぶらつかせ、ありがとうの手話を、ゆっくりと。奏の顔は先ほどまでのこわばったものではなかった。
少女の目は赤かった。袖で擦られた鼻も赤くなっていた。下から上に動いた右手と、奏の目を見つめる。少女の頬の筋肉が、少しだけ緩んだように見えた。
少女はしっかりと奏の目を見て、奏がしたものと同じ手話をした。
その日の午後のシフトに、奏は2分ほど遅刻した。帰りはいつもはバスを使うが、今日はなんとなく歩きたい気分だった。かなえちゃんからもらった黒いイヤホンをスマホに差し込み、ピアノの音を聴く。途中から奏は、音量をゼロにして歩いた。
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