第二話 緑色の絶望

 あれから1ヶ月近く経った。相変わらずいつも決まった時間にくる患者さんや看護師さんたち。耳の不自由な少女は母親と手を繋いで金曜日に来ていたが、中庭で見かけることはあれ以来なかった。寒くなってきたので、どこか他のところで絵を描いているんだろう。


 県北の方では雪が降ったらしい。その週はずっと冷え込んだが、今日は珍しく快晴で風もなく、少し暖かく感じられた。寒がりの奏がマフラーをせずに家を出たくらいには暖かかった。


 朝から昼までレジを打ち、品出しをし、12時半から1時間の休憩。いつも通りの金曜日だった。休憩時間に入るとエプロンを外し、菓子パンとペットボトルの抹茶オレを買って廊下に出る。今日は暖かいからか、換気のために廊下の窓が開けられていた。南向きの高い窓からは陽の光がいっぱいに差し込み、光の下のベンチは心地よく温まっていた。ベンチに腰を下ろし、無意識にスマホの電源を入れる。友人から一件、飲み会の誘いの連絡が来ていた。アプリで管理しているスケジュールを確認し、行く、と返信を送る。

 抹茶オレのキャップを捻りながら、正面の中庭を眺める。芝生が陽の光を反射して眩しかった。天気がいいので、心なしか中庭に人が多い気がする。いつも空いている中庭のベンチも、今日はほとんどが埋まっていた。病院着を着た入院患者もちらほら見受けられる。いつも同じ風景、同じ空気の病室に閉じ込められていたら治るものも治らないのでは、と奏は思う。右に出るものがいないほどインドア派の奏でも、今日みたいな日は病室を出て中庭を散歩したくなる気持ちはわかる。奏はペットボトルで手を温めながら抹茶オレを口に運び、中庭から差し込む光に目を細めた。


 ――その時。抹茶オレのキャップを閉める奏の手が止まった。

 メガネをくっと上げて目を細め、中庭の向かって右側、奥の方のベンチを凝視する。メガネが合っていないせいか確信までに時間がかかったが、おそらくあのベンチでうずくまっているのは、いつも手を繋いでくるあの子だ。でも、今度は絵を描いているわけじゃない。顔を手で覆い、背中を丸めていた。彼女の保護者どころか、そのベンチを気にする人は周りに誰もいないように見えた。もう抹茶オレどころではない。奏は中庭に飛び出した。


 中庭の奥のベンチに向かって走りながら奏は、なんと声をかけようか考えた。しかし途中で気付く。あの子に僕の声は届かないのだ。以前中庭でお母さんと話していたのを見た時のことを思い出す。彼女の母親は、彼女の肩を叩いて呼んでいた。肩を叩き、スマホの画面を見せよう。7秒間の疾走中に奏は答えを出した。


 ベンチから少し離れたところで足を止め、スマホに文字を打ち込んだ。画面を見せる準備をしてから、驚かさないようにベンチの正面に周り、近づく。今度はいくら近付いても、縮こまった少女が顔を上げることは無かった。肩を叩くと、少女は泣き顔を見せられないとでも言うように、ゆっくりと僕の腰の辺りまで目線を上げ、そのまま固まってしまった。


『こんにちは。どうしてないているの? どこかいたいの?』


 少女はスマホの画面をしばらく見つめた後、やっと奏の腹のあたりまで視線を上げた。大粒の涙をぼろぼろと落としながら下唇を噛み、小刻みに首を横に振る。目は充血し、鼻や眉までも赤く泣き腫らしていた。ベンチにはいつものスケッチブックと色鉛筆があるが、閉じたままだった。今日は絵を描いていないらしい。その代わりに、見慣れないものが落ちていた。くしゃくしゃに丸められてコードが絡まってしまった黒いイヤホンと、古い型の小さな音楽プレーヤー。イヤホンは病院の売店でも売っているようなシンプルなものだった。近くにプラスチックのパッケージと説明書が落ちていたので、おそらく新品だろう。少女の耳には、何もついていない。ピンク色の補聴器が二つ、これもベンチの上に投げ出されていた。


『だいじょうぶ? どうしてないているの?』


 今思うと、泣いている少女を責め立てているようだった。心配だったとはいえ、言葉で答えられない彼女に矢継ぎ早に質問してしまったことを後悔する。奏は彼女の隣に座り、少し落ち着くのを待った。


 しばらくして少女の嗚咽がおさまってくると、彼女は相変わらず下を向いたまま奏の膝の辺りをちらりと見て、スケッチブックを開いた。緑色の色鉛筆で、ゆっくりとひらがなを書いていく。前に書いてくれた字より薄く、弱々しい文字だった。雫が数滴落ちたスケッチブックのページを、奏に差し出す。


『イヤホンをしたら、音が、きこえるとおもった』



 奏はへなへなと書かれた緑色を見て、言葉を失ってしまった。袖で目を擦る小さな彼女にかけるための言葉は、奏の引き出しには無かった。

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