第3話 横澤康史郎、八十八歳の日々
「ありがとう、ここで降りるわ」
シートベルトを外す
「迎えは午後四時でいいかな」
「そうね、もし予定が変わったら電話するわ」
梨里子はバンのドアを開けた。
路地の奥にある二階建ての家が
「梨里子さん、暑い中ご苦労だったな」
「横澤さんこそ、今日はよろしくお願いします」
一礼する梨里子を見た
「マスクも付けたからもう大丈夫だ。上がってくれ」
横澤家の居間に通された梨里子は、布団を外したこたつテーブルの前に案内された。幸いクーラーも効いていて居心地はいい。
「昨日ヘルパーさんに手伝ってもらって片付けたんだ。何せ久しぶりの客だからね。麦茶持ってくるからそこの座布団に座っててくれ」
「飲み物は持ってきてますから大丈夫ですよ」
梨里子は耳が遠い康史郎に配慮して少し大きめの声で答えた。
「いや、わしが飲みたいんだ」
康史郎は台所に入っていった。梨里子は周りを見回す。梨里子の左隣には座椅子が置かれており、向かいの壁には液晶テレビとビデオデッキのラック、テーブルの上には老眼鏡と補聴器、リモコン入れが置かれている。きっとここが康史郎の指定席なのだろう。居間と反対側のふすまが半開きになっており、中には仏壇とベッドが置かれているのが見えた。
麦茶とグラスを持って戻ってきた康史郎に、梨里子は和菓子屋の紙袋を差し出した。
「母からです。
「ありがとう。この暑さは本当にこたえるな。昔とは大違いだ、って言うと八十八の老人の繰り言だと言われるだろうがな」
「実際そうですから、仕方ないですよ。ところで、今日私が来た理由、母から伺ってますか」
梨里子はバッグを取り出しながら尋ねる。
「マンガの資料集めで、征一の話を聞きたいんだってな。今度始まる夜中のドラマも『厩橋お祭り食堂』で予約しておいたら宣伝番組が勝手に入ってて、今見てた所だ」
康史郎は座椅子に腰掛けると眼鏡と補聴器を付け、ビデオをつけた。画面では登場人物紹介を兼ねてドラマの一場面が流れている。うまや橋食堂にメインキャラが集まっているシーンだ。『昭和三十年、ここは墨田川にかかる厩橋近くの食堂』とテロップが被さる。
「『
啓一がお茶をテーブルに配っている。お茶を
「『
「『
康司と並んで座る風子はむくれている。
「『
風子の向かいに座る快晴はテーブルを叩く。湯飲みからお茶がこぼれた。
「『
カウンターの向こうから征輔が一
「『
征輔の隣からタケが呼びかける。快晴は風呂敷包みを取り出した。
「『古林さくら 食堂の店員』すみません、お代は後で必ず払いますから」
深々と礼をするさくらに啓一は呼びかけた。
「いいんだよ、大橋さんたちはうちのお得意さんだし、後で建て替えとくよ。親父もそれでいいよね」
宣伝番組がCMに入ったので、康史郎はビデオを止めた。
「昭和三十年か。本当なら
康史郎は遠くを見るように目を細めた。
「すみません、折角横澤さんと奥様をモデルにしてもいいとおっしゃってくださったのに。でもキャバレーに勤めていらしたのは本当なんですよね」
「ああ。今となっては何も残ってないがな。ところで、征一の話はどこからすればいいんだ」
康史郎に
「実は、マンガが今度啓一とさくらの結婚式で『第一部完』になるんです。その後、『うまや橋食堂の誕生した頃の話をやらないか』って編集者に提案されまして。そこで昔のことを一番知っている横澤さんに話を聞きに来たんです」
「そうだな、あのドラマにいる人達のモデルで生き残ってるのはわしだけだし、好きなだけ聞いてくれ」
康史郎はグラスに注いだ麦茶に口を付けた。
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