【『探偵』たちと、ある殺人鬼】②

「……『探偵』?」

 黒瀧は上司にそう聞き返す。四年前、彼は捜査一課の刑事であった。

 時期は九月。上司である笹森警部補は黒瀧の言葉にこう返す。

「ああ。なんでも四家深弦のけんで、これから探偵集団の一人が新しく来るらしい。前に来た奴とは、いつの間にか連絡が取れなくなっただろう? 急で悪いが、お前の下につけることになった。色々手助けをするように」

「笹森警部補。俺もほかの仕事があるのですが……」

「黒瀧。これはもう決まったことだ。文句は言わせんぞ。それにお前は、ここにいるより外に出たほうがいい」

「……」

 笹森警部補が言う。黒瀧はあたりの人間たちを見回した。全員が、じっとりとした目でこちらを見ている。

「お前のやったことは正当せいとう防衛ぼうえいだと全員分かってるがな。ま、引きずるなよ」

 笹森警部補は黒瀧の肩を軽く叩く。先月に、黒瀧が収束させた事件のことを言っているのだ。

 その事件の概要がいようはこうである。

 その日、黒瀧は四家深弦の交友関係を洗っていた。とある家の聞き込みを終えた際、銀行強盗に入った男が逃走しているところに遭遇そうぐうした。黒瀧は急いで男を追いかけたのだが、男は隠し持っていた包丁を振り回して暴れ、黒瀧と近くの交番から駆け付けた警官一名、その場にいた一般人数名を切りつけた。腕を負傷した黒瀧はこれ以上の負傷者を増やさないため、支給されている銃を抜いて引き金を引いた。

 あたりは騒然そうぜんとしたものの、黒瀧の判断でその場は収まった。だが結果としては、黒瀧を含む負傷者四名と、被疑者ひぎしゃ死亡。首を切りつけられた警官は病院に運ばれたが、その後、生きて戻ってくることはなかった。

 正当防衛とはいえ一人の人間を殺した黒瀧はその日から、同僚から冷たい目で見られるようになった。

「もう決まったことだ。文句はないな」

 笹森警部補がもう一度言ってくる。

「……分かりました」

 刺すような同僚たちの視線を浴びながら、黒瀧は頷いた。


 同じ頃。この国の空港の滑走路には、一人の『探偵』が乗る飛行機が着陸ちゃくりくしていた。

『……日本に入ったな。言語げんごえろ』

「はい、お父様」

 右耳に当てたスマートフォンに日本語で返事をする。飛行機から出ると、一般用の荷物搬入口ではなく、その横に立っている空港職員のほうへと向かう。

『お前の役目は不具合を起こし、消息を絶った『探偵』の後任こうにんだ。この国の警察本部とは話をつけてある。まずはそこへ迎え』

「はい。お父様」

「お父様」と呼んだ相手は、何人もいる教育係のうちの一人だ。もちろん血も繋がっていないし相手の本名も知らない。それらのことに興味を持たないよう、自分たちには刷り込みがされている。

「お待ちしておりました。スカーレット様」

 職員から、あらかじめ預けていた自分の荷物を受け取る。世界中に散らばる探偵集団は、空港で止められないよう手を回されている。もちろんこの国も例外ではない。

 その『探偵』の荷物は、小さなボストンバッグ一つだけだ。中には替えの服と下着がいくつかと、必要最低限の金が入っている。『探偵』は空港の出口に向かう。

『前任の『探偵』が担当していたのは四家深弦という犯罪者だ。事件の資料は読んだな?』

「はい、お父様。全てに目を通しました」

『消息を絶った『探偵』はこの国へ入る前、爆発物を扱うテロリストを追っていた。『探偵』に爆弾魔はいらん。発見次第、不具合を起こした『探偵』は即刻そっこく処分しょぶんせよ』

「はい」

『お前の初仕事だ。健闘を祈る。忘れるな、お前は『探偵』だ』

 ぶつりと音声が途切れる。『探偵』はスマートフォンをポケットに仕舞った。

『探偵』は空港を出ると、客を待っていたタクシーに向けて軽く手を上げる。ドアを開けた一台に乗り込み、五十代ほどの運転手に行き先をげる。

「警視庁まで。最短距離で向かってください」

「はああ。ぼく、外人がいじんさんっぽいねえ。一人で飛行機乗ってきたの? えらいねえ」

 運転手は『探偵』を見るなりそんな声を上げた。

「ぼく、よかったら美味おいしいご飯屋はんやさん、教えてあげようか?」

不要ふようです。早く出してください」

「ああ……ご、ごめんよ……」

 運転手は気まずそうな顔で謝ると、急いで車を発進させた。


 警視庁に到着した『探偵』は、担当の刑事に挨拶をする。

「初めまして。前任の『探偵』に聞いていると思いますが、我々は『“探偵”スカーレット』という集団であり、個人名はありません。わたしのことは適当に呼んでください」

「……捜査一課の黒瀧です。あなたを助けるよう言われました。よろしくお願いします」

 服の袖をまくっている黒瀧も簡単にだが名乗る。

「前任の『探偵』の世話係だったのは、笹森警部補という方だと聞いていますが」

「笹森警部補はほかの仕事にあたっています」

「そうですか。

 到着が遅れたことについては謝罪します。とある国にいたのですが、内戦の影響で三か月ほど空港が使えなくなりまして。その国から出られなかったのです。それについては申し訳ありませんと、お父様から謝罪しろと言われています」

 そう言って軽く頭を下げる『探偵』を、黒瀧は改めて見る。

 長袖の白いシャツに、カーキ色をした吊りズボン。頭にはブラウンのキャスケットぼうを乗せている。持っているのは、小さなボストンバッグが一つだけ。身なりはそれだけだった。『探偵』と名乗ったわりには、簡素すぎる格好だ。

 年のころは、十三ほどに見える。身長は百五十センチほどだろうか。髪は耳にかかるほどで、暗めの青紫あおむらさき色をしている。目の色は、薄い紫。どこの国の人間かと黒瀧は思う。

「本物の『探偵』だと、わたしをうたがっていますか? 黒瀧巡査じゅんさ部長ぶちょう

 黒瀧は驚いた。階級は言っていないし、階級章も身に着けていない。

「……階級は言っていないはずだが? それに、今は制服を着ていないが」

「笹森警部補ではない人間がわたしの前に来たということは、彼より階級が下の方でしょう。

 警部補より下は巡査部長、巡査長、巡査となります。巡査長と巡査は主に交番勤務になりますので、残っているのは巡査部長ということです」

「なるほど……」

 黒瀧は素直な感想を漏らした。子供にしか見えないが、『探偵』であることは本物らしいと黒瀧は思った。

「あなた方が今まで捜査した事件の資料は、ここへ来るまでの飛行機の中で全て目を通しています。前任の『探偵』と完全に連絡が取れなくなったのが今から四か月ほど前の五月。その一月後の六月に、四家深弦は目立った証拠を残さないようになったとか」

「その通りです。協力者が現れたかと、こちらでは考えています」

『探偵』の言葉に、黒瀧は頷く。

「そうですか。指名手配のほうは?」

「そっちもすでにやっています。ですが、何も出てきていません」

「そうですか」

 黒瀧の言葉に、『探偵』はそれだけ言った。

「では、わたしの邪魔じゃまだけはしないでください」

「は?」

 とんきょうな顔をする黒瀧の横を、『探偵』は通り過ぎていく。流れるようなその行動に、黒瀧は『探偵』の背中を二度見する。

「ちょ、ちょっと待て。どこへ行く気だ」

 慌てて『探偵』の横に並ぶ。

「ついてこないでください。邪魔です」

「……」

 黒瀧は頭をがりがり掻く。これでは『探偵』とは名ばかりの、わがままな子供だ。一つ息を吐き、黒瀧は言った。

「……三週間前に見つかった被害者の家族が、ようやく話ができる状態になったそうだ。今から行くぞ」


 二人が訪問したのは、娘を無残な『作品』に変えられた被害者家族だ。

 その事件が起きたのは三週間前。被害者は小学一年生になったばかりの女の子だった。彼女は殺害された後、首を切り落とされ、花やぬいぐるみと一緒に、当時背負っていたランドセルに詰め込まれていたらしい。そして、それはある日突然、玄関の前に置かれていたとのことだ。

 チャイムを鳴らすと、夫と妻が出迎えてくれた。二人とも三十代ほどに見える。夫のほうが妻を支え、妻はハンカチを握りしめている。妻の目は真っ赤に腫れあがっている。

「急な訪問に応じていただきありがとうございます。ここで構いません」

 簡潔に礼を述べ、黒瀧は言葉を選びながら本題に入る。

「さっそくですが、発見した状況をもう一度詳しく聞いてもよろしいでしょうか」

 黒瀧が言うと、妻のほうが鼻をすすりながら答えた。

「……あれは本当に、思い返すだけでも寒気がするものでした。はじめ見た時は、娘のランドセルだけが置かれていたのかと思ったんです。けれど嫌な予感がして、ランドセルのカバーを開けてみると……」

 妻は耐えきれず、肩を震わせて静かに泣き始めた。

「すいません、これ以上は……」

 夫の方がすかさずフォローする。黒瀧も、これ以上は無理だなと話を切り上げようとしたとき、『探偵』が口をはさんできた。

「ところで、あなた方の娘さん。殺される理由に思い当たることは? こちらの被害者は小学生だと聞いています。たとえば、一般の女児じょじより肌を露出ろしゅつさせていたとか。学校内でいじめをしていたとか。そういうの、ないんですか?」

 夫婦の顔が、さあっと青ざめていくのを黒瀧は見た。

「で、出て行ってください!」

 妻が叫び、その場に崩れ落ちて泣き始める。

「帰ってくれ!」

 夫は怒りの形相ぎょうそうを浮かべ、靴下のまま玄関のタイルへ降りると、二人を外に押し出した。


「時間の無駄むだでしたね」

 黒瀧の横を歩く『探偵』が言った。さらに何件か聞き込みを終えた二人は、コインパーキングに停めた黒瀧の車へと戻っている。

「それ、思っても絶対に言うなよ……」

 黒瀧がため息まじりに返す。

「……警視庁に戻る前にもう一件行くぞ。先月見つかった遺体の発見者の一人だ」

「先月発見されたのは、女性の『作品』でしたね。切り落とされた首から上に、大量の薔薇ばらの花が飾られていたとか」

「ああ。その第一発見者だ。先月も笹森警部補と行ったんだがな。新たに思い出したこともあるかもしれない」

「そうですね。人の記憶というのは意外なところにも紐づけられていますから、どんなきっかけで思い出すか分かりません。ですが、期待はしないでおきます」

『探偵』は流暢りゅうちょうな日本語で、そう言い放った。


 十五分ほど車を走らせてやってきたのは中心地から少し離れた郊外だ。近くに車を止め、少し歩く。

 目の前のコンクリートでできた建物の前に立つと、黒瀧が玄関横のチャイムを鳴らす。

「……はい」

 扉を開けたのは四十代ほどの男である。男の上半身は裸で、下半身にはジーンズしか履いていない。くたびれた顔と、少しウェーブのかかった髪。男はくまの浮いた目を黒瀧に向ける。

「誰?」

「警視庁の黒瀧です。先月のことで、何か思い出したことはないかとうかがいました」

「ああ……あんたか」

 黒瀧が名乗ると、男は思い出したように言った。

 この男の名を、神凪健雄かんなぎたけおという。年は四十五。画家と名乗ってはいるが、その実績じっせきは鳴かず飛ばずだ。この建物は、健雄のアトリエである。

「思い出したことって言っても……先月のことは全部話したぞ」

 健雄はもしゃもしゃ頭を掻きながら言う。そのとき彼の目が、ようやく黒瀧の隣にいる『探偵』に向いた。

「……息子? なに、職場しょくば見学けんがくでもさせてんの。あんた娘しかいないって言ってなかったっけ」

「こっちは『探偵』です。四家深弦の事件に捜査協力をしていまして……」

「『探偵』? ふうん……」

 黒瀧が慌てて言うと、健雄はいぶかりながらも頷いた。黒瀧は話を戻す。

「それで、本日訪問したのは、先月のことをもう一度お聞きしたいと思って。先月の五月二十七日、発見したのは午後七時頃だとお聞きしましたが、それ以前のあなたの行動をもう一度初めから……」

「あのう」

 と、そこで黒瀧の言葉をさえぎって、女性が軽く手を上げながら割り込んだ。体に薄い毛布しかまとっていないその女性に、黒瀧は思わずぎょっとする。

 サングラスのようなものをかけて目元を隠しているその女性は、黒瀧に向けて言った。

「とりあえず、お話なら中に入ってしませんかね。外の光が、ちょっとまぶしいもんで」


 部屋の中に入った黒瀧は、ソファに座って健雄と向かい合っている。健雄は上半身裸だった格好から、紺色のシャツと紺色のジャケットを着ている。彼らがいる反対側には、健雄が描いた絵を見ている『探偵』と、先程の女性がいる。二人がいる場所には木製もくせいのイーゼルスタンドがいくつか置いてある。スタンドには、健雄が書き上げた絵がそれぞれ乗っている。

「話を聞く前に、あちらの女性とのご関係を伺っても? 先月にはいらっしゃらなかったですよね」

 黒瀧が、女性をちらりと見て言った。健雄も女性を見て答える。

「……あれはまあ、ちょっとした知り合いですよ。ここには毎日のように来てますが、先月は、病院にいたとかなんかでいなかったんです。事件のことも興味ないから、あいつに聞いても意味ないですよ」

「そうですか……」

「それより、あの日のことを一から話せ、ってことですよね。まるで刑事ドラマだ。ま、時間ならたっぷりあるんでいいですけど」

「では改めて、先月の被害者の発見時の様子をお聞きします。あなたは出かけた時に、被害者の遺体を発見したとおっしゃっていましたね」

「ええ。コンビニに煙草を買いにね。あれを見つけた時は正直、あんなものが作れるのかって思いましたよ。人間が、っていう意味と、人間で、っていう意味でね。

 死体で何かを作るなんて初めて見た。ゼロから何かを生み出す人間のはしくれとしてもね、あれは衝撃でしたよ……」

 彼らは話を進めている。

「ねえ、君。『探偵』って言ってたけど、日本人じゃないよね。どこから来たの?」

 一方いっぽう、女性は絵を見ていた『探偵』に話しかけていた。黒瀧が部屋を出なくていいと言ったので彼らと同じ空間にいるが、無関係な自分がソファにいる二人の会話をできるだけ聞かないようにとの配慮はいりょだ。

 女性はボウタイのついた黒のブラウスと、カジュアルなパンツに着替えている。服に包まれ、彼女のスレンダーな体格がさらに強調されている。

 女性の問いかけに『探偵』は淡々と答える。

「ここへ来る前はイギリスのロンドンで『探偵』の教育をほどこされました。それより以前の経歴や記憶は、わたしにはありません」

「教育? ってことは君、探偵学校かなんかの出身なの? 日本語上手だね。そこで教えてもらったの?」

「わたしは探偵学校ではなく、探偵集団に所属する『探偵』の一人です。世界中の言語を最初から頭に入れていますが、どこへ行っても、二週間もあればその国の言葉を完璧かんぺきに習得します。我々はそのように作られていますので。

 事前情報で足りないと判断した場合は、都度つど、不足分に触れて補填ほてんします。この国の言語はすでに完璧とも言えますが、漢字や平仮名、カタカナの混じるこの国の文章は、少々予想外でした。それらも習得するのは時間がかかりそうです」

「ふうん……」

『探偵』はすらすらと答えていく。『探偵』が言っていることに、女性が特に驚いている様子はない。

「ところでこの絵は、あの方が描いたのですか?」

 と、『探偵』が一つの絵を指さして聞いた。えがかれているのは赤の絵の具で強調された蝶が、さなぎから出ようとしている絵だった。

「うん。そうだよ。健雄さんが描いたの。タイトルは……『苦悶くもんは外への恐怖か』って言ってたなぁ。あたしにはよく分かんないけど」

「なるほど……」

『探偵』はその絵に改めて目を向ける。タイトル通り、蝶は安全なさなぎから危険な外に出ようとしている苦悶くもんを、空へと叫んでいるようだった。

「この数字にはどんな意味が?」

『探偵』は絵の右下あたりに目を向けていった。そこにはローマ字で『K.T』という健雄のサインの下に、『99』という数字が入っている。

「何かの意味が込められているようですが……なんなのでしょうか」

『探偵』は興味深そうにその数字をながめる。

「さあ? それは分かんない。あたしが聞いてあげようか?」

「お願いします」

「じゃ、今度来た時に教えてあげるね」

 そこで、絵についての話は終わった。『探偵』は絵から目を離した。

『探偵』はそばにある机の上に、乱雑に置かれている雑誌やらを見る。積まれた雑誌や新聞には全て、『四家深弦』の名前が入っている。

「あの雑誌や新聞は、あの方が集めたものですか?」

「ああ、うん。そうなんじゃないかな。先月からあったよ。ちょうど、健雄さんがあれを見つけたぐらいからかな」

「……なるほど」

 あの画家は『作品』を発見したことをきっかけに、四家深弦の記事や雑誌を集め始めたようだ。

 聞いたことは特筆とくひつして書き留めることでもない。『探偵』はそれで質問を終えた。絵に描かれていた数字も四家深弦逮捕に繋がることではないと判断する。なので『探偵』は、そのことはすぐに忘れた。


 話を終えた黒瀧と『探偵』が部屋を出る。

「今日はありがとうございました。また、何かあれば連絡してください」

「絵の一つでも買ってくれるんなら、毎日電話するんですけどね」

 火をつけた煙草を口にくわえている健雄は、黒瀧にそんな冗談を飛ばす。

 黒瀧は軽く笑うと、連れの女性に目をやった。

「あなたのお名前も伺ってよろしいでしょうか。身分証明書などもあれば、見せていただけますか」

「免許証は持ってないんで……保険証でいいですかね」

 女性は自分のバッグを取りに戻ると、財布の中から保険証を出して黒瀧に見せる。女性は黒瀧に言う。

です。多楓たかえで。仕事は……叔父おじの古本屋の手伝いです」

 黒瀧は女性の名前と職業を手帳に書き留める。

「あなたも、何かあれば連絡してください」

 黒瀧は、その女性に言う。

「どうも、ありがとうございました」

 礼を言うと、『探偵』と共に立ち去った。


「あのさ、健雄さん」

 健雄が扉を閉めると、楓が聞いた。

「なんだよ」

「いつもサインのほかに、絵に数字を入れてるけど、あれってどういう意味なの?」

「……なんだよ、急に」

「『探偵』の子がね、あたしに聞いてきたから」

「……」

 健雄は恥ずかしそうに頬をぽりぽりと掻いた。机まで行って灰皿に煙草を押し付けると、話し始めた。

「あのな……絵ってのは、時間が経つとまた別物になる。絵の具がこすれたり、げたりしてな。

 完成だけど、完璧じゃない。俺は、絵ってのをそう考えてる。く限り、完璧なものは作れねえ。

 100を完璧ってことにしても、俺の絵なんてまだまだだ。だけど少なからず、俺はそれで金を貰ってる。そういう奴がいる以上、下手な謙遜けんそんはできねえ。この数字にはな、そういう意味があるんだよ。

 完璧には絶対なれねえってことと、上達を忘れるな、謙遜をするなっていう、色んな意味を込めて、完璧の一歩手前の99ってわけだよ。

 あとはまあ、俺自身、絵を描くことっていうことに一生満足するなよっていう…………ああもう、言わせんなよ、馬鹿」

 健雄はそこまで言うと、照れ隠しのようにがしがしと頭を掻いた。

「ふうん。そんな理由だったんだ。てっきり、奥さんとの記念日とかかと思ってた」

「人に見せる絵に記念日を入れる馬鹿、いるかよ」

 健雄はぶっきらぼうに返す。

 楓は机に置いてあった雑誌を手に取った。表紙にはヴァイオリンを弾いている女性の写真が写っている。適当にページをめくっていく。

「この雑誌、表紙が奥さんだから買ったの? 『世界的ヴァイオリニストのおんぬきすずさん』……だって」

「うるせえな。たまたまだ」

「奥さん、昨日もテレビに出てたよね。高そうなドレス着てさ、音楽学校の生徒を指導してたよね」

「奥さんじゃねえ。もとよめだ。別れて五年だし、今更どうも思わねえ。離婚したのも話し合いの結果だ」

 健雄は雑誌を取り上げる。

「お前は他人だろ。首を突っ込んでくんな」

 この話はもう終わりだ、とでも言うように、取り上げた雑誌をごみ箱に放り投げる。

「ところでお前、先月に病院行ってたとか言ってたよな。なんかあったのかよ」

 健雄が話を変える。楓は答えた。

「ちょっと貧血でね。通りがかった人が救急車呼んでくれたの」

「……ふうん」

 言いながら、健雄は吸っていた煙草を灰皿に押し付ける。何かを察したような声色だが、それ以上は聞いてこない。

「ほかの男と会ってるかも、って疑わないんだね」

おとこあそびしてる奴は、こんなボロいとこに毎日来ねえよ」

 健雄はぶっきらぼうに返す。楓はうふふと嬉しそうに笑うと、

「ありがと。健雄さんのそういうところ、すっごく好きだよ」

 健雄の腹に腕を回し、彼の体に額を押し付ける。煙草の匂いと、恋人の温度を感じる。

「いつかあたしを一番にしてね。別れた奥さんよりも」

「うるせえ。あいつはそんなんじゃねえって言ってんだろ」

 健雄は頭をがりがり掻きながら言う。それを聞いて、嘘つき、と言いかける。この人の頭の中の片隅かたすみにでも、いまだ恋心を寄せている相手がいると思うだけでもムカつく。殺人が罪に問われないのならば、今すぐ殺しに行ってやりたいと思う。

 まだ会ったこともない女性への嫉妬しっとつのらせながら、彼女は健雄の胸の中で、彼の温度と煙草の匂いを感じていた。

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