第59話 In Fact

 藍沢の涙ながらの自白を聞きながら、俺はこう思っていた。


 ――どうでもいいな


 と。


 俺を騙したことも、

 藍沢が旧友と決別したことも

 この学校が歪曲した経緯についても


 全てどうでもよかった。

 

 きっと重要な事実ではあるのだろう。

 その場に際した誰もが、悲しみ悔いるべき事態であるのだろう。


 過去の事実や経緯から今を推測する行為はきっと正しい。失敗から学ぶという言葉があるように、過去は大きな財産だ。


 しかし、それらは全て過去である。

 過去は結局ただの情報でしかない。過去が「今」に活きることはあれど、過去が「今」を縛っていては本末転倒だ。


 そんな遺産を払拭したり清算したりするための行動は、何の意味もないと俺は思う。

 過去は俺たちの糧であって、楔ではない。形作り支えるものであっても、縛るものではない。


 俺には、藍沢が過去に囚われているように思えた。


 彼女の話ぶりから察するに、俺と昔の友達たちに相当な罪悪感を覚えているのだろう。とめどなくあふれる涙が彼女の綺麗な顔を伝っているのを見れば、それくらいのことはわかる。


 未熟な過去の自分への怒りや憎しみ、そしてそんな過去の自分によって形成された「今」の自分。

 憎悪の対象が自分自身であるというのがどれほど辛く苦しいことか、想像には難くない。


 けれど、けれどだ。

 それすらも俺にとってはどうでもいいことだ。


 他人だから、というと酷く人聞きの悪い言い方に聞こえるだろう。


 そういった誤解を避けるように言うとすれば、――


 俺にとってでもあり、彼女自身にとっても、

 どうでもいいことだと思ったのだ。


 彼女が過去を悔いていること自体、何の意味があるのかと俺は思う。


 失敗した。

 やらかした。

 取り返しのつかないことをした。


 で? だからどうした?

 

 次は失敗しなければいい。

 やらかさなければいい。

 取り返しがつかないことなんて、この世にはありはしない。


 取り返しがつかない、という考えは人間の愚かな知性が生み出した虚構でしかない。


 誰かが死のうと明日は来る。


 「死」ですら、人類の歩みの前には一息で掻き消えてしまう小さなものなのだ。

 

 であれば、誰かを殺めているわけでも罪を犯したわけでもない彼女は一体何を悔いているのか、俺には良く分からなかった。


 解けない問題を復習することに意味はあっても、解けないこと自体を後悔することに意味はない。


 藍沢の独白を聞きながら、俺はずっとそんな風に思っていた。適当に聞き流しているわけでも面倒だと思って話を聞いているわけでもない。真面目に、藍沢の心に寄り添う形になるよう善処しながら、話は聞いた。

 それでもやはり思うのだ。


 なぜ、どうでもいいと思えないのか、と。


 とはいえ、当人と向かい合ってそんなことを言えるほど俺は非道な人間ではない。


 そして何より、彼女の頬を伝う涙。

 夕日に反射する滴。

 情景が、俺の思考に交じり込む。


「・・・・・・・」


 過去を悔いてしまうことに意味はないと断言できる。

 だが、意味のないことをしたくなってしまうのもまた人間なのだろう。


 無意味だと分かっていようと、止められないのが人間なのだろう。


 どれだけ過去に絶望しようと、今を変えることはできない。


 過去は不変で、思いは無力だ。


 でも、それでも。


 脳裏をよぎる記憶。

 忘れてしまった感情。

 もう思い出せない情景。


 ・・・・・・。


 いずれ思い出すことも叶わなくなってしまう過去。

 なら、ちょっとくらいそんな過去に思いを馳せたって良いはずだ。


 ・・・・・・。


 もう二度と、俺は同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。


 藍沢。

 俺が力になってやる。

 その涙を、次の後悔で上塗りなんてさせない。


 無意味にも、そんなことを誓った。

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