第44話 日伊のカヴァレリスト

-イタリア:ローマ ヴェネツィア宮殿 世界地図の間-

1936年8月17日


 私の執務室に朝一で届けられた物は、スペイン内戦についてのことだった。


「ポルトガル軍約3万が義勇軍として反乱軍国粋スペイン側で参戦か…」


 報告書によると北部の反乱軍がアレバリリョ川に防衛ラインを引いた人民戦線政府軍に対して攻勢をかけている最中、ポルトガル義勇軍が側面を突いたらしい。この奇襲によって、人民戦線政府軍は敗走し、かなり後方の※①アビラの方まで撤退したみたいだね。


 史実でも※②サラザール政権下のポルトガルはスペインに義勇軍を派遣しているけど、私の記憶が正しければ、派遣されたのは2万人だった筈だから、恐らくローマ教皇が十字軍の要請をしたことによって、キリスト教徒の志願兵が増えた感じかな?やっぱり史実と違う事が起こると、その後の流れも変わるものだね。


-スペイン:グラナダ-

1936年8月18日


 連日続く人民戦線政府軍と民兵の波状攻撃に籠城する反乱軍は、休む間もなく戦い続けて疲弊していた。


 あと少しで人民戦線政府軍の勝利が見え始めた時、数十発の砲弾が人民戦線政府軍と民兵を襲った。砲撃が響いた方を見ると数十輌のL-60軽戦車が砲身から硝煙を出しながら、進軍して来るのが見える。


 更にその後ろを数百輌のL-3軽戦車やFIAT3000軽戦車、※③ランチア IZM装甲車とオートバイが砂煙を上げながら、進軍していた。


 彼らはCTV所属の機甲師団で、それを率いるのは第二次エチオピア戦争で功績を上げて昇進したメッセ少将だった。彼らは総司令官のロアッタ将軍からの命令で、その機動力を活かして僅か2日半でグラナダまで来たのだ。


 予定では後3日掛かるとされた援軍の襲来に籠城していた反乱軍は歓喜し、逆に暫くは援軍が来ないと思い込んでいた人民戦線政府軍と民兵は敵の援軍の襲来と数百輌の戦車と装甲車の群れに怖気付き、包囲網を解き総撤退した。


 そこに上空からイタリア空軍の戦闘機と爆撃機が機銃掃射と爆弾の雨を降らして、徹底的に人民戦線政府軍と敵の民兵を叩いた。


 その光景を見ていたメッセ少将は勝利を確信していた。それと同じく目の前の光景を見ていた人物がいた。その人物の名前は※④西竹一、バロン西と称される大日本帝国の観戦武官だ。


 彼はベルリンオリンピックを終えた後、駐独大使の※⑤武者小路公共むしゃのこうじきんともからの要請で急遽、スペインに駐在武官として派遣されていた。


「はやり騎兵の機械化は急務か…」


「貴方もそう思いますか」


 後ろから英語で話しかけられて振り返る。そこには馬に乗ったイタリア将校服を着た軍人がいた。しかし、彼はその顔に見覚えがあった。


「まさか、貴方は1929年の国際馬術大会で優勝したベットーニさんですか!?」


「ええ、そうですが...あぁ貴方は、前回のロサンゼルスオリンピックで優勝したバロン西ではありませんか、お久しぶりですね。今日は※⑥ウラヌスと一緒に居ないのですか?」


「出来れば一緒に居たいところですが、現在は職務中でして...」


「ああ、そうでしたか大変ですね。私もエチオピアから帰って来たばっかりなのにスペインに派遣されて、困ったもんですよ」


「そうでしたか」


「長居はできませんが、同じ軍人であり馬術選手なので少し話し合いませんか?」


「面白そうですね。貴方とは話したいと思っていましたから」


 後にこの事を聞かれた2人は実に有意義な時間だったと語ったそうな。

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イタリア王国軍記〜美少女ムッソリーニに転生したのでイタリアを改革しイタリア軍にやる気を出させイタリアを勝利に導く〜を

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補足説明(ウィキペディア参考)

①アビラ

スペイン・カスティーリャ・イ・レオン州アビラ県の県都。「城壁と聖人の町」という別称を持つ町。ギリシア神話の英雄ヘラクレスによって町が建設された伝承が存在する。旧市街と

市壁外の教会群は世界遺産にも登録されている。


②サラザール政権

ポルトガルの1932年〜1968年までのアントニオ・サラザールの独裁政権。保守権威主義的な長期独裁政権である。国家防衛警察(PIDE)と称する秘密警察を創設した。その他には教育、特に高等教育は重視されず、投資は少なかったものの初等教育は全ての国民に与えられており、教育インフラにはしっかりと投資が行われ、多くの学校がつくられた。


③ランチア IZM装甲車

第一次世界大戦中に開発された四輪装甲車。旧式化が進んでいたが、スペイン内戦・第二次世界大戦まで使われた。生産数は120輌。


全長:5.70 m

全幅:1.94 m

全高:2.40 m

重量:4.2 t

乗員数:6 名

装甲:9 mm

主武装:サン・エティエンヌ8mm機関銃1907年式(St. Etienne Mle 1907)×3

副武装:ショーシャ軽機関銃×4

速度:60 km/h

エンジン:ランチア4940cc 4気筒液冷ガソリン

35 HP

行動距離:300 km


④西竹一

大日本帝国の陸軍軍人。最高階級は大佐。1932年ロサンゼルスオリンピックでの馬術競技で金メダルを獲得した。馬術競技で日本人が獲得した唯一のメダル。人種差別で排斥されていた在米日本人や日系アメリカ人から人気を集め、社交界ではバロン西との愛称で呼ばれた。第二次世界大戦の硫黄島の戦いで戦車第26連隊長として戦死。


武者小路公共むしゃのこうじきんとも

華族の武者小路子爵家10代目当主で作家・武者小路実篤の兄。1907年に外務省に入省。上海総領事館勤務した後ルーマニア兼ユーゴスラビア公使、デンマーク兼スウェーデン公使などを経て1933年に駐トルコ大使に翌年1934年駐独大使に就任した。防共協定締結の交渉に当たり、日本側全権として同協定に調印した。戦後GHQから公職追放された後、1951年に日独協会会長に就任した。


⑥ウラヌス

西丈一の愛馬。フランス生まれで品種はアングロノルマン。1930年4月、西がイタリアに滞在中に同僚の今村安の連絡で、馬の持ち主がウラヌスを乗りこなせず売りたがっていたことを西に伝えたところ、それなら自分が乗ってみようと6,500伊リラ(当時のレートだと100英ポンド=1,000日本円)で購入した。額にある星と、体高(肩までの高さ)が181cmもある大きな馬体。性格は激しかったらしく西以外は誰も乗りこなせなかったという。ロサンゼルスオリンピックでは、160cmの障害を飛び越える際にみずから馬体をよじりミスを防いだ逸話が残っている。引退後は、馬事公苑にて余生を送っていたが、太平洋戦争の硫黄島の戦いで西が戦死すると、後を追うように病死した。戦後、西が硫黄島で最期を遂げるまで身につけていたウラヌスのたてがみがアメリカで発見され、北海道十勝本別町歴史民俗資料館に収められている。

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